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2004/ 4/ 8  序文追加
2000/ 9/ 4  序文追加


 ヨブは非常な苦しみを受けながらも、忠実に神への信仰の中に踏みとどまった義人です。ヨブ記の記された年代は正確には分かっていませんが、紀元前9世紀頃に書かれたものと考えられています。この書はヨブの苦難についての記録であって、ヨブの苦しみやヨブの家族や財産の喪失の理由が何かという問いに対して、すべての答えを与えているわけではありません。このヨブ記が示す大事なことは


苦難は必ずしもその人が罪を犯した結果として来るものではないということです。


 神は苦難を罰としてだけでなく、経験や訓練や教育を与えるためにも使うということが書かれています。
 ヨブ記は4部に分けられています。
 第1〜2章はヨブ記全体についてです。
 第3〜31章には、ヨブと3人の友人の間で交わされた対話が記録されています。
 第32〜37章には、4人目の友人のエリフの語ったことが載っていますが、このエリフは前の3人とは異なる理由を挙げてヨブを非難しています。
 第38〜42章はこの書の結びであって、ヨブは自分の生き方が初めから正しいものであったという確認を得ています。

  ヨブ記は、神について正しい知識を持って、神に受け入れられる生活をするなら、誰でも試練によく耐えることができるということを彼の体験をもって強く表わしています。ヨブの不屈の信仰は、「神がわたしを殺しても、わたしは神を信頼する」という言葉によく表れていて、ヨブについては、エゼキエル14章14節、新約聖書ヤコブの福音書5章11節でも言及されています。




 多くの聖書学者はヨブ記をプロローグ、詩、エピローグの3つの部分に分けています。第1章と2章はプロローグであり、状況設定がされて物語が始まっています。第3章から42章6節までは「詩」であり、ヘブル語の詩文体で書かれており、3人の友人の意見とヨブの応答、それにヨブの受けた苦難の理由をエリパズやビルダテ、ゾパルよりも的確に説くことができると自負する青年エリフの説教が含まれています。最後の11節はエピローグであり、最終的な神の祝福と恵みについて簡潔に記されていて、この部分はプロローグと同様に、散文体で書かれてあります。


 新聞に次のような見出しがありました。「旅客機山中に墜落、全員死亡」。多くの人が一斉に声を上げて言いました。「なぜ神はこのような恐ろしい事故が起るままにされたのだろうか」。赤信号を無視した車が他の車に追突して、死者が出ました。なぜ神は防がれなかったのでしょうか。若い母親がまだ小さい子供を残して病気で亡くなりました。なぜ神は母親を癒さなかったのでしょうか。ある幼い子供が溺死し、別の子供は車にはねられました。なぜでしょうか。ある男性は階段の途中で発作を起して急死し、床の上に倒れているところを発見されました。その奥さんは激しく嘆き悲しんで言いました。「なぜ神は私をこんな目に遇わせるのですか。まだ父親が必要な子供のことを考えてはくださらないのですか」。

 神を愛し、神に仕えている人々が苦難に遭うのはなぜでしょうか。ヨブ記1章1節の中で、神はヨブのことを「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者」と呼んでいます。では、神は何故、サタンが義人を苦しめるのを許しているのでしょうか。悲劇の責任は誰にあるでしょうか。飛行機を山中に墜落させたのは、神だったのでしょうか。神が交通事故を引き起こしたのでしょうか。よちよち歩きの幼児を水路に誘い込んだのは、あるいは発作を起させたのは、神なのでしょうか。このような質問に対して、ある教会指導者は次のように述べています。

 「答えられるなら、答えて頂きたい。私には答えられない。神が私たちの生活を支配しておられることはわかっていても、どこまでを神が引き起こされ、許しておられるのか、私にはわからないからである。この質問に対する答えがどうであれ、確かなことがある。主はこれらの悲劇を防ぐ力を持っておられたか。答えは「然り」である。確かに、主は全能の御方であり、御心にかなうならば、私たちの生活を支配し、苦痛を和らげ、すべての不慮の災害を防ぎ、すべての飛行機や車を動かし、私たちに食物を与え、守り、労苦、病気、さらには死からさえも私たちを救うことができる。しかし、主はそうなさらないのである。」


 ヨブ記は、「義人が何故苦難に遭うのか」という質問を扱った文学書の傑作です。この書から多くの教えを学ぶことができますが、何にも増して明快な教訓は、ヨブ自身が気づいたように、


