創世記 第3章研究解読



第3章1節 第3章3節 第3章4〜5節 第3章6〜7節 第3章14〜15節 第3章16〜19節



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2006/ 9/15  6〜7節 追加、改定
2000/ 8/20  6〜7節、14〜15節 、16〜19節 UP
1999/ 5/11  16節 UP
1999/ 4/19  4〜5節 UP
1998/12/ 3  1節、3節 UP


 おそらく聖書の出来事の中で、アダムとエバに関する記述ほど、議論を呼びわずかしか理解されていない個所は他にはないと思われます。最初の人物であるアダムは、多くの人々にとってよく議論の対象となっている人物で、その妻イブも同様です。このふたりはこの地上で生活した。夫婦の中でも、最も誤解された夫婦といえるでしょう。でも、これはいたしかたないことであって、特に驚くことでもありません。それは、過去幾世紀にわたって、人類の始祖について誤った概念や筋違いの説が、ちまたに溢れている結果となっています。大抵の場合その原因の元は、宗教の指導者と呼ばれる人であり、彼らはアダムとエバに関する事実を知らないままに、自分の解釈を人に吹聴し、人々に霊感もなにも受けていない教義を押しつけてきました。その結果、時代を経るにつれて、混乱の山が次々にできてしまっています。


 天地創造と堕落についての記録が誤って理解されて解釈されている理由のひとつは、旧約聖書からだれにでもわかる重要な部分が、意図的に取り去られてしまっていることにあります。この失われた部分はモーセの書やアブラハムの書などで、ある程度回復できるものと思われます。聖書は古代から変わっていないと主張する人々の根拠は、死海文書にありますが、それらの物は紀元前250年頃につくられたものです。確かにその時期からは変わってはいないようですが、旧約聖書の年代の範囲は約4000年ほどで、実際にモーセによって書かれた年代が紀元前1300年代頃であっても、彼らはそのわずかな期間を見て、「全て、変わっていない」と考えています。

 しかし、神聖な書物がきちんと残っていないのは、その当時の邪悪な政治により、意図的に失われたからであると見てもあながち間違いではないでしょう。それゆえに洞窟などに「隠す」必要があったはずで、それらを隠したと思われる当時の預言者や聖職者は、「書き換えられる前の書物」を後世に残したと思われます。

 この堕落については新約聖書に多少の説明があります。しかし、旧約聖書では堕落については創世記に出来事として扱われてはいますが、「堕落の教義」については何も触れてはいません。ですが、他の書を研究するにあたり堕落の目的とは、人類を生ずるためであり、人類が現世にあるのは経験を積んで成長し、幸福になるためであると解釈できます。


 地球創世時、エデンの園にいたアダムとエバはまだ死の力には支配されてなく、もし園でふたりに与えられた律法を破らなければ、その当時の罪のない状態のまま永遠ともいえる期間に渡り生き続けていたと思われます。地球も、「甚だ良し」と言われていたことにより、もしアダムの堕落した状態に見合うように変わる必要がなかったとしたら、当時のまま永遠を維持することになり、地上にあるものも同様といえます。


 しかしなから、アダムとエバが律法を破っていなかったら、子供をもうけることもなかったと思われます。当初の律法に背くということは、肉体を死すべき状態にすることであって、アダムとアダムの子孫はその状態を受け継ぎ、肉体の死を迎えることになったということです。つまり、創造主はアダムが律法を破ったが故に彼らに見合うように地球を変えて、地球自体も同様に星としての死を受けることになったということです。その結果、死の持っている力に打ち勝つために、あらゆる経験とよい行いによって復活を通じて、アダムとエバやその子孫のすべてと地上のものが、もとの不死不滅の生命になるように無限ともいえる贖いの計画が天上で備えられていたのが、堕落の真意のひとつであると見るのが最も妥当であると思われます。




第3章1節

1節 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。


 創世記の記録では、へびがエバに語って実を取るようにそそのかしたとあります。しかしモーセの記録によると、へびの口を借りてサタン自身が語っていたとなっており(モーセの書4章6〜7節)、さらにこのサタンは、ほかの所でその象徴として「へびの姿」が使われています。(黙示録12章9節




第3章3節

3節 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、 神は言われました」。


 アダムとエバは、エデン園の中では死すべき状態ではなく、善悪も完全には理解していなかったと言えます。堕落する前のアダムの状態とは、


まだ死に支配されてはいなかった
神の御前にあった
子孫はまだいなかった
善悪の知識が完全ではなかった


 彼らにはある程度の知識はあったと思われ、話すことも意志の疎通をはかることもできていたはずであって、学ぶこともたくさんあり、実際に神から教わっていたと考えられます。しかし当時彼が置かれていた状況では、善と悪の力を心に描いたり理解する力はなかったと思われています。それに彼らは苦痛や悲しみというものがどんなものであるかも知らなかったとも考えられます。このことから言えることは、他の動植物にも死がまだ訪れていなかったと考えられ、彼らの周りにも死がないため、それを見ることも聞くこともなかったといえるでしょう。




第3章4〜5節

4節 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5節 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。


