肉体的な満足 産児制限 安易な離婚
合法的な堕胎 親子間



テモテへの第一の手紙 新約聖書 HOME




2008/ 9/14  安易な離婚 追加
2008/ 8/30  序文 追加
2000/10/ 3  肉体的な満足、産児制限、合法的な堕胎、親子間、安易な離婚 UP
2000/10/ 2  序文 UP


 テモテへの第一の手紙の中で、パウロは後の時代に教会員の間に誤った教義が広がり、それが信仰ある者にとって大きな脅威になるであろうと警告しています(1テモテ4章1〜2節)。今日の教会員は、証と教会員としての資格を失わせるような重大な偽りの教えや社会習慣に直面しており、これは将来の世代にも取り返しのつかない打撃を与えかねません。すでに与えられている助言に聞き従うならば、人はその友人や隣人たちがそのような過ちに陥らないように助けることができるでしょう。

 悪霊の教えとしてどのようなものがあるでしょうか。
 パウロは、「悪霊の教(1テモテ4章1節)」として二つのことを挙げています。1つは結婚を禁じること、2つ目はある種の食物を食べないように命じることです。人々の食卓から禁じられた食物を排除することは、神との関係にあって、パウロの時代のユダヤ人ほど重要ではありません。にもかかわらず、今日のある人々は神が言った、又は指示した事柄に勝手な解釈を施して、食物に関する神の言葉が本来持つ意味以上に重要視しています。

 信念の弱い人の中には、この健康に関する律法に不平をもらす人もいます。しかし、食物に関する指示は福音そのものではなく、必要以上に狭く解釈すべきことではありません。特に教会員であるならばこの点を理解するべきです。パウロは次のように語っています。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとてある(ローマ14章17節)」。例えば、近代の啓示では、茶、コーヒー、酒、たばこははっきり禁じていますが、漂白パン、漂白小麦粉、ココア、チョコレート、卵、牛乳、肉そのほかのものは禁じられていません。

 この、酒、コーヒー、たばこ、酒というのはどれも常習性があり、長く摂取しているとやめるのが非常に困難になります。また麻薬性も刺激性もあります。良心的な産婦人科の医師は妊婦さんにこれらのものをとらないようにと勧告します。どれだけ胎児に悪影響があるか彼らは理解しているからでしょう。奇形で産まれてくる不幸な子供たちの責任の多くは、これらのものを摂取し続けた親の責任であるとも言えるのではないでしょうか。そして注意すべき重要な事は、これらの嗜好品は人類を奴隷化しようとたくらむ偽預言者や獣たちの利益となっていることです。中世において、この嗜好品は現在多くの国で禁じられている「麻薬」であったことは学校の教科書にも一部記されている事実です。民衆にやめることのできないものを与えて奴隷化し、そこからあがる利益で特権階級は私服を肥やしていきました。それは現在も巧妙な手口で継続しています。

 モーセの律法が成就した後、肉を食べてはならないと命じる人は神から聖任された人ではないでしょう。パウロは、このような者は背教の徒であると述べています。


「信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるように(1テモテ4章3節)」神は「肉」を造っています。


 しかし食べてよいからと言って飽食に明け暮れることはよいことでしょうか。常習性、刺激性、麻薬性のあるものは飲食していなくても、好きなものを好きなだけ食べている人を見て「あの人は健康的だ」という人はその人もすでに健康的ではないことがわかります。主の預言者に聞く以前に、大量の脂肪に被われてしまった体を見てどれだけ不健康であるかは色々なTV番組、書籍、インターネットの情報からも、そして聖典からも(ダニエル1章3〜19節)明らかです。

 ある人々は神の指示や勧告をこのように解釈し、またそのように実行しながら、日の光栄(1コリント15章41節)に至るための非常に重要な事柄を無視していることがあります。パウロは最も重要なことの一つは結婚であると語っています。サタンか、あるいはそれに従う者が直接に姿を現して、「結婚してはならない」と言ったならば、おそらく教会員ならばその言葉に反発するでしょう。最も、サタンが直接現れて教会員に彼の教を勧めることはほとんどないでしょうが、しかし現在ではもっと巧妙に誘惑を仕掛けてきています(モーセ4章1〜6節創世記3章1〜5節)。