苦難が過ぎ去った後、神はヨブの終わりを初めよりも多く恵まれた(42章12節)


というものです。



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 ブリガム・ヤング大学の古代聖文学助教授キース・H・メサービーは、「ヨブ−それでもなおわたしは主を信頼しよう」と題する公演を行いました。

 「今日わたしがお話することは、ヨブ記の内容の系統的な分析よりも、おもにヨブ記に対するわたし自身の見解です。ヨブ記は実に優れた書であり、最高の評価が数多く寄せられています。例えばビクトル・ユーゴーはこう記しています。

 『ヨブ記は人の心を描いた作品の中で最高傑作といえるものであろう。(ヘンリー・H・ハレー,Pocket Bible Handbook P232)』

 トーマス・カーライルは次のように述べています。

 『ヨブ記ついての様々な学説は別にして、わたしはこの書があらゆる作品の中で最も優れたものの一つであると思う。人の運命と地上における神の御心、決して尽きることのないこの問題に対する最古の声明である。これに匹敵する文学作品は一つもない。(ヘンリー・H・ハレー,Pocket Bible Handbook P232)』

 旧約聖書学者のH・H・ローリーは、このように述べています。

 『ヨブ記は旧約聖書の中で最高の知恵文学であり、世界的な芸術作品の一つである。(The Growyh of the Old Testament P143)』

 ヨブ記は『信仰講和(Lectures on Faith)』に書かれている一つの教えを鮮やかに描き出していると思います。すなわち、人生の最後まで忠実に堪え忍ぶには、次の3つのことを知らなければなりません。


神が存在されること、神がその性格と属性において完全であられること、そして自分の進んでいる道が主の御心にかなっていることです


 この要素のどれが欠けても、信仰の完全な土台は失われてしまいます。ヨブは信仰の人として尊敬されていますが、彼の生涯の中からこれらの要素に当たるものを探してみましょう。

 ヨブ記の冒頭に、ヨブについてこう記されています。『そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった(1章1節)』。そして主御自身も、ヨブが正しい人であることを同じような言葉を用いて認めておられます(章8節)。ヨブ記の著者と主は、ヨブの正しさを率直に受け入れていますが、これはヨブ記の根本に潜む問いかけ『なぜ義人が苦難を受けるか』 を十分に理解する上で重要なことです。この正しさがサタンとの論争点になります。サタンは冷笑的な態度で、ヨブの正しい行いや敬虔さは、主が彼を祝福し、裕福で恵まれた生活を与えられたからだと主張し、そのような祝福を受けて主に仕えない者がいるでしょうか、と問いかけます。

 こうした質問をするサタンは、少しも進歩していないようです。サタンは後に、肉体をまとった『言(ことば)』 すなわち主を高い山の上に連れて行き、『言』がヨブの忠誠を勝ち得た方法を思い出して、主を自分に屈服させようとします。世のすべての国々とその栄華を見せて、寝る場所もない主に次の質問をしました。『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう(マタイ4章8〜9節)』。そのようなときに自分の持っているのは本物のコインではないと知ったら、サタンはどれほど落胆することでしょうか。主は『サタンよ、退け。「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみ仕えよ(マタイ4章10節)」と書いてある』と宣言されました。

 皮肉なことにその主が、『見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない(ヨブ1章12節)と言って、サタンの手にヨブを渡されたのです。ある日、ヨブは財産の基盤となる牛やろば、僕、羊、らくだを失って貧しくなり、挙句は子供たちまで失ってしまいました。このような不幸の嵐に対して、ヨブはイエスのように従順に対応します。『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな(1章21節)」。そしてこのように記されています。『すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった(1章22節)』。

 サタンは、ヨブにとって最も大切なのは財産や子孫であると考えていたのです。ところがヨブにとって人生の本当の意義は、それらの本質をはるかに超越したところにあったのです・・・。ヨブは完璧な信仰をもって己を全うし、誠実な態度を保ちました(2章3節)。

 最後にサタンは、ヨブが忠誠を尽くす理由をさらに探り、肉体的な苦痛を与えれば最後には主から離れる、と考えました。『皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう(2章4〜5節)』。それに対して、主は簡潔に答えられました。『見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ(2章6節)』。そこでサタンはその力をもってヨブを撃ち、ひどいはれもので悩ませました。ヨブのあまりに惨めな姿に、彼の妻は、神をのろって死になさいと言いました。