 悪魔はエバをそそのかすにあたって、ある面では真理を語っています。つまり、善悪を知る木の実を食べれば、神々のようになるとエバに教えています。この点では確かに真理を語っていますが、しかし悪魔はいつものようにその真理に「うそ」を添えています。悪魔が完全な真理を語れないので、その時決して死ぬことはないと言っていますが、しかし御父は死ななければならないと言っており、そこで悪魔は自分の目的を達成するためにどうしてもうそをつく必要が出てきたわけですが、しかしながら悪魔の言葉にも多少の真理が含まれていました。

 実際に二人の目は開け、神々のように善悪を知るようになりました。なぜなら、この性質は神の栄光に到達する者にとって、ひとつの欠くことのできない「資質」とも言えるものだからです。つまり、人はその人生のうちで


自分の考えで「善悪の区別」がつけられるようにならなければならない


ことを意味しています。




第3章6〜7節

6節 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7節 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。


 創世記の記録では、へびがエバに近づいたとしか書かれておらず、これはモーセの書も同様です。このわずか2節しかない文章には、多くの意味が込められています。へびの口を使ってエバに話かけたサタンルシフェルとも定義される、天界の3分の1もの人々を引き連れて地に落とされた存在は、誘惑させて善悪を知る木の実を食べさせることに成功しました。そしてエバを通してアダムにも食べさせています。これに関して使徒パウロは、この堕落の始まりとされる出来事に次のように述べています。

また、アダムは惑わされなかったが、女はまどわされて、あやまちを犯した。


これはエバを誘惑する前にアダムを先に誘惑していたことを意味しています


 パウロの述べた言葉は、また別の状況も示唆しています。エバが善悪を知る木の実を食べたことによって、善悪を知るようになるとエデンの園から彼女が追放されることを知ったアダムは、それらを踏まえたことを承知で自らも実を食べたことです。この短い文章の真意は、


アダムはエバに騙されたのではなく、自らの意思で実を食べて善悪を知る者となった


ことが記された重要な部分です。末日聖徒のある教会役員は、エバは惑わされたとはいうものの、それでも神の計画の範疇であって目的を成就したとして、次のように説明しています。

「エバは堕落という偉大な劇中であの役を演じ、予知せられた神の目的を成就していたが、エバはそのもくろみで禁断の果実を食べたのではなくて、サタンの詭弁に欺かれて神の命令に背く行為をしようとして食べたのである。そしてサタンもまたこのことのためにエバを誘惑して造り主の目的を助けることになったが、サタンの計略は主の計画を妨害することにあった。聖文には『神の思いを知らなかったので、世を滅ぼそうとした(モーセ4章6節)』とはっきり記してある。しかるに、サタンの凶悪な努力も滅びに向って第一歩どころか、人間が永遠に進歩向上するという計画の役に立ってしまった。

 あの大事件の中でアダムの演じた役はエバの役とは本来違っていた。アダムは欺かれなかったどころか、よくよく考えた末に決心して人類に関する造り主の目的を貫き、人類最初の大祝福師に聖任されるためにエバの望み通り禁断の実を食べたのである。(信仰箇条の研究p88)」

 アダムとエバの犯した過ちについて、先の教会指導者は次のようにも語りました。

 「わたしはこの機会を利用して、誤った聖句の解釈に反対を叫ぶものである。この誤った解釈というのは、ある人々が現在心の中で信じており、ひっそりと秘密裏に話しているものである。それは、人類の堕落は純血の律法と貞節の律法とを破ったある罪から生じたという解釈である。このような教えは憎むべき教えである。人類は不義の結果生まれているのではない。人類に与えられている体は、神が備えられた道によって与えられているのである。人類の始祖は清らかで気高かった。わたしたちが、現世と霊界を隔てている幕の向こう側へ行くと、恐らく今知っている以上に2人が高い位に就いていることを知るに違いない。(基督イエスp34)」




第3章14〜15節

14節 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
15節 わたしは恨みをおく、おまえと女のあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に、彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。


 これはサタンに対する神の呪いについて書かれてあります。サタンには肉体がなく、そのため文字通りの子孫をもうけることはできません。ここで言う「サタンのすえ」とはサタンに従う者のことです。これは前世でサタンが連れ去った3分の1の霊のことであり、また現世でサタンの誘惑に乗ってその支配下に入ってしまう者のことでもあります。女のすえというのはイエス・キリストのことを指しています。ある教会指導者は、使徒パウロがローマの聖徒に宛てた手紙について次のように言っています。

 「ローマの聖徒たちに宛てた書簡の最後の部分で、パウロは「平和の神は、サタンを速やかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように(ローマ16章20節)」と書いている。聖文がサタンを踏み砕くと言っているこの「平和の神」とは、イエス・キリストである。」


 頭やかかとを砕くという約束とは、


蛇としてのサタンが、人々を扇動して救い主を十字架につけさせて、一応は救い主を滅ぼしてしまうことによってそのかかとを砕きはするものの、実際には、その贖罪の働きによってキリストが力を得て、人を支配しているサタンの持つ力に勝ち、堕落の及ぼしていた影響を解くことです。


