解明の指針 象徴の重要性



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象徴の重要性


 象徴の重要性は次のように語られています。
 「意識しているか否かにかかわらず、人が生き、働き、また存在感を感じるのはいつも象徴の中でであり、象徴を通してである言うことです。それにも増して象徴の価値を最も深く認識し、かつ最も高く評価する時代が、最も気高い時代だと考えられています。」
 これゆえに、象徴的な言葉や比喩的表現が、宗教において重大かつ中心的な役割を果たしているのも、別に驚くほどのことではないということになり、それは宗教は人間の永遠の運命と深く関わっているからです。

 宗教上の儀式典礼は極めて象徴的であり、神の子供たちのために啓示された言葉をのせた書物は直喩、隠喩、例え話、風喩、表象、象徴などが満載されていると見ることができます。こうした象徴表現は、非常に深淵で広範囲にわたっているため、そのような象徴の意味を理解しないままでいると、最も重要で確かな真理の多くを見逃す結果となってしまいます。

 世の中の多くの人や、数々の教会の中の人々は、旧約聖書というのはキリストの福音以前の文化を反映したものであって、福音の律法に代って与えられたモーセの契約がその中心であると考えているようです。しかし、そのモーセの律法の本質は旧約聖書で理解するのには、かなりの研究が必要です。代々の神の権能は、アダムからその子らに受け継がれており、その権能はセムであるメルキゼデクを通じてモーセにも与えられていました。

 ところが、出エジプトの時に民衆は、金色の子牛の象徴である「金星」を拝んで神の怒りに触れてしまい、怒ったモーセは神直々の手による石版を割ってしまいます。その後再びモーセは山で新たに石版をもらうことになるのですが、この際に、神は「・・・わたしの顔を見ることはできない・・・」と語っています。もらうと言っても、今回は神の言葉をモーセ自身が書くようにと神にいわれています。それが何を意味するのかというと、最初、モーセは神と直接逢うことができましたが、


民衆が罪を犯してからはもう直接神と逢うことができなくなったということです


 つまり、神の権能が取り去られたと解釈できることになります。取り去られたといっても、全てではなく神に対する直接の権能がなくなり、その他のこの世に対する原則的な律法は、後の記術から新しい石版により残されたということになります。その残った権能とは、悔い改め、バプテスマ、罪の赦し、肉体に関する律法などです。新約聖書のパウロはガラテヤの聖徒たちに、このような行為がとられたのは、イスラエルの民をキリスト(神)のもとに連れて行くためであると教えています(ガラテヤ人3章24〜25節)。

 旧約聖書は、特に象徴や表象の点において、この福音の方針を強く反映していて、この書には、イスラエルに贖い主を信じる信仰を持たせるということを目的とした備えの福音が、象徴や表象に数多く含まれているということです。

 イザヤ書28章23〜29節のイザヤが用いた比喩的表現は、かなり大きな教化の力をもってひとつの教訓を展開しています。イザヤは農夫という象徴を使って、農夫がいかにして自分の畑と収穫物を扱うかを示して、神の目的の何たるかを教えようとしています。このイスラエルは神の畑です。イスラエルはその邪悪さと背教のために、心を頑なにして、よい人である果実を生み出すことができなくなっていました。農夫が植え付けに備えて土を耕して、くわでならし、土を起こすように、契約の民に下される裁きと罰は神のくわであって、馬鍬ということができます。

 しかし、イザヤの「種を撒くために耕す者は絶えず耕すだろうか」という問いかけを考えてみると、答えはそうではなく、耕す者はただ、いのんどとクミンと小麦を植えるために十分なだけ耕すだけです。農夫が作物をこくという比喩的表現の中に、ひとつの深い智恵が描かれています。

 通常一つ一つの作物はそれぞれ異なった方法で脱穀され、この時代の小麦は麦こき板という、牛かろばで引く重い道具で脱穀します。しかし、もっと軟弱ないのんどやクミンを脱穀するためには別の方法でしなければならず、同じような重い道具を使うと作物は皆つぶれてしまいます。神も人に対してはこのことと同様に人を扱うと思われます。人は一種類の果実ではなく、それそれが独立した果実であるといえ、生まれや住む環境などかなりの違いがあります。それぞれの人に対し、それぞれの祝福や救いがあると考えても、なんらおかしなことはないでしょう。それらから言えることは、


文明の民、放浪の民、原野の民それぞれに違った救いの方法があるということです。


 現在の聖書は真理の数々を象徴的な言葉で表現することによって、わかりやすい部分を抜き取ろうとする人々の手から、かなりの部分を守ることができていると思われますが、今ある多数の教義の違う教会が存在することを見ても、やはり大事な所が抜かれているということには違いありません。聖書を編纂する資格や能力のないもの、無知な翻訳者、不注意な筆記者、金銭や権力にとりつかれている祭司たちが多くの過ちを犯しつづけている。と思われます。しかし、象徴的な比喩で表現され、「予言のみたま」や「イエスのあかし」がなければ解き明かせないような重要なことは(黙示録19章10節)、腹黒い堕落した祭司たちには理解などできるはずもなく、その結果、ある程度損なわれることなく残っていると思われます。