 しかしヨブは雄々しくこう答えます。『われわれは神から幸をうけるのだから、災いをもうけるべきではないか』。著者は簡潔にこうまとめています。『すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった(2章10節)』。こうしてサタンの主張の誤りであることがはっきりしました。ヨブは信仰を固く保ち、主の言葉の正しさが立証されたのです。

 しかしやがて明らかになるように、ヨブの苦闘は終わったのではありません。試練は前にも増して厳しく、単に財産を失い、子供たちに先立たれ、一日中苦痛に悩まされ、試しが過ぎれば苦しみから解放されるというものではなかったのです。時間とともに苦痛が激しくなり、失望と挫折感を深めていったに違いありません。ヨブは極度の緊張によって気をくじかれ、神から離れてしまうかどうかを試されていたのです。ヨブは最初の試練には立派に耐えましたが、次々と襲い来る荒波に日常生活のすべてがのみ込まれても、耐えていけるでしょうか。この質問に、初めは悪魔もヨブも答えを出せませんでした。

 そこで、身も心も惨めな状態になるまで、時間をかけてヨブの内面的な強さが試されることになったのです。ヨブは非常に惨めな状態に陥り、死でさえも慰めと自由を与えてくれる慕わしい友のように思えるほどでした。このときのヨブの心の状態を想像できるでしょうか。恐らく、だれにもできないのではないでしょうか。しかし、一つだけ明らかなことがあります。それは、


ヨブの気持ちを理解するには、ヨブ自身の観点から彼の人生を見詰めなければならない


ということです。ヨブが心を開いて、過去の恵まれた状態と現在の惨めな状態を生々しく対比して見せてくれたおかげで、わたしたちにもそれが可能になりました。

 著者は以前のヨブについて、『東の人々のうちで最も大いなる者であった』と記しています。その後、ヨブは深い悲しみの中で、過ぎし日々のことを懐かしく思い返し、こう言いました。『神がわたしを守ってくださった日のようであったらよいのだが。あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、彼の光りによってわたしは暗やみを歩んだ』。当時の若人も老人も、諸侯も貴族も、すべての人がヨブに敬意を表していました。社会のあらゆる階層の人から尊敬され、しばしば助言を求められ、しかもその助言に言葉を重ねる者はいませんでした。そのような環境の中で、ヨブは水のほとりに張った根のように自分が安泰であると感じて、深い安らぎを得ていました。

 ヨブの日は砂のように多くなり、人々の頭として座し、自分の巣の中で栄光に包まれて安らかに死ぬはずでした(29章2〜11、18〜20節)。ところが事態が変わりました。すでにお話したように、財産と健康と子孫を失ったのです。しかも、次々に襲い来る不幸の波にヨブはさらに傷つき、死を迎えるまで、苦痛に満ちた生活から解放されそうもありません。では、何がヨブを苦しめていたのでしょうか。

 第1に、ヨブの苦しみを知るには、ヨブの受けた肉体的な苦痛を理解しなければなりません。ある人はその症状から、ヨブは像皮病にかかっていると述べています。この病気の症状である苦痛を伴なう腫瘍が『ヨブの全身を襲い、膿胞(のうほう)ができた。これはとてもかゆく、ヨブは焼物の破片でそれをかいていたほどである。ヨブの顔は醜くゆがみ、友達が確認できないほどに変わっていた。そのただれた肉には、うじと土くれが付き(7章5節)吐く息と体から出る悪臭のために友達も顔を背けるほどであった。そして社会から見捨てられた人やらい病人が住んでいる郊外の隔離所に逃れて住んでいた。苦痛はやむことなく続き(30章17、30節)、いつも悪夢に悩まされた(7章14節)。「(The Westminister Study Edition of the Holy Bible)『ウェストミンスター研究版聖書p.641』」

 第2に、以前は若人や老人、君たる者、尊い者がこぞってヨブに敬意を表していたのに、今では、社会から締め出された人、町外れに住む人、やぶや谷間、洞窟で生活する人までが、ヨブをののしっていることです。

