エホバはイエス 混乱する民 知ることの重要性 旧約・新約比較表


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エホバはイエス


 かたくななパロは、次のように尋ねました。「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従わなければならないのか。わたしは主を知らない。」
 現在の多くの人々は、パロと同じように旧約聖書のについてほとんど知りません。大抵、神と言っても、古代の人々の空想の産物と考えるか、人々を洪水や疫病で滅ぼす怒りの神か、低俗な宗教の神と考えている程度です。旧約の神は、新約聖書でキリストの伝道で表された愛の神と全く同じ神なのでしょうか。違うと言う人もいれば、そうだと言う人もおり、全く別の神であると語る人もいれば、神など存在しないと言う人もいます。何故このような混乱が起きるのでしょうか。本当に、アダムの神、アブラハムの神、エノクの神、またイスラエルモーセの神とは誰なのでしょうか。

 実際に旧約聖書の神は誰であるかを明確に記してある場所はありません。しかし、神の霊感や啓示に頼って探すならば幾つかの答えは見つかります。新約聖書コロサイ人への手紙第1章15〜20節の中にはこのように記されています。


「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」


 この部分を簡単に言ってしまうと、「万物は御子によって造られた」となり、旧約聖書に記されている部分と符合する箇所があります。創世記第2章3節にはこのように書かれています。


「神がこの日に、そのすべての創造のわざを終わって休まれたからである。」


 これは、新約聖書に述べられていることが、旧約聖書を補足する形になっており、「御子」=「創造の神」であることを証明していることになります。それは、


エホバ(ヤハウェ)、すなわちイエス・キリストは、旧約聖書の神である


ことを証明し、


創世記に書かれてある地球を創生した存在とは、御子イエス・キリストであることをパウロは明確に証言しています


 多くの人にとって矛盾しているように聞こえることでしょうが、これらの聖句は旧約聖書のエホバが神の独り子である、また神の御子である、イエス・キリストであることを聖書が証明しているという事実です。このエホバが、神の権能と指示の元に世界を創造した後に地球に来て、世の贖い主、救い主となったというのが、聖書における真実であるとする説をこのHPは支持しています。しかしながら、この「真理」は世界の歴史の中で最も誤解されている教義のひとつです。丹念に新旧約聖書を研究し、またその真理を指示する証拠があってもなお、そうした誤解が存在しています。


 聖書から証拠を拾い出してみる前に、まずとその御子の名称とについて理解を深めてみましょう。

 まず一般的に言って、旧約聖書の前編を通じて神に相当するヘブライ語は2語使われていて、現在の発音に従えば「エロヒム」、「エホバ」があります。ヘブライ原典には母音が書かれていないため、ヘブライ語でYHWHと書かれていた名称のもともとの発音については、今もって学者たちの間で議論されており、彼らの説は具体的な解決がついていないようです。

 「エホバ」というのは、神の長子に与えられた前世における名前あるいは称号です。英語のエホバ(Jehovah)はヘブライ語のヤハウェ(Yahweh)から来た言葉で、その意味は「独立して存在する者」もしくは「永遠なる者」です。この名前は普通、旧約聖書で「主」と書かれていて、「わたしはある」という意味を持つヘブライ語のエハイェ(Ehyeh)は、その意味から言っても語源から言っても、ヤハウェもしくはエホバと関係があります。ユダヤ人たちは、エホバという名前を極めて神聖なものと考えていたので、口にだして言うことはタブーであったため、エホバの名前を代えて「主」を意味する「アドナイ」という言葉を使用していました。

 欽定訳の翻訳者たちは、ユダヤ人の慣習を尊重して同じ方法をとっています。しかし、時に「主」という言葉は神を指す時だけでなく、王やその他の高貴な人物を指す際にも使われていて、神聖な名前を通常の使用方法から区別するために、英訳に携わった訳者たちはエホバについて言う時は大文字でつづり、その他の場合には小文字でつづっています。こうした英約聖書の例としてはUサムエル15:21節にありますが、多くの場合「LORD」と記されています。

