創世記 第1章研究解読



地球の年齢 第1章1節 第1章2節 第1章3〜5節 第1章6〜8節 第1章9節
第1章11〜12、21、24〜25節 第1章26〜27節 第1章28節



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2005/ 6/12  28節 改訂
1998/12/ 2  28節に追加



地球の年齢


 創世記第1章が、あらゆる物の初めや人類の誕生した時期についてではなく、この地球の初めについて書かれたものであることは理解できても、その「はじめ」がいつなのかは、明確にすることはできません。聖書中には地球の年齢を決定するだけの情報が記載されてないということです。一般的に聖書を受け入れている人々は、地球の年齢に関して大体3つの説のいずれかを支持しているようです。その 3つの説の違いは、「一日」をどのように解釈するかにより分かれています。

 そのうちの1つは、この「一日」という言葉を現在使われているままの24時間に置き換えてみる学説で、これによると地球は1週間、168時間で造られたことになります。そうすると地球の年齢は約6000年となりますが、天地創造には168時間では創造できない証拠がたくさんあります。

 2つめはアブラハムウリムとトンミムを通じて、の御座に最も近い星であるコロブは1回転するのに1000年を要すると教えられたことを論拠としています。言い換えると、神の時による1日はこの地球の1000年にあたるということです。この説を支持する聖句は、詩篇90章 4節、ペテロ第二 3章 8節、アブラハムの書の挿し絵などがあります。創世記の「一日」という言葉かこの意味で使われたとすると、天地創造の7000年とアダムの堕落後の6000年をたして、地球の年齢はおよそ13000年ということになります。

 現在の地質学者や天文学者やその他の科学者の大部分は、この13000年という長さでも、地上で発見される物的証拠を説明するのには不十分であるとしていますが、それに意義を持っている著名な学者も少数ではありますが、存在します。その主張とは、地質学で使われる時間計測法はその解析に誤りがあって、地球の歴史上起こった数々の地殻大変動によって、本来なら何千年もかかるはずの様々な過程が短時間で行われたというものです。彼らは13000年というのは決して、非現実的な時間ではないとして、その説を支持する証拠をいくつもあげています。

 そのなかの一人で、イマヌエル・ベリコフスキーという学者は、世界的な地殻の大変動は比較的近年に起こったことを示す証拠を集めて3冊の本を書いて、現在見られる地質の変化は過去のどの時点でもほぼ同様の速さで進んだとする「斉一論」に反論しています。


その3冊の本とは、「衝突する世界」、「混沌の時代」、「変動する地球」です


 3つの学説は、この「一日」という言葉は、はっきりとした時間の流れを表わすのでなく、「代」や「紀」を表わしているとする説です。天地創造の記術に使われているヘブライ語のday「一日」という言葉に相当する語は、文字通り「一日」と翻訳するすることは可能ですが、「ある漠然とした長さの時間」という意味でも使用されます。dayに相当する聖句は創生期40章4節では「幾日か」、士師記11章 4節では「日がたって」と翻訳されています。アブラハムは神々は天地創造の区切りを時と「呼びたまえり」と書いています。

 モーセの使った「一日」という言葉もこの意味で使われたとするとなら、地球の年代は極めて古いとする科学上の証拠と聖典との間に見られる明らかな矛盾も解くことができ、これなら天地創造の一期間は、それぞれ数百万年、あるいは数億年続いたことになり、斉一説も問題なく受け入れることができます。

 こうしたいろいろな説に注目することは、このような研究をしている人にとって非常に興味深いことですが、参考にしている文献のなかではどの書も決定的な年代をあげてはいません。おそらく、何かの意図があって隠されているものと思われます。事実、いろいろな宗教団体が予言と称して年月を指定していますが、はっきりと当たっているものは今の処皆無です。それはノストラダムスの予言も同じと見れます。このことから想像するに、天地創造について年代を決定しようとすると「迷い」が生じるのではないのでしょうか。しかし、近いうちに必ず明確ではないにしても指針となる年代が明らかになることでしょう。


進化論についてはこちらを参照




第1章1節

1節 はじめに天と地とを創造された。


「はじめに」

 聖書冒頭のこの言葉について、重要な点が2つあります。第一に、「はじめ」という言葉が相対的な時間を表わす言葉であって、永遠という時の流れの開始点を意味する言葉ではないということです。神はモーセに向かって、この世についてのみ語ると言っています。それはどういうことを意味しているのかというと、神の創った天地、すなわち宇宙空間に存在する多くの星を指しており、その数は人智の及ばないほどで、すでに過ぎてしまった世界(天体)も数多くあるということを証明しています。