 ヨブは次のように語っています。『しかし今はわたしよりも年若い者が、かえってわたしをあざ笑う。彼らの父はわたしが卑しめて、群れの犬と一緒にさえしなかった者だ。・・・彼らは人々の中から追いだされ、盗びとを追うように、人々は彼らを追い呼ばわる。・・・彼らは愚かな者の子、また卑しい者の子であって、国から追いだされた者だ。それなのに、わたしは今彼らの歌となり、彼らの笑い草となった。彼らはわたしをいとい、遠くわたしをはなれ、わたしの顔につばきすることも、ためらわない。神がわたしの綱を解いて、わたしを卑しめられたので、彼らもわたしの前に慎みを捨てた。このともがらはわたしの右に立ち上がり、わたしを追いのけ、わたしにむかって滅びの道を築く。彼らはわたしの道をこわし、わたしの災いを促す(30章1、5、8〜13節)。』

 繁栄と富、また安楽な生活を失うのと、健康を損ね、苦痛と惨めな思いに日ごとさいなまれるのは別のことです。しかし、明らかにされていない何らかの理由によって人生の危機に瀕し、ヨブはこれらのものに勝るとも劣らない大切なものを失ってしまいました。すなわち、親しい友や愛する親類から見捨てられたのです。彼らはこの試練のときに、ヨブの周りに集まっていました。しかし妙な話ですが、何の助けにもなっていなかったのです。こうして、ヨブは困窮した中にただ一人たたずみ、試練の中で同情を受けることさえできませんでした。そして、ここで再び、自分と友との間を裂かれたのは主であると考えました。

 『彼はわたしの兄弟たちをわたしから遠く離れさせられた。わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、わたしのはしためらはわたしを他人のように思い、わたしは彼らの目に他国人となった。わたしがしもべを呼んでも、彼は答えず、わたしは口をもって彼に請わなければならない。わたしの息はわが妻にいとわれ、わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。わらべたちさえもわたしを侮り、わたしが起き上がれば、わたしをあざける。親しい人々は皆わたしをいみきらい、わたしの愛した人々はわたしにそむいた。わたしの骨は皮と肉につき、わたしはわずかに歯の皮をもってのがれた。わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ、神のみ手がわたしを打ったからである。あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め〔る〕のか(19章13〜22節)。』

 ヨブの妻でさえ希望を失い、慰めや助けを与えることも忘れて、『神をのろって死になさい』とあざけりました。このような状況に置かれ、『慰めも助けなき』非常な苦しみと試練の中で多くの人々は、『主よ神よ、われとともにおりたまえ』と嘆願してきました。主の恵みのほかに、悪魔の力を退けることのできるものがあるでしょうか。ヨブも同じです。かつては主のともしびがヨブの頭の上に輝き、ヨブはその光によって暗闇の中を歩んでいたのです。そして『神のしたしみ』がいつもヨブの天幕の上にありました(21章3〜5節)。ヨブはこの苦悩の中でも、再び主に心を向けることができたのです。

 ・・・しかし、天は黙していました。わたしたちが理解しているように、


ここにも正しい理由があって、沈黙そのものが一つの試練になったのです


これはヨブにどのような苦悩をもたらしたでしょうか。重苦しい闇の中で、ヨブはそのすさまじい暗黒におびえ、正しい道からそれることを恐れていました。魂の救いを求めるヨブの苦悶に満ちた嘆願を聞いてください。

 ヨブは『なぜ、なぜ、なぜ』と幾ら問いかけても返事のない質問に、主が答えてくださることを願っていました。・・・『なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか(13章20〜24節)』。『見よ、わたしが「暴虐」と叫んでも答えられず、助けを呼び求めても、さばきはない。彼はわたしの道にかきをめぐらして、越えることのできないようにし、わたしの行く道に暗やみを置かれた(19章6〜8節)』。『どうか彼が人のために神と弁論し、人とその友との間をさばいてくれるように(16章21節)』。『どうか、彼を訪ねてどこで会えるかを知り、そのみ座に至ることができるように。わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、口をきわめて議論するであろう。わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、わたしに言われる所を悟ろう。彼は大いなる力をもって、わたしと争われるであろうか、いな、かえってわたしを顧みられるであろう。

 かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。そうすれば、わたしはわたしをさばく者から永久に救われるであろう。見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に訪ねても、会うことができない。右のほうに向かっても、見ることができない(23章3〜9節)』。