 今日大勢の男女が結婚をせずに一緒に暮らしています。結婚という形式にこだわるよりも、お互いを思う気持ちの方が大切であるというのが最も多い考え方ではないでしょうか。実のところ、そのような考え方は自分たちが思っている以上に、不安や不和を生んでいます。しかしながら、たとえ結婚したとしても結婚生活を崩壊させる誘惑は止むことはありません。この件に関してこの章を読む人の心のあり方を調べるのに良い機会となるでしょう。






肉体的な満足


 堅い話だと言われることでしうが、結婚生活に悪い影響を及ぼさなければ結婚前に肉体的な満足を得るようにしてもよいのでしょうか?。ある教会指導者は次のように述べています。

 「若人の皆さんにとって大切なことは、立派な過程の建設は若い男女が十代の時に始まるということを認識することである。夫婦が健康に恵まれているならば、子供たちの健康はその両親の結婚前の行いにかかっている。特にすべての若い男性は、自分自身の肉体を清く保つことによって父親となる備えをするようにしなければならない。そうする時に、何ら臆することなく、家庭を築くにふさわしい状態でその責任を引き受けることができるであろう。ふさわしくない状態で父親の責任を自分の身に引き受けようとする男性は、詐欺師以上の悪辣である。


妻子の将来の幸せは、その男性の青年時代にかかっているのである。


 また母親の責任が神聖なものであることを少女たちに教えたい。なぜなら生命の創造に関与する時、それは神聖な王国に足を踏み入れることになるからである。若い女性は、自分の体を清く汚れなく保つ必要のあることを認識しなければならない。そうすれば、その子供たちは罪や病の足かせなく、この世に来ることができるからである。何の束縛もない誕生、気高い人格の受け継ぎは、子供に与えられる最大の祝福である。青年時代を享楽の時と考えさせるようなことがあってはならない。また有害な薬物やその他の罪ある行為にふけることによって、子供に生涯の足かせをはめる権利はいかなる母親といえども持ち合わせていない。


人類の母親になろうとする人は、病気や虚弱体質、あるいは不具を持った子供が生まれることのないような生活をすべきである。」






産児制限


 「ふえよ、地に満ちよ(創世記1章28節)」と言われていることは、現在でも有効であると考えられます。だとすれば、この戒律に従わない時、結婚生活にどのような悪影響が及ぶのでしょうか。ある教会指導者は次のように述べました。

 「記録にある限りでは、『ふえよ、地に満ちよ』というのが最初の戒めである。結婚をせずに子供を持つということは考えれない。このような教えはは全く根拠がない。神は女を創造すると、男のところへ連れてきて、彼女を妻として与えて命じられた。『それで人は父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである(創世記2章24節)』。


結婚は性の交わりを合法化するため、すなわち性のために行なうのであるという考え方が増しているように思われる。しかし、結婚の目的は家庭をもたらすことにある。


 世が私たちに信じ込ませようとしているように、性の満足を得るためではなく、子供をもうけるために結婚するのである。従って、配偶者を見出したら、決してそれを遅らせてはならない。若い妻は子供をもうけ、育てることを仕事とするべきである。若い妻が子供を制限して、夫の学業を支えるために職業に就くことを許すという聖句はひとつとしてない。しかも、学業を続けながら仕事に就き、同時に子供を育てたという男性は数多いのである。困難は多いかもしれない。しかし、教育を受けながら生活を営むことは可能である。どこの学校でも、結婚生活を送りながら学んでいる学生がいるものである。乏しい生活の中で学問を続けることは良い経験である。」






合法的な堕胎


 子供が欲しくないからということで簡単に堕胎ができるようになれば、結婚生活はもとより社会的な倫理はどうなるのでしょうか。ある教会管理者は次のように述べています。

 「当教会は堕胎に反対しており、ごくまれな場合を除いて堕胎をしたり、堕胎手術を受けたりしないように教会員に勧告している。まれな例外とは、資格ある意志の診察の結果、母親の生命や健康が危険に瀕しているとわかった時、あるいは強姦によって妊娠し、母親に深刻な衝撃が残っている時である。このような場合も、監督等に相談し、また祈りによって神の同意を得てからにすべきである。堕胎は今日の最も忌まわしく、罪深い行為の一つである。なぜなら、この恐ろしい堕胎容認が、性的な不道徳をもたらしているからである。