 これゆえに、「はじめ」とはおそらく太陽系の創生、地球の誕生を指し示しているものと考えられます。つまり、創世記の始まりは地球の誕生直後からの記術ということになります。

 第二に、この世界の創造はこの世界に来ることになってた人々にとって、本当の意味での「はじめ」ではなかったことになります。地球の基が置かれる以前に、人々は前世で天の両親の「霊の子供」として存在し、生活していたと言われています。ヨハネの黙示録12章の出来事は、まだ地球に人が来る前に起こった出来事で、人の霊はこの世に来る以前から存在していたことを示しています。そこでは天上の会議が行われ皆参加していて、その結果サタンとそれに従う天の住民の 3分の1は地に落とされ、天上の残った人々には、この地球で生活する計画と贖いの方法が示されています。

 そのときサタンは、自分の業績と引き換えに霊の父がその誉れをくれるなら、自分が救い主になってもよいという条件付きの申し出をしています。この地球で生まれた人はそのときの出来事を皆見ており、人としての一生をこの世で送ったということは、キリストの提案を受け入れた人々ということになります。

 「天と地」

 
この状態の地球は、水星や木星の氷衛星、または冥王星のように、表面が凍結していたとも推測されますが、地球はこれらの星よりも大きいのでそこまでは宇宙空間の影響を受けて冷却されなかったともいえます。真っ黒の空の下に地球を覆うほどの水があったと考えられ、晴れていれば現在の地球から見るよりはるかに星が見えていたかもしれません。

 「創造」

 「創造された」と翻訳しているヘブライ語の言葉の意味は、「形造った、作った、創造した」ということであって、「常に神の行動を指す」ということです。斉一論を唱える学者達は創造するという言葉から、無から作られた、あるいは高エネルギーの「無」からの宇宙の発生と推断していますが、創造する(baurau)という言葉の意味は、無から創り出すという意味ではなく、「組織」するという意味です。神はもともとあった材料を用いて、混沌の中からこの世界、宇宙を組織していると見ています。この物質が「元素」であり、再三再四組織されても決して消滅しないものです。

 消滅しないということは、初めもなく、また終わりもない「永遠」を意味しているのではないでしょうか。

天地の創造者」

 
モーセの書1章33節に、「われは、無数の世界を創りたり。而して、またこれらはわれ自らの目的ありて造りしなり。而して、わが子によりてこれらの世界を創りたり。わが子とはわが生みたる独り子のことなり。」 とあって、これらのことから創造の業を管理したのは神ですが、数多くの聖句からもわかるように実際にはエホバ、すなわちこの世に生まれる前のキリストに天地創造の責任が与えられています。その責任はこの地球だけではなく、他の無数の星々の世界にまで及んでいます。しかし、創造の業はキリスト一人で行ったわけではありません。

 アブラハムの記録によると、前世の霊の中に「高貴にして偉大なるもの多くあり」、その中に「神のごとき者」がいて、他の霊たちに向かって「・・・わたしたちは降って行こう。・・・そして、これらの材料を取って、これらの者が住む地を造ろう。(アブラハムの書3章2224節)」と言っています。これによると、天地創造の助けをした霊がアダムの他にもいたということを証明することになります。おそらく、聖書中に出てくる預言者たちは天上でキリストと共に創造の業を行い、地上で神の権力者となるように聖任されていたということでしょう。


 
聖書の最初のヘブライ語の単語であるBerosheitについて分析してみると、baithは「・・・のうちに、・・・によって、を通し」などいろいろな意味があり、roshは「頭」、sheitは文法上の終結を意味します。霊感を受けて書かれた当時、baithはそこになく、何の権威も権能も持たない古代のユダヤ人がその言葉を付け足してしまいました。そのユダヤ人は「頭」について話し始めるのはよくないと考えて、書き足してしまっています。そこは初め、「神々の頭は神々を起こしたもうた」と書かれてあったようです。おそらくこれがこの言葉の本当の意味と思われ、baurauは「生ずる」を意味します。

 先の書からまとめると、「・・・頭たる神は神々を集め、地球を創造するために大会議の座につかれた。大いなる議員らはかなたの諸点の頂に座し、行われつつある諸々の世界の創造を見守っていた」となります。この複数の神々という概念は、創造に関するアブラハムの記録の第4章に現れています。しかし、神々とあってもそれは多神教の意味ではなく、神のような力を持った「霊の子供たち」が多数存在するという意味です。