 つまり、女のすえ(キリスト)は、まさに砕かれたかかと(贖いの犠牲)によって、蛇(サタンとその王国)の頭を踏み砕きます。




第3章16〜19節

16節 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
17節 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
18節 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
19節 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。


 神は女に「・・・あなたは苦しんで(欽定訳:悲痛の中に)子を産む」と言っていますが、これは聖書を翻訳した人々が「悲痛の中に」と表現せずに、「苦しんで」という言葉を使うこともできたのではと考えられます。たいした違いはありませんが、大抵の家庭では子供が生まれる時は大きな喜びがあることを考えると、「苦しんで」のほうが適切な感じがします。神はエバへの言葉を終えるにあたって、「それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治める(欽定訳:統治する、あるいは支配する)であろう」と言っています。この「統治する」「支配する」という言葉使いについては少々の疑問があり、この場合「管理する」という方が正しいように思われます。つまり、義しい夫は妻と家族を正しく「管理」しているという事が言えるでしょう。

 この部分を読むと、アダムとエバが陥った状態を想像することができるでしょう。2人は苦しみや悲しみ、困難や苦役を受けると宣告され、神の前から追放されました。また、行く手には死が待ち受けているという哀れな状態となっています。しかし同時に、極めて重要なことが起こりました。それは


アダムとエバにはキリストの福音が教えられたことです。


 神が二人に、贖いというものが神の独り子であるイエス・キリストによってもたらされると説明したとき、アダムは「神の御名がたたえられるように、わたしの背きのゆえに、わたしの目は開かれた。わたしはこの世で喜びを受け、再び肉体にあって神にまみえるであろう(モーセ5章10節)」と言っています。妻であるエバは次のように言いました。「これらすべてのことを聞き、喜びながら言った『わたしたちの背きがなかったならば、わたしたちは決して子孫を持つことはなく、また善悪も、贖いの喜びも、神がすべての従順な者に与えてくださる永遠の命も、決して知ることはなかったことでしょう。』(11節)」


 ここに、なぜ悪がするのかという問題を解く鍵があります。もし、悪に対抗して勝つ以外に善くなることができないとすれば、抵抗する対象としての悪がどうしても存在しなければなりません。それゆえ、この地上の生活は真理の原則にのっとって開始されたと言えます。罪を犯したために引き起こされた様々な状態は、通常の意味での人々に課せられる罰とは違っていました。先に上げた、つらい刑罰に見える悲しみや困難といったものは全て、結局のところそうではなく、むしろ祝福となっています。ここで勘違いしてはいけないことは、「祝福」と言ったからといって、悲しみや困難自体が祝福ではないことです。これを混同した人々は、後に邪悪な生け贄を伴なった偶像崇拝に発展して行ったことでしょう。

 人は善悪を知る知識を得て、人生の楽しみを大切にして選択の自由を行使する力を得、更に贖いと永遠の命に至る力をも得ました。こうしたことは全て、この罪を犯したことに端を発しました。神(キリスト)は地球を造るに当たって、人々が生きるつもりならどうしても働かなければならないというは全て、この罪を犯したことに端を発しました。神(キリスト)は地球を造るに当たって、人々が生きるつもりならどうしても働かなければならないという条件を設定します。しかし、このために人々は怠惰の呪いから免れています。また神は、「この世の死」というものを定めましたが、死はこの世に生きる人にとっては、最大の祝福の1つであると言うことができます。つまり、


死は不死不滅の入口であって、死を経ずしては決して不死不滅に入ることはできない


ことを意味します。

 アダムは律法に背いたので、霊の死、つまり神の前から断ち切られることと肉体の死を自分の身に招きました。霊の死は堕落と追放の時に生じ、肉体の死もそのときから始まったとされています。この時を境にアダムとエバの身に物質上の変化が生じて、2人は死ぬ体を持つ「人」となりました。彼らは肉体の病を免れることができなくなり、だんだん年をとって老いるとついには肉体と霊が分離するようになりました。人は堕落により、生まれながらの本性が表に出て、肉欲や堪能におぼれてしまって悪に従いやすい者となったので、この状態は彼らの準備、つまり来世における試しの状態となります。これによる正義の贖いの計画とは、


この試しの状態で、人々が悔い改めるという条件がなければ成し遂げられない


ことをいっています。この世の多くの人々が、肉体の死というものは初めから存在していたのであって、アダムとエバをもって始まったなどということはあり得ないと教えています。このような考え方についてある教会指導者は次のように言っています。

 「現在の教育は、人類の堕落などというものは実際にはなく、もともと世界の状態はずっと昔から今の現世の世界と同じ状態であったと言明している。地上では死と突然変異が常に主権を握り、宇宙全体を通じても同じ法則が支配している、と今日の教育は言う。人類は数え切れない年数を経て進化の過程を通り、下等な生物状態から徐々に登って、今日の高度の水準に到達したというのである。そのような話は必然的にアダムやエデンの園の話を、原始時代の無知の産物あるいは迷信として退ける。さらに、死は最初から存在した現象であったし、宇宙全体を通じてそれが見られるので、アダムの背きから贖われるなどということはあり得ない、したがって堕落した世界に救い主は不必要であるということが教えられている。」



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