創世記 第37〜40章研究解読



第37章3〜4節 第37章28節 第37章36節
第38章1〜30節
第39章7〜12節 第39章20〜21節 第39章22〜23節、第40章1〜23節



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1999/ 4/15  第39章22〜23節、第40章1〜23節 UP
1999/ 2/ 6  第38章1〜30節、第39章7〜12節、20〜21節 UP
1999/ 2/ 5  序文、第37章3〜4節、28節、36節 UP


 ヤコブの息子ヨセフの話は、神が神を愛する者たちと「共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙8章28節)という聖句を生き生きとして描写しています。ヨセフは常に正しい事をしていましたが、しかしそれよりももっと大事な事は、彼がそれを正しい理由で行っていた事にあります。ヨセフは兄たちから奴隷に売られてしまい、パロの侍衛長ポテパルに買われています。彼は契約書をもって買われた奴隷でありながら、あらゆる経験と環境とを、たとえ苦しくとも必ず良いものに変えていきました。

 すべての事を良いものに変えるこの能力は、神の属性によるものと思われます。聖書には、天父である神はこの事ができる人物であると書かれてあり、たとえいかに恐ろしい事がその身に起きようと、神にとってはすべてが「勝利」です。ヨセフは全くふさわしからぬ奴隷の身でありながら、神に対する信仰を堅く保ち、まわりの卑しい環境を非常に良いものに転化してきました。神の目から見て、このような前向きの人はあきらめないので敗北することはないと、聖書は暗に教えているのではないのでしょうか。




第37章3〜4節

3節 ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。
4節 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語る事ができなかった。


 ヨセフの着物というのが実際にどんなものであったのかという点については、様々な疑問があがっています。ヘブライ語の意味は「そでつきの長い着物」、すなわち手首と足首まで届く長い上衣で、貴族や王の姫たちが着用したものと考えられています。サムエル記下13章18節に注目すると、ダビデ王の姫たちが似たような着物を着ています。この着物は、様々な色を使ったものであったと見られていますが、重要な点はそのきらびやかさや美しさを越えた所にあります。この着物は、両手のひらと両足の甲まで届くチュニックで、上流階級の青年や乙女が着た長袖のロング・チュニックであると言われています。しかし、ヨセフの場合は、ルベンが失ってヨセフに受け継がれた生得権のしるしであると思われます。

 ヤコブの家族には4人の長子がいたので、誰がこの生得権を受け継ぐのか問題になっていました。4節にある通り、この着物がヨセフに渡った事により他の息子たちの敵意と反感と嫉妬心をかきたてたことは、容易に想像できます。特に、ルベン、シメオンユダ、ダン、ガドは生得権に対する思いが強く見られます。


ルベンの思い 彼はすべての息子の中で長子でしたが、権利は失っていました。しかし、彼自身はその事実を受け入れていなかったようです。
シメオンの思い 彼はレアの2番目の息子で、継承権ではルベンの次にあたります。彼はルベンが生得権を失ったら、その権利は当然自分のものとなると考えていました。
ユダの思い ユダは、ルベンが生得権を失っていただけではなく、シケム人を大量に殺したシメオンとレビもその権利を失っていると考えました。
ダンの思い ダンの母であるビルハはラケルの財産という考えであったため、彼はヨセフではなく自分がラケルの長子であると思っていました。それゆえにルベンが権利を失った場合、自分に権利があると考えました。
ガドの思い 彼は、レアのつかえめジルパの長子であったため、レアの長子であるルベンが権利を失った場合、自分に権利があると思いました。


 これらに関連してヨセフの夢(5〜11節)は、明らかに将来指導者となる意味を持っていましたが、これは益々他の兄弟たちの怒りを買うばかりとなっています。この夢は、現在の太陽系の運行にも関係があるという説があります。




第37章7,9節

7節 わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしのたばが起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。
9節 ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました。


これらの夢はヨセフに対しての神からの啓示です。何年か後にこれらのことは成就されることを意味しています。(43章28節




第37章28節

28節 時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。


 ヨセフの代価の銀20シケルというのは、後にモーセの律法で定められた5歳から20歳までの奴隷の代価と同一です(レビ記27章5節)。通常は奴隷の代価は銀30シケルとなっています。