 堕胎の罪を犯した教会員は、事情によっては、教会の評議委員会によって懲戒処分を受ける。この深刻な問題を取り扱うにあたっては、近代の啓示に述べられている御言葉を心に留めておくとよい。『あなたは自分自身を愛するように隣人を愛さなければならない。あなたは盗んではならない。あなたは姦淫をしてはならない。殺してはならない。これに類することをしてはならない。』」


これまでの啓示によれば、堕胎は、悔い改めれば赦しを得ることのできる罪である。」






親子間


 子供が両親以外の人に育てられることが自然なことでしょうか。親の愛情としつけを非常に必要としている早い時期に家庭から引き離される子供はどのようになるでしょうか。ある教会指導者は次のように宣言しています。

 「この母親の神聖なる務めは母親だけができるものであって、他の誰にも譲り渡せないものである。乳母も保育所も、子守りも誰もその代用をすることはできない。ただ母親だけが、父親や兄弟姉妹の愛の手に助けられて、要求に応じた充分な世話ができるのである。これらの選ばれた霊たちをこの地上にもたらすことによって、それぞれの父親母親は、主から与えられた機会を受け入れ、肉体を持った霊と主御自身に対して責任を引き受けることになる。最も神聖な義務を負うことになるのである。来るべき永遠の世におけるその霊が行く末、将来その霊が祝福を得るか罰を被るかは、


大部分において両親がその霊(子供)に心を配り、教えとしつけを施すか否かにかかっているからである。


 この義務と責任を回避できる親はひとりもいない。またそのようにする場合、主は将来、責任を厳しく私たちに負わせたもうことだろう。人にとってこれ以上に崇高な義務はひとつとして考えられない」。






安易な離婚


 最近とみに離婚が容易になってきています。そのために、結婚生活をうまく営めない夫婦が、実際何の努力もせずに離婚に走ってしまうということはないでしょうか。これは結婚生活をどのように安っぽいものにし、社会を構成する単位である家庭を弱くしていることでしょうか。ある教会指導者は次のように語っています。

 「世がどのように理想に近かろうと、いつでも、『性格不一致』という理由で結婚生活に終止符を打つ人たちがいるものである。私たちは多くの映画を見、多くの小説を読み、数多くの社会のスキャンダルに触れているため、人々は『めとり嫁ぎすること』、また離婚し再婚することがごく当たり前のようになっている。離婚自体は完全な悪ではない。しかし離婚を解決方法として受け入れるところに大きな罪が生じる。計画や組織が受け入れられたからと言って、必ずしもそれが正しいわけではない。結婚生活は決して安易なものではない。それには犠牲と分かち合いと、広い無私の心が要求される。

 テレビ映画や小説では、大抵主人公が結婚したところで物語りが終わる。『こうしてふたりは末長く幸せに暮らした』と。しかし私たちは、結婚式を挙げるだけでは幸福にはなれないし、実り多い結婚生活も営めない。幸福は電灯のようにスイッチを入れさえすればよいというものではない。幸福は心の状態であり、自分自身の内部からもたらされるものである。


幸福は努力して得るものである。金銭で売買したり、待っていて得られるようなものではない。


 すべての離婚は、当事者の一方かあるいは双方のわがままによって生じるものである。ある人は自分のこと、すなわち自分の慰め、都合、自由、ぜいたく、安楽のことばかりを考える。また時には不安で、満たされず、わがままな配偶者がいつも小言を言うのに耐え切れず、つい暴力を振るってしまうことがある。さらにそのように誤った事柄を行うのに正統性を感じさせるような点にまで追いやられてしまうことがある。もちろん罪を正当化するものは何もないのである。」