 ヨブは自分でも理解できないままに、財産や家族、健康を奪われて激しい苦しみの日々を送り、さらに友人や親戚からの精神的、霊的な支えも奪われ、最後には、最大の慰め主である主の支えまで奪われてしまったことに気づきます。どの損失が最も痛手であったのかヨブに訪ねた人はいないようです。しかし、少なくとも初めのうちは、ヨブも主が与え、主がとられたのだ』と言うことができました。したがって、最大の損失と困苦に見舞われたのは、心の叫びに主がこたえてくださらないと悟ったときではないかと思われます・・・。

 こうしたヨブの思いは、肉体的、霊的、精神的な苦しみの表れであり、この心情を理解すれば、死を大きな慰めと感じたヨブの気持ちも理解できるでしょう。


ここで注意すべき点は、ヨブが決して自殺を企てはしなかったということです。死を待ち望んでいただけでした


 そこへヨブを慰めようとする3人の友が登場します。3人は立派なことに、ヨブに敬意を表し、彼が口を開くまで黙していました。ヨブの最初の言葉には、彼がどれほど死を願っているかが表れています。死に対する抑圧された強い願望を抱きながら、これまでかなえられずにきたのです・・・(ヨブ6章8〜11節)。

 自分の心を打ち明けて幾分気持ちが楽になったヨブに、最初の見舞い客が言葉をかけ、現在の苦難をもたらしたものが何か説いていきます。その言葉の煩わしさに、ヨブはついにこう言いました。『あなたがたは皆人を慰めようとして、かえって人を煩わす者だ』。そして、自分がどんなに苦しんでいるかを伝えようとしますが、3人はそれを理解せず、ヨブの叫びを拒絶します。また、現在の苦難はヨブが神を捨てたためにもたらされたと推測し、神から懲らしめを受けていると結論づけます。そして、もう一度神の恵みにあずかりたいと思うなら、悔い改めが必要だと命じるのです。ヨブは自分に罪がないと確信しているので、罪の汚名を着せられて憤慨します。


盲目的な3人が語ったのは、ヨブに必要なことではなく、自分たちに必要なことだけ


でした。ヨブが潔白であることを主張すると、彼らはそれを独善であると非難し、独り善がりの生み出す自己満足からヨブを断ち切ろうと努めます。こうした相互の誤解により、最後にはヨブも友人たちもともに失意を味わうことになります。

 最初に罪を告発したのはエリパズです。彼は穏やかな口調で話を始めますが、終わりにはヨブを具体的な罪に定めました。その罪たるや、ヨブの人格を知っている人には、とても信じられないものでした。3人の友は、ヨブがいつも『衰えた手を強くし・・・つまづく者をたすけ起し、かよわいひざを強くした(4章3〜4節)』と述べることにより、以前にヨブが人々に与えていたような助けを自分たちもヨブに対して与えていると感じました。しかし、エリパズは心の中で、この言葉によってほんとうに必要なことを気づかせたいと思いました。すなわち、ヨブに彼自身の立場を正確に評価させようとしたのです。

 エリパズこう語っています。『考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる(4章7〜9節)』。エリパズ心の中で、ヨブが神の前から絶たれてそのいぶきの怒りの息に触れたと確信したのです。この暗示は、ヨブにもはっきりと分かりました。

 『刈り入れの律法』 すなわち原因と結果の法則が正しいことは認めますが、


結果からその原因を推理し、ヨブの受けているような結果をもたらすのは主の教えに調和しない生活だけであると結論づけるのは、読者であるわたしたちをはじめ、主、サタン、ヨブの目にも、正しくないことは明らかです


 この論拠の薄弱な判断が、3人の勧告を的外れのものにしています。その勧告がヨブに与えた問題はそれだけではありません。ヨブは彼らの慰めの言葉によって二重の苦しみを受けます。まず、ヨブの立場を真に理解してくれる人から受けるはずの、最も必要な助けを失いました。さらに、人を困惑させる当てつけがましい批判に耳を傾けるように強いられました。その批判は、すでに絶望の日々を送っている人の心をさらに苦しめ、個人の尊厳を傷つけるものでした。エリパズが最後にヨブに与えた勧告は、謙遜になって自分の命を神にゆだね、その懲らしめを見くびってはならない、というものでした。そうすれば、主が憐れんで傷を癒してくださるというのです。まさに、人の心をいらだたせる慰めです。