第37章36節

36節 さて、かのミデアンびとらはエジプトでパロの役人、侍衛長ポテパルにヨセフを売った。


 「侍衛長」と訳されているヘブライ語は、文字通りには「屠殺人の長」という意味になり、この意味からポテパルはパロの家の料理長、あるいは給仕長であったと考えられていますが、別の説では「屠殺人」というのは「死刑執行官」という意味だとする説もあります。これらをまとめるとポテパルは、王室の警備隊長であり王の命令によって死刑も執行する人物であると思われます。特に死刑執行官としての職務は、エジプトにおいて大きな権力と地位とを握っていたと考えられています。




第38章1〜30節

6節 ユダは長子エルのために名をタマルという妻を迎えた。
7節 しかしユダの長子エルは主の前に悪い者であったので、主は彼を殺された。
8節 そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所へはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。
9節 しかしオナンはその子が自分のものにならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした
10節 彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。
11節 そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家になさい」。
14節 彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口にすわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知ったからである。
15節 ユダは彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたため、遊女だと思い、
16節 道のかたわらで彼女に向かって言った、「さあ、あなたの所にはいらせておくれ」。彼はこの女がわが子の妻であることを知らなかったからである。彼女は言った、「わたしの所にはいるため、何をくださいますか」。
17節 ユダは言った、「群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう」。彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。
18節 ユダは言った、「どんなしるしをあげようか」。彼女は言った、「あなたの印と紐と、あなたの手にあるつえとを」。彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。
19節 彼女は起きて去り、被衣を脱いで寡婦の衣服を着た。
24節 ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言った、「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。
25節 彼女は引き出されたとき、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めて下さい」。
26節 ユダはこれを見定めて言った、「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」。彼は再び彼女を知らなかった。


 旧約聖書特有の包み隠しのなさで、ここではユダとその義理の娘との近親相姦という浅ましい話を取り上げています。これがここに記録されているのにも何らかの理由があるものと思われます。まず第一に、契約の民が契約した者と結婚することがいかに重要であるかということを忘れてしまった結果が、一体どういうものか、再度明らかにすることにありました。ユダはその父や祖父、曽祖父であるヤコブ、イサク、アブラハムと異なり、カナン人と結婚することにためらいを見せなかったようです。契約の民以外の者と結婚することから生じる悲惨な結果が、ここにはっきりと示されています。

 第二は、この話はユダの系図を示して、やがて救い主がこの血統から降臨するということを示しています(新約マタイ1章3節、同ルカ3章33節)。また、先祖が誰かということが、人が義しいかどうかの決定要因にはならないということも教訓としても書かれていて、また別に、自分の決意を大切にしないと往々にしてそれが非常に大きな問題を引き起こす引き金になるという真理が隠されています。もしユダがタマルとの約束を忠実に守ったら、あのような誘惑も起こらなかったかもしれず、同様にもしユダが貞節の律法に忠実であったなら、決してタマルと罪を犯す事もなかったでしょう。

 8〜11節の古代中東の習慣では、ある男性が死んだ場合に、その兄弟がその未亡人と結婚することになっていました。これはモーセのもとで、この習慣は律法となっています(申命記25章5〜10節)。このような結婚の目的は、死者のために男性の世継ぎをもうけて、末代までその名と思い出とを伝えることにありました。当時、息子をもうけずに死ぬことは大変不幸なことだと考えられており、それはその人の血統がそこで絶えると、その人の財産はだれか他の人の所有となってしまていたからです。娘がいた場合はその娘を通じて他の人に渡り、いなければ親戚などに渡っていました。

 ユダの血統を継ぐ者としては次の立場にいたはずのオナンが、タマルによって子孫を残すことを拒んだのも、受け継いだものが皆、兄の家族の所有に留まってしまうことになっていたからです。オナンは表面上タマルを妻として迎えましたが、タマルに子供をもうけさせようとはしませんでした。しかしユダが末子シラをタマルのもとに送るという約束を果たさなかったため、タマルは子供を生むためにユダを欺くという手段に訴えることとなりました。

