ヨシュア記 第6〜9章研究解読



第6章 第6章20節
第7章6節 第7章19〜26節
第8章
第9章22〜23節



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2004/ 5/ 1  第7章6節、第7章19〜26節、第8章、第9章22〜23節 UP
2004/ 4/27  第6章、第6章20節 UP



第6章


 エリコの住民は、イスラエルがヨルダンの東に住むアモリ人の王国を破壊したことを十分知っていたので、城壁で囲まれた街を閉じました。神がエリコの防御を崩すのに、七の数字を一貫して用いたことにはそれ相当の意義があります。それはモーセの律法全体を通して、七と言う数字が聖約を表すのに非常に頻繁に用いられていたからです。この数字が聖約と関連して用いられるのは、7は完成と成就、完全と結びつけられているという概念があるからです。エリコの征服と7という数字を深く関係付けることにより、神はイスラエルの成功はエホバとの聖約のおかげであって、イスラエル自身の力ではないことを教えました。

 吹き鳴らしたラッパは、ヘブライ語で「ショーファール」と言って、雄羊の角です(4〜6節)。学者たちは、ショーファールがイスラエル最古の楽器であったという点で、大体の意見が一致しています。角は熱で平らにした後に両端が曲げられ、非常に異質の、聞いてすぐわかる音がでました。古代から、敵の接近を警告して攻撃の合図、あるいは戦場から軍隊を解散する合図として、ラッパが使われています。

 契約の箱が幕屋の至聖所に神が存在することを象徴したように、ラッパは、町を攻め囲んだときその先頭に立って、軍隊の指揮者を象徴しています(4、6〜8節)。これは単なる軍隊同士の戦いではなく、カナンはイスラエルの神そのものにによって滅ぼされることになっていました。このことは、契約の箱の存在によって、印象的にイスラエルに教えられています。また、斥候に協力したラハブとの誓いは、細かい点にわたるまでことごとく守るように深い配慮が払われました。




第6章20節

20節 そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。


 ヨシュアたちが起こしたこの奇跡は、幾世紀にもわたって議論されてきました。しかし、現代科学においても決定的な説は確立されていません。ある教会役員はこの奇跡について次のように述べています。

 「イスラエル人がエリコを取り囲んだときに、主の軍隊の将とそれにつき従う天軍が現れたこと、ならびに人間の軍隊の信仰と服従に支えられた天軍の超人間的な力の前に、エリコの壁が崩れ落ちたことを信じられるではないか。人間が自然の力を利用する最も新しくかつ最も高度な業績は、霊の働きの状態に近づいている。数千キロのかなたの時計が時を刻む音を数え、ほんの当たり前の音調で話してもそれが大陸を越えた向こうで聞こえる。東半球で出した信号が、どんなに大洋が怒号していても西半球で了解できる、電気を各家庭に引いて熱や光として働かせる、空中を飛んで旅行し海の中を潜って行く、化学エネルギーと原子エネルギーとを吾人の意のままに使う、これらはまことに奇跡ではないか。

 このようなことが実際にあり得ようとは、それが現実に完成されるまでは信じられなかったであろう。さりながら、これらのこととそのほかすべての奇跡とは神の法則であるところの自然の法則の働きによって成就するのである。」




第7章6節

6節 そのためヨシュアは衣服を裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で、夕方まで地に伏し、ちりをかぶった。


 頭の上にちりを置くという行為は、荒布をまとって灰の中に座るということと同じ象徴的な意味を持っています。これは、深い悔恨、真実の謙遜、心底からの悔い改めのしるしです。また神と比べれば人の立つ基盤は低いものであることも象徴しています(創世記37章34節、ヨブ記2章12節、哀歌2章10節)。




第7章19〜26節

19節 その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。
21節 わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、ほしくなり、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。
25節 そしてヨシュアは言った、「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」。やがてすべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し、また彼の家族をも石で撃ち殺し、火をもって焼いた。


 旧約聖書に記されている幾つかの死や処刑に関しては、詳細な背景が聖書内に記されていない場合があるので、単に残虐な神の書であると思っている人も少なくありません。それを理解するには、当時の習慣や状況を詳しく調べるとともに、その立場に自分を置いて考える必要があります。アカンの死も同様であって、アカンがエリコの町からの戦利品の一部を勝手に自分の物としたことに対して、取られた処置も一見すると厳しすぎるように見えます。しかし、現世の体の死は、他の人にとっても罪を犯した人にとっても慈悲深いものである場合があります(レビ記24章17節)。人が犯すある罪は非常に重大な影響を社会に及ぼすことがあるので、時として罪滅ぼしに罪人の命を求める場合がありました。アカンの場合は、アカンが道を踏み外したために36人の命が失われています(7章5節)。

 しかしここで重要なことは、個人の肉体の死よりも、「イスラエルの霊の死」の方がはるかに深刻であるということです。イスラエルがあらゆることにおいて神に従わなくなることは、カナンの地を失うことを意味していました。アカンが自分から告白したことを考えると、彼がこのことを理解していたことは明らかです。




第8章


 イスラエルの人々がヨルダンを渡った後に征服した第2の都市「アイ」は、エリコ以上に他の都市を征服するときの範例となりました。アイを取るやいなや、ヨシュアはイスラエルをエバル山に移動させてそこに祭壇を築き、エバル山とゲリジム山から神の祝福とのろいを宣言するようにというモーセの指示を遂行しました(8章30〜35節、申命記27章)。




第9章22〜23節

22節 ヨシュアは彼らを呼び寄せて言った、「あなたがたは、われわれのうちに住みながら、なぜ『われわれはあなたがたからは遠く離れている』と言って、われわれをだましたのか。
23節 それであなたがたは今のろわれ、奴隷となってわたしの神の家のために、たきぎを切り、水をくむものが、絶えずあなたがたのうちから出るであろう」。


 ギベオンの民は(9章3節)、悪賢い手段で巧みにイスラエルとの同盟関係を結んで自分たちの命を救いますが、結局は永久にイスラエルの奴隷となりました。またモーセイスラエル人カナン人と契約を結ばないようにと警告をしていました(申命記7章2節)。それでヨシュアがこの欺瞞を発見したときに非常に憤ったということが説明できます。しかし、彼らとの契約を交わしてしまった後なので(9章11〜15節)、ヨシュアはそれを尊重して、ギベオンの民を殺すことはせずに奴隷としました。



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