 象徴を用いた表現は、霊的な成熟度にかかわらずあらゆる人々に真理と意味を伝えることができると言えます。新約聖書の中で、キリストは大群衆に4種類の土のたとえを教えた後、「耳のある者は聞くがよい」(マタイの福音書13章9節)と警告しています。この言葉は話を聞いていた人達に、救い主が今言ったことは単なる面白い物語以上のものであるということを伝えようとして言っています。キリストの真意がわからない人々にとって土のたとえ話は、ただの面白い話でしかありません。しかし、心に何か崇高なものを感じ理解しようとする、考えの柔軟な人にとってはそれ以上に頭に刻まれる「良い話」となります。つまり、


象徴を用いた表現は、聞く人の準備の出来具合いかんで、真意を表わすことも隠すこともできるということです。


 象徴は、人の感情や態度に深く影響を及ぼします。

 ある国の国旗は、現実的に言えば特定の模様で彩色された大きな布でしかありませんが、しかし人は、そのような布のために涙をながし、その国旗を背負って戦争に行き、追害に耐えて死んでいくこともままあることです。当然ながら重要なのはその布きれではなく、その国旗が個人にとって何を象徴しているかによります。象徴の持つ意味は、その感性や理性に及ぼす効果が大きく、結婚指輪、神殿、バプテスマ、聖餐といった象徴としての物や行為が人の感性にどれだけ深く影響するかを考えると、神(キリスト)がなぜ象徴を用いて教えたのかという理由が理解できると思います。

 聖書に対する理解力というものは、探求の度合と態度で象徴の意味を探り出すように導かれて初めて出てくるものです。個人的に努力したことや犠牲を払ったことに対して何らかの報いが得られる時は、努力なしで得るよりもはるかにありがたみを感じることができます。象徴と言う厚い衣を着た偉大な霊的真意を明らかにするためには、聖句を深く探求し考えなければなりません。それに対する報いは必ず来ます。それで理解できるようになった時には、ほかの方法で得ることのできないような満足感と感謝の思いが探求者に満たされることでしょう。






解明の指針


 象徴が文字通り受け取られてしまうと、その真の意味が、奇々怪々な現実の姿の中に失われてしまうことがあります。一方その反対に、聖句そのままの意味を持つ表現が、これは単に象徴にしか過ぎないと言われて片付けられてしまうことも実際に多くあります。聖書を研究するにあたり、象徴表現について考える時にあってはならないことは、


自分の国の文化のしきたりにとらわれて、聖書の出来事を見てはいけない


 ということです。それをすると象徴の背後にある心象を見失ってしまいます。例えば、人が大都会育ちで農業の経験がなかったとしても、それは古代の農業生活からきている象徴やたとえが理解できないということではありません。特別の研究や熟考をしなくても、種を撒いたり、収穫をしたり、ふるいで分けたり、ぶどうを摘んだりといったことの意味は感じ取ることができると思われます。おそらくもっと難しい問題があるとすると、それは旧約聖書で使われている象徴の性格のことでしょう。

 生け贄の血を流したり、その血をいかに水盤に受け止め祭壇の上に振りまいたり、またそのほか様々な用途に使ったか、などという記録を読むと現代の人は大抵不快になります。現在のような近代社会では、数多くの人が、肉といえば動物の屠殺ではなく、スーパーなどの食肉売場できれいに包装されている肉を想像します。よって、動物の血や内臓を見ることがほとんどないため、儀式の聖句を読んだりすると気分が悪くなる人もかなりいることでしょう。

 これらのことについて注意点が2つあります
 第一は、このようなことは旧約聖書の民にとって全然不快なものではなかったことです。食糧用として動物を殺したり、血を見たり、肉を清めたりすることは皆、日常生活の一部でした。当時は、動物を飼いそれを屠殺して食糧にすることは普通の家族のすることであり、大きな都市でも人々は青空市場で肉を買っていました。そこではなるべく新鮮な肉を提供しようとその場で動物を殺してくれる店もあったほどで、これは現在の中東のある地域でも普通にやっていることです。

 第二は、現代の都会化された人々が不快に思うのは、こうした慣行の表面的な部分であることです。しかし、象徴自体を越えたその内包する意味に目をむければ、そのような不快な気持ちに代って儀式の持つ象徴的な意味に気がつくことと思われます。
 聖書自体に象徴表現の解き明かしが、明確に書かれているにもかかわらず、象徴された内容の意味を議論する人をたびたび見かけますが、彼らは「予言のみたま」と「イエスの証」(黙示録19章10節)をもっていないので、旧約聖書の律法と儀式の完全な意味を理解することはできないでいる人達であると思われます。

 聖書を入念に研究すれば、解き明かしの多くはすぐに見つけることができます。しかし、聖書を読む人がこうした解き明かしを見つけ出したいと思っているのなら、それ相当の努力が必要です。