9/14
 また相手に対する欲求が「自分のため」であった場合、その条件が何らかの理由で無くなった時にも離婚という事例に発展する場合があります。相手への条件を多く持つ人ほど、当人が相手に対して求める条件やそれに見合う能力、人格が形成されていない場合も多く見られます。よく言われるものには相手への収入、学歴、外観のよさ(容姿)があります。ですがこれらのものは社会や政情、あるいは個人の健康状態が大きく左右するもので、人生においてこれらを安定的に保つということは難しいものです。これらのものはある程度必要ではありますが、最優先にすべき事柄ではありません。執着があるということはそれらに対してのコンプレックス、劣等感あるいは強迫観念からくる欲求であり、たとえ巨万の富を手に入れても解決することはなく、さらに上のものを欲しがる様になることもあります。

 この代表的な3つのものは、それ自体で人を幸せにはしてくれないでしょう。どんなに収入がよくて学歴もあり、容姿がすばらしくても人間としての考え方が醜悪な場合、それらは何か意味があるのでしょうか。そんな極端な人はいないという意見もあると思いますが、これらのものに執着を見せる人たちがどれほどテレビや新聞を賑わせているかは一目瞭然です。


執着とは恐ろしい呪縛であって、自分からそれらが取り上げられようとするとき、人はどんなことでもするようになってしまいます


 ではどのようにすれば『こうしてふたりは末長く幸せに暮らした』という人生を送れるのでしょうか。それこそ多くの条件が必要のように思われますが、そうではありません。それは


個人の人格形成にかかっていると言っていいでしょう


 世に求められやすい3つの要素を逆に考えみてはどうでしょうか。人間的成長は数字で計れるものでないことはどなたでもわかっていることです。テストで100点とれる人が誰からも愛されるわけではないように、人格というのは数字で表されるものではありません。よい人格とは、経験を土台にした向上心の結果です。もちろんそこには親からの正しい教育というのも大事ですが、昨今の教育とは学校の成績であると勘違いしてる親たちも少なくありません。また社会がそのような点数及び結果主義で推移していく中で、仕方ないとも言えますが、子供を成長期で最も大事な人格形成を行う家庭から離して夜遅くまで塾に通わせることがいい事であるわけもないでしょう。家庭の温かさや必要さのわからない子供に仕立て上げたとして、その子の将来は明るいものとは言えません。

 たとえ希望の就職先の試験に合格したとしても、人としての必要な人格がなければ職場での対人関係もうまくいかずに転職を繰り返し、学歴はあっても収入がないなどいった偏りが生じてしまいます。それは当人に計り知れないストレスを生じさせるでしょう。またお金で物事を手に入ようとする場合もそうです。お金に物を言わせて豪華なデートプランで相手を手に入れたとしても、それは「お金がしたこと」であって、本人がしたことではありません。このように言うと、世の中全部お金ではないかと言われますが、それは観点が少々違っています。お金を持っていればそのように豪華なお付き合いは誰にでもできることです。場と自分をわきまえた相手であった場合その方法は逆効果でしかありません。それにそのようなお金を湯水の如く使うお付き合いで得た相手は、その人の金銭に大きな興味があるだけで後に大きな失敗となる場合もあることです。

 人に認められるという事は金銭を多く使って得られるものではないでしょう。心のこもった、とは漠然として意味の薄く感じられる言葉ですが、お金よりも行動で表現する相手への思いやりのほうが受け入れられやすく後々でも印象に残るものが多くあります。

 人格に優れた人というのは物事をよく見ることができます。その人はある程度自分の将来像を目標に据えて行動しようとするので、必要な資格や学歴を取得しようと努力をするでしょう。おそらく必要なものを手にすることができた人は、いよいよその目標に向かって大きく前進し始めます。持ち前の人格のよさで成功を収め始めた人は、端から見るととても生き生きしており、見ていて気持ちのいいものです。このような人は「見栄え」がよく見える、ということになりはしないでしょうか。人格形成に終わりなどありませんが、向上心を持ち続けるのであれば先の3つのもの、収入、学歴(資格)、容姿が自然と手に入るようになるでしょう。このようにして得る順番を間違えないのであれば、手に入れたものでその人はさらに輝くことになります。劣等感や欲望から来るもので身を飾ったとしてもいずれは化けの皮が剥がれてしまい、当人にも周りにも悪影響が出てしまうのでは意味のない事です。


しかし世の中には収入が少なくても十分に幸せな人生を送る人、学歴がなくても個人の努力で収入を得た人、体に障害を持ってもいきいきとした人生を送って結婚し、子供に恵まれた幸せな家庭を築く人がたくさんいます


