テサロニケ人への第二の手紙 研究解読 |
第2章7節 | 第2章9〜10節 |
第3章16節 |
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2000/10/ 7 | 第2章7節、第2章9〜10節、第3章16節 UP |
第2章7節 |
7節 | 不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。 |
「阻止している者が取り除かれる」という言葉から、不法の力がすでに活動しているらもかかわらず、何らかの阻止する力により一時的に抑えられている(秘密というのはこの意味)という意味であると理解することができます。従って時が経てば、この抑制がなくなり、悪が余すところなくその力を発揮することになります。当時不法の力を阻止する者として言及されたのは、ある人は使徒の存在をあげ、またある人はローマ帝国の抑止力がそれであると信じているようです。ローマ政府の方針は、宗教的抗争を禁止し、ローマの神々や聖堂が中傷されたり不敬に扱われたりしない限り、礼拝の自由を大幅に認めようというものでした。この「不法の力」は、ローマ帝国が衰退していくにつれて背教の教会を蝕み始め、事実上全く抑制のない状態となっていきました。 パウロが用いた「不法の力」という表現は意味深長です。初期のキリスト教信仰における背教の中で顕著なのは、キリスト教信仰の簡潔さを、また排他的性質の欠如を攻撃するものでした。キリスト教の簡潔さは、ユダヤ教の奥義や異教の偶像崇拝から生まれた神秘的な儀式から見れば、多くの人々にとって実に物足りないものと感じていたと思われます。従ってクリスチャンの礼拝方式の中で最も初期のものは、神秘的な儀式の導入によって起こった言えます。現在でもそのような傾向はよく見られます。特にその神秘的な儀式をすることによって、自分だけの、または自分の属している集団の優越性や選民意識で自己満足するというものです。しかしてその実体は「ルシフェル」以外の何者でもありません。 |
第2章9〜10節 |
9節 | 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、 |
10節 | また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである。 |
サタンには偽りのしるしや奇跡を行う大きな力があります。つまり、 |
神の奇跡を模倣する能力があるということです。 |
パロ(ファラオ)の宮殿でモーセとアロンの奇跡を真似た魔術師たちがその例です(出エジプト7,8章)。またそれと同様に、 |
サタンらは自然現象を支配し、光の天使として現れることもでき、雄弁家で魅力に溢れ、異言の力を持っている、欺きの主です。 |
このように、サタンは人を迷いに陥れるための力をたくさん持っていて、またそれに従う人は、程度は低いですが同じような力を持っています。ただ、全てに渡って言える事は、 |
サタンの力には限界がありますが、神の力は無限であるということです。 |
第3章16節 |
16節 | どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがたと一同に共におられるように。 |
キリストの提唱する平安とは、人生の中の表面的なものを求めても得られず、また人の心から自然に湧き上がってくるようなものでなければ真の平安とは言えません。イエスは弟子たちにこにように言っています「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる(ヨハネ14章27節)」。このように宣言したキリストは、弟子たち全世界の人類に 「人に与えられる祝福の中で第一のもの」 を与えています。それは、 |
イエス・キリストの福音への従順さを条件とした賜であり、そしてそれは全人類一人一人に約束する |
というものです。誰であっても、情欲や欲望を欲しいままにし、良心の呵責を無視して誘惑に乗じ、人との交わりにおいて相手の信頼を裏切るようなことを行って正義の律法を犯す人に、平安はあり得ないことを意味しています。平安とは律法への従順から得られるものであるということでしょう。 |
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