 ヨブは別の面からもコミュニケーションを図ろうとします。少しでも自分の気持ちを理解してもらいたいと思い、どれほど心が傷ついているか話し始めました。

 『どうかわたしの憤りが正しく量られ、同時にわたしの災いも、はかりにかけられるように。そうすれば、これは海の砂よりも重いに相違ない(6章2〜3節)』。

 そして、それまで主に尋ねてきたことを今度は3人に問いかけます。ヨブをほんとうに助けたいと思う気持ちがあるならば、3人は再び神の恵みにあずかるには何をすべきなのかを明確に示すべきでした。『わたしに教えよ、そうすればわたしは黙るであろう。わたしの誤っている所をわたしに悟らせよ。正しい言葉はいかに力あるものか。しかしあなたがたの戒めは何を戒めるのか(6章24〜25節)』。ヨブは3人が問題の本質を理解していないことを知っていました。そこで、誠実な態度で彼の置かれている苦境をはっきりと理解するように求めたのです。

 ビルダデの遠回しの言葉(8章2〜6節)とヨブが展開した弁明(9〜10章)の後に、ゾパルが討論に割って入り、言葉が多ければ正しいとされるのだろうかと反論します。ゾパルは、ヨブの弁明が合理化にすぎないと考えただけでなく、人を侮り欺いていると非難しました。『あなたのむなしき言葉は人を沈黙させるだろうか。あなたがあざけるとき、人はあなたを恥じさせないだろうか。あなたは言う、「わたしの教えは正しい、わたしは神の目に潔い」と。どうぞ神が言葉を出し、あなたにむかってくちびるを開き、知恵の秘密をあなたに示されるように。神はさまざまの知識をもたれるからである。それであなたは知るがよい、髪はあなたの罪よりも軽くあなたを罰せられることを(11章3〜6節)』。

 ゾパルは一人の友として、エリパズがヨブの傷つきやすい心に突き刺した刀を、進んでねじ込んだようです。ゾパルはこう語っています。心を正しくして神に祈れ、『もしあなたの手に不義があるなら、それを遠く去れ(11章13〜20節)』。ゾパルの残りの発言を採り上げる時間はありません。ヨブは、自分は高潔な生活をし、正しい道を歩んできたと主張します。もし彼らから勧告されたことを行う必要があって、右または左に曲がるとすればね、ヨブは真理から逸脱してしまうでしょう。


ヨブが主と友人たちに正しい指示を求めた末に悟ったことは、主が黙しておられることと、友人たちが多くの言葉を語ってもヨブの立場を誤解しているため、何一つ適切な助言が得られない


ということでした。

 ある人はヨブの意見が独断的であることから、彼は尊大で独り善がりの人間であったと考えています。しかしわたしたちの資料は、それがまったく反対であったことを示しています。ヨブは主と正しい関係を築いており、主によって大きな自信をもって語りました。ヨブ記にはすばらしい聖句がいくつもあって、ヨブの高潔さを鮮やかに映し出しています。例を挙げてみましょう。

 『神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。わたしの息がわたしのうちにあり、神の息がわたしの鼻にある間、わたしのくちびるは不義を言わない、わたしの舌は偽りを語らない。わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。わたしは堅くわが義を保って捨てない。わたしは今まで一日も心に責められた事がない(27章2〜6節、31章)』。

 ヨブが自分自身について語った言葉には、絶えず主を信頼する重要な理由が示されています。ヨブは、これまでの自分の生活は主の御心にかなったものであると確信していました。また、相当に圧迫された状態の下でも、その生き方を守ってきました。しかも、その重圧が主から与えられた試練であると考えていたのです。このように、神を畏れるヨブは、神に対してだけでなく、自分自身に対しても誠実な態度を貫きました。この二つは完全に調和していました。厳しい試練の中でも主を信頼し続ける態度を見ても、ヨブが自分の仕える主の属性や特質についても奥深い知識を持っていたことがうかがえます。

 それでは、これはもちろん試練の核心に触れることですが、人生とその意味がヨブ自身の性質や人格に反するものになっても、主に仕えているのはなぜでしょうか。悪魔の出した結論によれば、こうした堪え難い状況に置かれれば、どれほど熱心に主に従っている人でも忠誠心を失うはずでした。悪魔はヨブが主についてどれほど深い知識を持っているかを知りませんでした。また、人は主について知れば知るほど、ますます厚い信頼を寄せるようになることも理解していませんでした。したがってヨブの反応は、敵対者である悪魔の考えを粉砕し、落胆させるものであったに違いありません。