解き明かしの多くは聖典のほかの場所に与えられているからです。


 聖典の中のキリストとその贖いの犠牲は、最も重要で基本的なことであるので、聖典の象徴表現が事実上ことごとくキリストに向けられていても驚くことではありません。たとえ話、直喩、隠喩、表象といった表現は皆、神の子供たちにキリストの贖いを自分にあてはめ、御父と和解をするためには何をしなければならないかを教えるために書かれたと言うことができます。この考え方は、旧約聖書でも、他の聖典でも全く同様に通用する考え方です。

 神の教え方は多様で、ひとつの真理が様々な象徴表現で教えられることもあるし、ひとつの象徴表現で様々な真理を伝えることもあります。キリストが真意を教えるために使う象徴を変えたとしても、真理が変わっているように見えるところは見つかっていません。時々人は、ある特定の象徴表現の解き明かしを見つけると、その解釈に満足してしまって、それ以上探求しようとしない傾向が出たりします。また、同じ真理を伝える別の象徴表現であったりすると、混乱してしまうかもしれませんが、キリストの伝えようとするものは極めて広くて深いため、それを伝えるためには無数の心象、表象、たとえが必要とされます。

 例えると、キリストの生涯と使命については、著しく多様な面があるために、様々な象徴で表現されています。


ヨハネによる福音書1章1、14節
ヨハネによる福音書1章7〜8節
小羊 ヨハネによる福音書1章29節
生きたパン ヨハネによる福音書6章51節
よい羊飼い ヨハネによる福音書10章11,14節
まことの葡萄の木 ヨハネによる福音書15章1〜5節
花婿 マタイによる福音書25章1〜13節
コリント人への第一の手紙10章4節
隅のかしら石 エペソ人への手紙2章20節
大祭司 ヘブル人への手紙3章1節
焼きつくす日 ヘブル人への手紙12章29節
アァメンたる者 ヨハネの黙示録3章14節
しし ヨハネの黙示録5章5節
輝く明けの明星 ヨハネの黙示録22章16節


 モーセの契約のもとで与えられたしるしの多くは、新しいものにとって代えられていると考えられていますが、だからといって、その頃のしるしの方が劣っているということではありません。神はイスラエルの民に命じて、上着のすみに「ふさ」をつけていつも神との関係を思い起こすように言っています。このことについてはかなり違った見解があり、ある学者はそのような衣服は、民が神に対して未成熟であって粗野な初歩段階にある証拠であるとしてが、います。これに対しある聖書学者は次のように答えています。

 「人が様々な、また新しい方法やデザインで衣服を身に着けているのは、世の中の流行又は様式に順応するためです。神の律法や神の定められた様式に従うことに、どんな難しいことや、『粗野』なことがあるでしょうか。この律法には難しい事や奇妙なこともありません。また、不合理なことも不可能なこともありません。」

 この学者はこのような象徴について次のように重要な指摘をしています。
 「そのふさのついた上着を身に着けることは、キリスト教徒によって守られていません。割礼や安息日やそのほかモーセの契約で定められた諸原則と同様にキリストによって更新された新しい契約のしるしがそれに取って代わっているだけで、契約の律法はそのまま残っています。ですが、契約の儀式やしるしは変えられています。

 しかし契約のしるしの形式は、モーセの時代の形式もキリスト教徒の時代の形式も同様に、高貴で、深淵で美しくあります。変化したということは、決して前進したということでもないし、どちらかが上でどちらかが下という関係にあるということでもありません。契約はイエス・キリストにおいて完成しています。しかし神は御自身の目から見て、モーセやダビデやイザヤやヒゼキヤやその他いかなる旧約聖書の民を劣った者と見なしたこともないし、能力が子供並みで、『粗野な初歩段階』が必要であると、神は考えられたこともない。」

 象徴が何を伝えようとしているのかを完全に理解するためには、伝えようとしている霊的な真理を事前に理解しておかなければなりません。旧約聖書には、キリストの表象、象徴、隠喩、たとえが多く登場します。しかし大抵の場合、キリスト時代のユダヤの指導者たちは、キリストが自分たちの中に来た時に拒んでいます。彼らは言葉も文化も独特の言い回しも知っていたと考えられており、しかも聖典で教えている一番肝心な部分を拒んでしまいました。

 つまり、改宗することを拒みました。彼らは、象徴に真の意味を与えている福音の真理に無知だったということになってしまいます。彼らは、象徴に真の意味を与えている福音の真理に無知だったということになってしまいます。旧約聖書の表象や象徴の奥にある実体は、「イエス・キリスト」であり、「救いの教え」です。人はキリストを深く理解すればするほど、象徴の意味もはっきりと見ることができます。従って、この理解がなければ内容は伝わったということにはならないということです。

 多くの表象を理解するのに、聖典を一度読んだだけでは全くと言っていいほど理解はできません。
生涯とも言えるほどの探究と熟考の末に理解の道が開けて来るのではないのでしょうか。ですが、モーセの書には「・・・私のことを証するために創造され(6章63節)」とあり、この世界の何を研究してもやがては神に至るということを言っています。


キリストで満ちている旧約聖書を理解するには、ただ柔軟に見る目と聞く耳をもてばいいということです。



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