 24節には、ユダの矛盾した価値判断に注目する必要があります。約束を果たさないままタマルを実家に送り帰したことにも、道端で遊女を拾ったことにもユダは少しも両親の呵責を感じてはいません。それなのに、タマルが姦淫によりみごもったと聞いて激怒し、死刑にするように命令をしています。このような歪んだ人格は神には良しとはされないでしょう。




39章7〜12節

7節 これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。
8節 ヨセフは拒んで、主人の妻に言った、「御主人はわたしがいるので家の中の物を何をも顧みず、その持ち物をみなわたしの手にゆだねられました。
9節 この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何もわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻だからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。
10節 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞きいれず、彼女と寝なかった。また共にいなかった。
11節 ある日、ヨセフが努めをするために家にはいった時、家の者がひとりもいなかったので、
12節 彼女はヨセフの着物を捕らえて、「わたしと寝なさい」と言った。ヨセフは着物を彼女の手に残して外にのがれ出た。


 ポテパルの妻が言い寄って来た時のヨセフの答えは、この偉大な義人の人間性をいかんなく表わしています。
 聖典には、人が同胞のために努めるのは、ただ神のために努めるのであるという原則をヨセフは理解しており、このような形で主人をだますのは恐ろしいことであるとポテパルの妻に答えました。そしてヨセフは、「どうしてわたしはこのような大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」と言う結果になりました。




第39章20〜21節

20節 そしてヨセフの主人は彼を捕らえて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、
21節 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みを受けさせられた。


 ポテパルはパロのもとで大きな権力を握っており、おそらくは王室死刑執行人の長であったと見られます。それにもかかわらず、ヨセフがただ獄屋に入れられただけで死刑にならなかったということは、注目に価する所です。主人の妻に暴行しようとして捕らえられた奴隷なら、極刑に処せられるのも当然でしたが、ヨセフはただ獄屋に入れられただけでした。これは、ポテパルがヨセフの性格と自分の妻の性格を熟知していて、妻の訴えの信憑性を疑った結果、とりあえず何らかの処置をとらなければならず、ヨセフに対して比較的寛大な処置をとることになったと考えられます。事情はどうであっても、確かに神の手がヨセフの上にあって、普通なら死刑を免れない事態の中からヨセフは救われる事となりました。




第39章22〜23節、第40章1〜23節

39章22節 獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。
39章23節 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。
40章4節 侍衛長はヨセフに命じて彼らと共におらせたので、ヨセフは彼らに仕えた。こうして彼らは監禁所で幾日かを過ごした。
40章7節 そこでヨセフは自分と一緒に主人の家の監禁所にいるパロの役人たちに尋ねて言った、「どうして、きょう、あなたがたの顔色が悪いのですか」。
40章8節 彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。


 ヨセフが霊的にも偉大な人物であったことは特筆することです。現実のことであるなしを問わず、こうした冷たい仕打ちに対して恨みつらみを言ったり、自分に起こった悲劇のゆえに神を非難したりする人がどれほど多いことでしょうか。彼は正しい事に対していつも忠実であって、またそれを堅く信じていたにもかかわらずヨセフは偽りの告発で投獄されているのです。ヨセフが投げやりな気持ちになって、「神に仕えようと努めても何の利益があるのか。ただ神は自分を罰せられるだけではないのか」などと思う事は容易であるといえます。しかし、恨みつらみを言ったり、神を非難したりした形跡はまるで見当たりません。彼は今まで通り正しく忠実な生活をしています。しかも自分の中に閉じこもらずに、一緒にいた二人の夢を解き明かしてやり、これは神から知らされたことをおしえています。

 ヨセフは獄屋で人生を過ごすことは不運な事だと感じていたと思われますが、聖書から見て、それでも神に信頼を置いていることがわかります。もし不平不満を言う理由があると感じる人物がいるとしたら、それは他でもなくヨセフですが、ヨセフの信仰はゆらぐことはありませんでした。まことにヨセフは、善い人としての目標であり、模範であると言えます。



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