 エロヒム(Elohim)という言葉は、ヘブライ語の神という言葉の複数形です。現代の学者は語尾の「im」が複数形を意味してはいるものの、その語全体としては単数名詞と理解するべきであるという点で一致が見られます。しかし、聖書の一番初めには神が複数いたと書かれてあります。これは重要なことで、Eloheimという語は、いかなる場合でも複数、すなわち「神々」という意味になります。つまり、


神々の頭なる神々が人のために一人の神を任命した


ということになります。この問題に関してこの見方ができれば、束縛も解かれ、神々のあらゆる性質、聖さ、完全さが理解できることでしょう。聖書を読むにあたり、エロヒムという言葉の意味を理解する事は非常に重要です。この名前は、完全の位に昇ったことと完全な能力を持つ事を表しており、回復された教会が理解し、かつ用いている「エロヒム」という言葉は、「永遠の父なる神」の名前であって、霊として神から生まれた人物が「エホバ(ヤハウェ)」であり、肉体を持って地上に生まれた「ただ独りの御子がイエス・キリスト」であることを証明しています。

 神の位置についても、よく理解する必要があります。神は、この地上に生を受けた人々の霊の父であって(ヘブル12章9節)、地上にいる人々およびすべての霊の神です。他に神々がいたとしても、この事実は変わりません。この神が、永遠の救いの計画の創始者であり、発起人です。しかしながら、同じように大切な事は、神がこの地上における業を進めるにあたって、


実際の行為者となった人物こそ、神の長子、すなわち旧約聖書中の神、エホバであるキリスト


であるということです。神は、地球を組織して統治するために、父としての権能をイエスに与え、その贖いによってイエスは忠実なる者たちの「父」となり、こうして救い主イエスは御父の計画の第一の擁護者となっています。イエスは神とひとつであり、また自分自身も神であるため、時に旧約聖書の予言者たちはこの神を指して「エホバ神」と言っていて、これを欽定訳では「主なる神」と訳しています。ヘブライ語のこの「エホバ神」という表現は、英語版では「主なる神」という表現で出てきますが、創世記の3章以降はそれ程多くは使われていません。度々の不自然な反復を避けるために、「主なる神」という表現が、ヘブライ語の「主エホバ」という語の訳語として使われるようになりました。文字通りには「主なる主」という意味です。こうして欽定訳旧約聖書では、エホバというヘブライ語には、ほとんどの場合「主(LORD)」あるいは「神(GOD)」という訳語が当てられています。

 イエスのもうひとつの名前や称号についても理解が必要です。「キリスト・イエス」という言い方に注目してみましょう。

 「キリスト」という語はギリシャ語の「クリストス」という語に由来していて、これは「油そそがれた者」という意味です。ギリシャ人は「クリストス」という称号をヘブライ語の「メシアフ」という語の訳語として使用しており、これも「油そそがれた者」という意味になります。このヘブライ語は英語で「メシヤ」と表記される発音に変えられました。


キリスト・イエスとは「救世主イエス」という意味です。








混乱する民


 後のユダヤ人、すなわちイエス自身の民は、自分たちの神とは何者なのかという点に関して混乱していました。これはユダヤ人が旧約聖書の時代に背教しており、すでに聖文を正しく理解する事ができなくなっていたからです。同じ事が現代でも、大多数のキリスト教徒について言えます。旧約聖書の神がどういう人物なのかという点に疑義が生じた理由は、両方の場合とも、