 ヨブは、まるでサタンのもくろみを知っているかのように、苦難の中で維持するのがまったく不可能ではないにしてもきわめて難しい『信仰』 『高潔』 といった言葉を3人に浴びせました。そうすることによって、ヨブは悪魔に最終的な回答を与えています。

 『黙して、わたしにかかわるな、わたしは話そう。何事でもわたしに来るなら、来るがよい。わたしはわが肉をわが歯に取り、わが命をわが手のうちに置く。彼がわたしを殺しても、わたしは彼に頼ろう。そしてなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救いとなる。神を信じない者は、神の前に出ることはできないからだ。あなたがたはよくわたしの言葉を聞き、わたしの述べる所を耳に入れよ。見よ、わたしはすでにわたしの立場を言い並べた。わたしは義とされることをみずから知っている(欽定訳ヨブ記13章13〜18節)』。


これは尊大で高慢な者の声ではなく、神の御子を証する聖なる声です


 この御子こそが、ヨブの力と高潔さの源を知っておられる御方なのです。ヨブが燃え盛る炉の中で、悪魔だけでなく自分自身に示したように、神に関する正しい知識、神との適切な関係は、人がその人生の中で手に入れる長寿、子孫、友人、親戚、富、健康、そのほかいかなるものよりもはるかに価値があります。『彼がわたしを殺しても、わたしは彼に頼ろう(欽定訳ヨブ記13章15節)』。ヨブの簡潔で深遠なこの言葉は、人が主に仕える理由について悪魔の考えたあらゆる理屈を完全に論破し、


サタンは人を欺くか、あるいは欺かれるかのどちらかであることを示しています


このように、第13章にはヨブの神に関する知識と信仰がいかに深いものであるかがよく示されていますわたしがヨブ記の中で最もすばらしいと思うのは、第19章や42章ではなく、この13章です。マッケイ大管長はこの点について、次のように述べています。

 『わたしはいつも思うが、ヨブ記の目的は、御霊の証すなわち福音の証がサタンの誘惑や物理的な力に勝るものであるという点を強調することにある(Deseret News,ソルトレーク神殿別館の奉献,1963年デゼレトニューズ)』。

 ヨブ記はこの偉大な真理をわたしたちに証しています。ヨブの生涯には、神への信仰を持つうえで知っておくべき3つの事柄がすべて表されています。『わたしをあがなう者は生きておられる(19章25節)』というすばらしい証は、ヨブが主の存在をいかに強く確信しているかを示しています。また〔欽定訳〕第13章の『彼がわたしを殺しても、わたしは彼に頼ろう』という言葉は、ヨブが自ら信頼する御方をいかによく知っていたかを示しています。そして最後に、これまでの人生が主の御心にかなっているという確信が、逆境に陥っても忠実に堪え忍ぶ力を与えています。


すなわちヨブの生涯は、人が3つの知識を得るときにもたらされる信仰を鮮やかに描いているのです。


その知識とは、神が存在すること、神がその性格と属性において完全であられること、そして自分の進んでいる道が主の御心にかなっていることです。


・・・自己を掘り下げたこの言葉には、最初の読者に明らかにされたことよりも、多くの事柄が含まれています。ここには、人が神に仕える理由について、主が悪魔に示された以上に詳しく述べられています。わたしたちは最終的にこの経験が主やサタンではなく、ヨブにとっても最も意義深いものになったことを理解しなければなりません。・・・

 ほかの箇所から明らかなように、主はヨブを支持しておられ、ヨブはそれを知っていました。ある青年がイエスのもとへ来て『永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか』と尋ねると、主は『彼に目をとめ、いつくしんで・・・「あなたに足りないことが一つある。」』と言われました(マルコ10章17〜21節)。その青年と同じように、ヨブにも欠けているものが一つありました。それは完全な信仰でした。これについて『信仰講和(Lectures on Faith)』の抄録を紹介したいと思います。


信仰を完全なものにするには、持てるすべてを犠牲にし、それはすべて主の命令によってしたことであるという確信を抱き、結局は、自らの苦境について主が責任を負ってくださるという確信に至らなければなりません


 犠牲は本来、従順を試みるためのものであり、従順は信仰のしるしです。ヨブのことを心に留めながら、次の引用を聞いていただきたいと思います。

 『すべての人にとって、自分の進んでいる道が神の目にかなった道であるという確信を持つことは、神への信仰を得るために欠かせない条件である。この信仰のない人は、永遠の命を得ることはできない。古代の聖徒たちがあらゆる苦難と迫害に耐え、「もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ(へブル10章34節)」のは、この確信があったからである。・・・