 このような人は人間的魅力に富んでいるので、接していて非常に気持ちのよいものです。困難や試練があってもみごとに乗り越え克服し、その経験が更に人格を完成に近づけていると感じられます。そしてこのような家庭を築く人はその人生を自分一人で生きていません。愛する伴侶と「共に生活」しているのです。仕事は夫、家事は妻などといった冷たい分担主義ではないのです。収入を得るのも家事、育児もふたりで協力しあって生活しているので、何時間も時には何週間も家を空けて家庭を不安にさせるといった離婚の最大原因を遠ざけています。

 離婚するにはまず結婚をしなくてはなりませんが、このような人格形成に主眼があるかないかで結婚生活は大きく変わってきます。それは離婚の危機に直面する事の減少と離婚の危機を乗り越えられるかどうかといった問題に大きな影響力を持ちます。多くの人は、人生のいくつかある頂点で結婚しようとします。しかしそのような恵まれた条件の下で結婚してしまうと、生活の基準が高くなってしまい、やがて訪れた人生の谷間において気持ちを離してしまう事になるかもしれません。そこに相手への条件として収入があったのならば、または結婚前の麗しい容姿と結婚後の変わってしまった容姿と比べたのなら、それは悲劇としか言いようがありません。その結婚は当初から間違いであったとそのときに感じたとしても遅すぎる事です。

 結婚したい人がいるのなら、自分の条件を満たしてからというのはよい方法ではないかもしれません。

理想的な、あるいは成功している夫婦というものは、得てして条件の低いところからスタートし、苦難を二人で乗り越えてきたという貴重な経験と絆を持っています。


 家庭生活において、順風満帆の状態を保ち続けることなど不可能です。またどちらか一方の努力によって解決できることもあれば、そうでない事もあります。家庭における危機の場合、その多くの原因は「家庭よりも優先する事ができた」ことにあるでしょう。内容は様々ですが利己的なものも多く、独断で決行して周りに認められないまま押し進めてしまいます。その利己的な原因とは欲望や執着からくる場合がほとんどです。人格形成に興味のない人はここで理性というブレーキが効きにくく、欲望のまま行動しがちです。

 安易に離婚する人は、多くの場合結婚するときも安易に結婚しています。人は自分が高価な買い物をする時にはかなりの時間をかけて色々調べたりします。また購入する手段もそこには計画を立てて実行するということもよく見られるものです。そうして得られた物は愛着がわき、たとえ収入の危機に出会ったとしても中々手放そうとはしません。しかし人の価値は物よりも大きいはずなのに、時にはこれらの物を手放すよりも簡単に結婚相手と離縁してしまう事例もあります。そしてそれは少なくありません。彼らは言います。相手が自分の条件に合わなくなってしまったから、価値観が違ってしまったからと。このような人にとって結婚相手とは単なる自分のステータスにしか過ぎません。一時の恋愛感情はあってもその実情は「相手のもつ物を得た場合を想像した」ことから来るものであって利己的なものです。そして価値観の違いというものは実のところ親子であろうと兄弟であろうと生じているものであって、近親者ですら違うわけですから他人など尚更違うものです。

 結婚とはお互いの物質的精神的な利害が一致してできるものですが、夫や妻が自分で生きていくのに都合がよいという利己的観念があるのであれば、それは結婚とは言わないのかもしれません。

 相手が美人だったから、お金があったから、高学歴だったからというのは「付属品」であって人間性を直接表すものではありません。先に挙げたように、これらのものを持っていたとしても、「美人だが性格が悪い」、「お金持ちだけどいい人ではない」、「学歴はあるけど人間味がない」といった、人としての魅力に欠けるのであればそれほどの価値もないことでしょう。どのようなものにしろ、人が人を惹きつける最大の魅力はその人の持つ正しい人間像です。

 このような事例から考えてみると、結婚生活あるいは家庭生活をよりよく送る秘訣のようなものが見えてきます。それは、


相手との違いを認め合った上で相手への要求が少なく、なおかつずっと一緒に居たいと想い合える環境を作れるかどうかにかかっているのでしょう



TOP テモテへの第一の手紙 新約聖書 HOME



inserted by FC2 system