第1章2節

2節 地は形なく、むなしく、やみが淵の表にあり、の霊が水のおもてをおおっていた



この「形なく、むなしい」というのは、ヘブライ語から解釈して、アブラハムの記録を読む限り、「空しく荒れ果てたる」状態であったといえます。創世記の記術では、地球を人の住む場所にする準備が開始される時点において、地球は水につつまれ、「神の霊」がそのおもてをおおって、または抱いていました。この「おおう」とか「抱く」といった言葉は、ヘブライ語でちょうど鳥が巣の中で卵を抱いたり守ったりする状態を指す言葉を翻訳した結果です。ここで「神の霊」と呼ばれる創造の力が働きかけて、地上の生命を維持できるように元素を形造って備えさせてますが、近代の啓示で「キリストの光」と言われているものと同じと思われます。

この力が、霊の父の指揮の下に長子であるキリストによって行使されたことは、ヨハネ1章1〜4節、ヘブル人への手紙1章1〜2節といった聖句からも明らかです。

 惑星の誕生直後は天体自体の温度もかなり高く、液体の水はまだ存在していません。地球を構成している地殻や核などもまだはっきりとした形をとっておらず、いろいろな元素が交じり合った状態であったと思われます。その後、液体の水が存在できるほど地球が冷えてきました。それが2節にあたります。




第1章3〜5節

3節 は 「光あれ」 と言われた。 すると光があった。
4節 神はその光を見て、良しとされた。 神はその光とやみとを分けられた。
5節 神は光をひると名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。



 「光あれ」

 
この「光」は、キリストの提唱する「真理の光」なのかはまだ当研究者は把握しておりません。太陽系創生時と想定して進めていくことにします。おそらくこの光は、混沌の中にあった太陽が輝き始めたものと思われ、天体内部の発電機の役割をする、地球で言うマントルのようなものの物質の生成がほぼ完了した時期といえます。

 「やみ」

とは、ただの光の影ではなく、光と同様の光学現象ではないかと推測します。それは強い磁場と太陽光線がある条件で交差したりすると「全く光らない光」ができてしまうことからも、おそらくそのことを指すのではないかと思います。その「光らないひかり」はブラックホールの周りで確認されています


「夕となり、また朝になった」

 太陽系創生時、すでに各惑星は自転をしていたと考えられますが、しかしまだ太陽が発光していないので、ただ暗黒が続いていたのでしょう。その後、太陽が輝き始め、そこで昼と夜の区別が初めてついたと思われます。




第1章6〜8節

6節 はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水を分けよ」。
7節 そのようになった。神はおおぞらをつくって、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とをわけられた。
8節 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。



 「おおぞら」

 聖典中で「おおぞら」と翻訳されている言葉は、ヘブライ語の「広げる」とか「伸ばす」という言葉から出でいます。最近の翻訳では、「広がり」という語で訳しているものも多いです。この言葉はアブラハムの書4章6〜7節でも使われていて、大空、又は大気の広がりのことを指すものと思われます。

 「下の水と上の水」

 おおぞらの「下」の水というのは、地球上の表面にある水を言い、「上」の水というのは大気中に浮遊する水蒸気等の水のことです。地上にある水とは大空によって分けられており、雲となって蓄積された水はやがて雨となって降るようにごく一般的な現象として現われます。しかし、ここで注意が必要です。聖書の表記法はおおまか、あるいは「結果」を書いている場合が多く、ひとつの事柄でも数年、数十年の期間が経過している場合もあります。

 ここでは下の水となっていますが、最近の研究では地球の内部は大量の水が存在することが明らかになっています。しかし、分けられたからといっても、青空とは書いてなく、ただ、おおぞらとおおぞらの上の水となっています


 このことから、地球上はこの時期から、大洪水が終わるまで「くもり空」であることがわかり、大量の水蒸気が上空にあるということは、現在の地球より大気圧が高く、酸素や二酸化炭素の摂取できる量も多いということになり、巨大な恐竜や植物等が生息できる条件があったことの証明にもなります。このくもり空が7節にあたり、それを「天蓋」といいます。その天蓋があることにより、生物に悪影響のある紫外線が遮断され、この時代の生物が長寿である証拠でもあります。




第1章9節

9節 はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現われよ」。そのようになった。


 この9節は地球創生期において、劇的な地殻変動があったことを意味します。もともと水で覆われていたので、地が盛り上がるか、地球自体が膨らむか、あるいはその両方ではと考えられます。現代の地質学から見ても、昔の大陸は今の地球ほどの陸地の高低差はなかったということがわかってきています。海は何千mも深くなく、山も今ほど高くはなかったということです。当然ながら、ヒマラヤやアルプスなどの山脈もまだできていませんでした。