人々の不義ためと、重要な聖文の幾つかが紛失したためです。


 一方イエスは、永遠の命とは御父と御子とを完全に知ることである言いました(ヨハネ17章3節)。つまるところ、


人は様々な経験を通じてまことの神を知るようになるのであって、この現世においての経験は人を神に似た者にするための訓練となっています


 こうして人は神について理解する、言い換えれば、神を知るということになります(第1ヨハネ2章3節、3章1〜2節)。

 キリストが降臨する頃には、ユダヤ人は、神会には3人の別々の存在がいるという知識を失っており、またモーセの律法を授けられたエホバが全人類の購い主として降臨するという真理も、預言者たちがはっきりとその原則を教えていたにもかかわらず、失っていました(第1コリント10章4節)。
 ユダヤ人たちは、自分たちの神である約束されたメシヤが、ローマの支配から解放してくれる政治的な救世主として出現するのを待ち望んでいましたが、一神教の信仰を持つユダヤ人には、神の「御子」という概念が入り込む余地は持っていませんでした。

 しかし、バプテスマのヨハネの父ザカリヤには、ヨハネがヘブライ語のエホバである主の前に先立って行って、「整えられた民を主(エホバ)に備えるであろう(ルカ1章16〜17節)」と告げています。また、御使たちは、最初のクリスマスの晩に、羊飼いたちに「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである(ルカ2章11節)」と告げています。


主なるキリストとは、「エホバなるキリスト」という意味です。







知ることの重要性


 数多くの聖書学者をはじめとして、多くの人が導き出した結論は、「旧約聖書」に描かれている神とは、古代の迷信深い人々の迷信や原始信仰の産物だということです。こうした結論に至ったのは、彼らの描く「新約聖書」の神の概念とかなり矛盾しているところが見えるからでした。しかし、「旧約聖書」の主、あるいは神(エホバ)が前世のイエス・キリストであるということが分かると、新約、旧約の両聖書を正しく理解する上で大いに意味があるだけでなく、神の性質と目的、人と神会の3方との関係などを正しく理解する上でも非常に意義があります。

 例をあげると、「敵を愛せ(マタイ5章14節)」と言った人物が、約束の地にいるカナン人については「息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち・・・みな滅ぼして・・・(申命記20章16〜17節)」とも言っています。また、「七たびを七十倍するまで(マタイ18章22節)」赦すようにと言って同じ救い主が、8人を除いて地上の全人類を滅ぼしました(創世記7章7〜10節、ペテロ第一3章20節)。

 ところが一方、人の罪を赦そうとしない者は、「負債を全部返してしまうまで・・・獄吏に引きわた(マタイ18章34〜35節)」すであろうと言った「新約聖書」のイエスは、旧約で「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ(イザヤ書1章18節)」といった「旧約聖書」の神でもあります。さらに黙示録では、大きなかまで地上のぶどうを刈り取り、酒舟の中で踏むのを今や遅しと待ち構えている御方として描かれているキリストは(黙示録14章14、20節)、「旧約聖書」では、ミカに向かって「主のあなたに求められることは、ただ公義を行い、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか(ミカ6章8節)」と言っている神です。

 神の性質に矛盾はないとして、以上のことを踏まえて考えると、


神は常に完全な慈悲と愛に満ち、同時に完全に公正であって罪を見過ごしにはしない御方である


と定義するのが正しいと言えます。ある教会指導者は、「神は曲がった道を歩まず、右にも左にも曲がらず、また述べたことからそれることはない。それゆえ、神の道はまっすぐであり、その道は一つの永遠の環である」と述べました。「旧約聖書」でも、神はすべての聖文に見出されるのと同じ、完全な首尾一貫した神です。また「旧約聖書」を読むと、神についての理解も一層深まり、神がその子供たちである人にどのように関わりを持ってきたのかや、人々が従順であって受容力を示す時に、その度合いに応じてどのように祝福を授けてきたのか、さらに、反逆や邪悪に対してどのような懲らしめを与えてきたのか、といった事にも理解が深まります。

 もし、キリストについて今まで以上に知りたいと望むなら、エホバとしての働きが記されている「旧約聖書」を研究する必要があります。イエス・キリストは「旧約聖書」の神でありまた同時に、今日、この地球の神でもあります。この重要な事柄を絶えず心の中にとどめておくことこそ、「旧約聖書」を理解し、神の性質を理解する鍵の一つとなるでしょう。



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