 ここで、あらゆることを犠牲にするよう求めない宗教は、命と救いを得るために必要な信仰を人々に持たせることができないということについて話を進めていこう。こう申し上げるのは、最初に人間がこの地上に来て以来、命と救いに書くことのできない信仰は、この世のものすべてを犠牲にしないでは得られなかったからである。人はこの犠牲によらなければ、神から永遠の命を得ることはできない。この犠牲こそが永遠の命への道なのである。また、自分は神に喜ばれることを行っているのだということへの真の理解は、この世のものすべてを犠牲にすることによって得られる。人が犠牲として、その持てるすべてを、生命までをも真理のためにささげ、神の前に、自分が犠牲をささげるように求められているのは神の御心を行うことを望んでいるからだと信じるようになれば、そのときこそ永遠の命を得るに必要な信仰が得られるのである。・・・

 こうして、犠牲を払う人々は、自らの歩む道が神に喜んでいただける道であるとの証を得るであろう。そしてこの証を得る人は、永遠の命を獲得するに足る信仰を持ち、その信仰を通して最後まで堪え忍び、イエス・キリストの再臨を待ち望む人々に与えられる冠を受けることができるようになるのである。(信仰講和 N・B・ランドウォール編,pp57〜59)』

 ヨブの物語は、この概念が真実であることを証明しています。ヨブ記の最後の部分で、主は明確な比喩を用いて語り、主の扱いに対しおこがましくも疑問を抱いたヨブを動揺させ(38〜39章)、なぜそのようなことをしたのか説明するように求めておられます。『非難する者が全能者と争おうとするのか、神と論する者はこれに答えよ(40章2節)』。ヨブはすでに口に出したことを認め、後に示される理由により、『重ねて申しません』と約束しました。さらに主はこう尋ねておられます。『あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか(40章8節)』。自己分析を求める鋭い質問です。それから主は第40〜41章において、主の力と知恵
を鮮明に描いた比喩を語られました。

 それを聞いたヨブは、『みずから知らない、測り難い事を述べました(42章3節)』と告白しています。ヨブは改めて、『主に助言しようとしないで、主の手から助言を受ける』ことを学んだのです(モルモン書ヤコブ4章10節)。これはヨブが理解したことですが(ヨブ記9章)、今やわたしたちには分からない何らかの方法で彼はさらに高い理解に達し、その目で主を『拝見』し、以前に『耳で聞いて』知っていたことよりも、多くの知識を得ました。ヨブはこう述べています。『わたしは・・・あなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います(42章5〜6節)』。

 試練は過ぎ去って祝福がもたらされ、理解できなかったことも明らかにされました。今やヨブは、自分に起きた苦難をすべて受け入れ、神の摂理に対して疑問を抱くことはありませんでした。最後にヨブは『すべてはよし、すべてはよし』と言っているかのようです。いかなる形であれ、ヨブは主に直接まみえるという経験を通して、そのことを教えられたのです。

 緊張した状態で生活するのは苦しいものです。しかし、わたしたちが限られた理解力を通して見るこの世の中は、そのような緊張に満ちみちています。わたしたちは人生の中で、一見無意味に思えることや不可解なことを経験するかもしれません。しかしそれには必ず最終的な解答があります。主はすぐに与えられなくとも、必ずそれを示す約束しておられます(教義と制約121章28〜32節、101章27〜35節)。ある人々は、『正しい宗教の信条は、もし信じて受け入れるに値するものであるなら、生活の中に起こるあらゆる不慮の出来事について説明できなければならない』と主張します。そのような人はヨブ記をもう一度読むか、ハロルド・B・リー大管長の次の勧告に従ってください。

 『宗教の役割は、神の宇宙支配についてすべての疑問に答えることではなく、現実では見いだせない疑問に直面した人々に(信仰を通して)生活する勇気を与えることである。したがって気をつけていただきたい。ある世界的な思想家がかつて次のように述べている。


「もはや信仰を維持できないと感じる時が来たら、何としても信仰を守り抜け。明日の予測ができない危険な状態の中を、信仰なしで歩むことはできない。」


Church News チャーチニューズ キース・H・メサービー − ”job:yet Will I Trust in Him” 『ヨブ − それでもなおわたしは主を信頼しよう』 pp139〜153。



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