第1章11〜12節、21節、24〜25節

11節 はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがってたねのある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
12節 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
21節 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。
24節 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
25節 神は地の獣を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。


 これらの聖句は、遺伝の法則、つまりメンデルの法則の基本的な事象が、創造に関する記録の、創世記第1章、モーセの書第2章アブラハムの書第4章の3つの記録に表れています。それぞれの記録の中で「種類にしたがって」という言い回しが、何度となく使われています。アブラハムは第4章11〜12節でこの点を強調していて、31節にはがこの地球に与えられた律法は変わらないということをさらに強調していると思われます。これらのことから、神は一定かつ不変の法則をいくつか定めたということになります。

 例えば神は、太陽や月や星を天に置き、それに法則や条件や限界を与えており、これらは神の命令なくしては越えることのできないものという意味になります。現在太陽や月や星はその軌道上を、一部の異変を除き、ほぼ完全に調和を保って運行しており、生物にとって必要な光となり驚異となり、しるしとなっています。海にもまた越えることのできない限界があります。ということは、神はこの地上にもたくさんのしるしを置いていることにもなります。

 例えば森の大木や木の実、様々な草花、野菜、果物などといったものは、なんらかの方法であれ種子がそこに蒔かれたという「しるし」を持っていることになり、地上の生物が自分と同じ種類の子孫を生じ、決して他の法則や原理に従って生殖しないのは、その創造主の「命令」によるということになります。


21節

 この節で使われている「海の大いなる獣」という言葉は、ヘブライ語のtannanimという語を翻訳したもので、「伸ばす」という意味の動詞から派生したもので「長く伸ばされたもの」という意味になります。そのため、おそらくこの語はくじらなどに限定したものではなく、いるか、鮫、鰐(わに)といった大型の動物や爬虫類、まだ明らかにされていない水棲生物を指しているものと思われます。




第1章26〜27節

26節 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27節 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。



 「われわれにかたどって」とあるように、人間の姿形はの姿形ということになります。ということは、天界には天の御父だけではなく、御母の存在をも意味しています。また、人という言葉は当然ながら、男も女もあてはまり、人は文字どおり神の息子や娘という意味になります。アダムが最初の人であったということは、最初に神から権能をもらった人であると言うことができます。「治めさせよう」とある通り、これは計画であって実行ではありません。ということは、アダムがまだ地球に来る前の計画ということになり、地のすべてのものを治めさせる、なんらかの権能があらかじめアダムに与えられたという意味になります。この部分の補足とあらましが第2章に記されています。(使徒行伝第7章56節




第1章28節

28節 は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。



 記録されている限りの情報では、最初の戒めは「ふえよ、地に満ちよ」であったと言われています。ただ、この聖句の注意点は、誰であっても結婚をしなくても子供をつくってもよいということを意味しているわけではありません。モーセの書によると、神の業の第一の目的は「人に不死不滅と永遠の生命をもたらすとあり(モーセの書1章39節)、また他の書によると、人は骨肉の体なくして完全な喜びを得ることはできないとあり、アブラハムの書には、試しを受けるために地上に来ることは、永遠の進歩に不可欠な要素であると書かれています(アブラハムの書3章25節)。

 創世記の第1章1節から第2章3節までは、地球の創造を要約したものです。つまり、第1章27〜28節の説明が、第2章4節から24節にあたると考えられます。

 この28節は、よく読むと非常に重要な意味をもっています。つまり、アダムエバエデンの園を追い出されるまでの地上は、現代のような世界ではなく、全ての細胞には直接の神の光が与えられて、世界中の生物は死ぬことがなかったということです。すなわち、生きて増えるだけと考えられます。それまでの生物たちに与えられた戒めは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と神から言われており、「生きた後に、死すべし」とは言われていません。つまり、「老衰死」する可能性が低いと考えられ、現在のように死が身近なものではなかったのかもしれません。しかし、アダムとエバが堕落した後にその「神の光」が取り去られて、動植物は食糧を求めて飢え始め、それぞれの資質に見合った食べ物を捕食するようになっていきました。30節には、すべての動物の食物として植物が与えられていたことが記されています。キリストの再臨によって統治される福千年には、肉食の動物たちはこの時代の様に草を食べると言われています。

 ではこの死すべき肉体より前の段階で、「産めよ、増えよ」と記されている通りにアダムとエバから霊的な子供が生れていたかというと、この件に関してほとんどの情報がないので、あったともないとも言えないのが現状です。



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