使徒行伝 第4〜7章研究解読



第4章6節 第4章12節
第7章56節



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2006/10/10  第7章56節 追加・修正
2006/10/ 3  第7章56節 追加・修正
2006/10/ 2  第7章56節 UP
2006/ 9/29  第4章12節 UP
2003/12/18  第4章6節 UP



第4章6節

6節 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。


 アンナスはイエスの時代の大祭司であり、彼はセスの子で、37歳の時にその職に就きました。これはバプテスマヨハネが荒野で悔い改めを叫び始めた頃のことです。アンナスはカヤパの義理の父でカヤパはイエスの十字架上の死、ならびに議会でペテロとヨハネが尋問されていた時の大祭司でした(ヨハネ18章18、24節、)。彼はユダヤ人の中ではかなりの有力者で、5人の息子すべてが大祭司の職に就いています。

 カヤパは正式には「ヨセフ・カヤパ」といって、テベリオの時代の大祭司です(マタイ26章3、57節、ヨハネ11章49節、18章13〜14、24、28節)。イエスとペテロ、ヨハネの3人が立ったのは、このカヤパの前でした。彼はアンナスの義理の息子で、この要職を18年間務めています。ここにあるヨハネとアレキサンデルについては、名前が記されているだけで、他の資料等はありません。




第4章12節
12節 この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである


 一般的に、キリスト教では「救い主はイエス・キリスト」であることが、この個所をはじめ聖書の中ではあちこちに見ることができます。しかし旧約のも同じ事を言っていることを認識するのは「一般的ではない」ようです。聖書は完全であると豪語する人の中にもこれは見られますが、自分たちで取り決めをした神、御子、聖霊は1つの存在という教義に破綻をきたしています。その説を支持する人たちは、旧約の神とイエス・キリストについて非常に解り難い仮説でもって教えを説くので、聞く人に混乱を生じさせるものです。この第4章12節はペテロが発した言葉ですが、旧約の神も自分を表すのに使用しています。


ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。(イザヤ第43章11節)


 これはどのように考えるべきでしょうか。このHPでは再三にわたって「旧約の神はイエス・キリストである」と述べています。これが同じ旧約聖書を原典とする、ユダヤ教やイスラム教であるなら話は別の方向へ向いますが、キリスト教の間で意見が分かれるのはキリスト教の大問題でしょう。しかしこのような奥義の迷走は預言として前もって予告されており、人々が邪悪に成るにつれてそれはことごとく成就してきました。現在でもその余波は多く残っており、キリストの教義を金銭に換えて生き長らえようとする人々によって、曲げられた教義が横行しています。彼らには神の言葉を直接聞ける「預言者」という存在がなく、自分たちの集団の中から学識と名声のある人物を選び出し、預言者に代わる者として組織の上位に位置付けます。

 当然神によって任命された者ではないので、そこに聖霊やキリストの霊、御霊といったものが宿ることはほとんどありません。聖書の解釈にも限界があり、理解を超えたところは自分たちの知識によって補うので、論理が破綻してしまいます。その破綻した論理から導き出されたのが「三位一体」という説です。この説は巧妙な言い逃れができるもので、真理には全く程遠く、救いとは何かという根本をあやふやなものにする効果があり、人々が迷う結果を生んでいます。そして多くの場合、旧約の神とイエスは別個の存在であると定義します。しかし何故か三位一体であり、神も御子も同じ存在であるとします。これだけで三位一体という説が既に破綻し、神やイエス、聖霊といった存在を説明する手段にはなっていないことがわかるでしょう。(マタイ第3章16〜17節、使徒行伝7章56節

 この使徒行伝第4章12節や他の部分でとりあげているように、聖書には筆記の間違い、故意に行われた削除、意図的な改変、曲げられた教義によってわからなくされた事柄があります。それらをかいくぐって聖書を理解するためには、神に頼るという方法を採ればやがてはたどり着き、結果もたらされる真理の1つがこれです。


旧約の神は、イエス・キリストである。



第7章22節
22節 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にも業にも、力があった。




第7章56節
56節 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。


 信仰に篤かったステパノは、知識人であったパリサイ人サンヒドリンの人々の前で堂々と弁論し、の性質やイスラエルの民が行ってきた事、そして神と天に上ったイエスまでも見えると述べました。古来から、神の本質や実態は神聖なものであるとして、ある部分で暗黙の了解のように、語ったり研究したりすることは憚られてきました。しかしこのことが、神の存在をより一層不明瞭にしている原因の1つとなっています。ステパノの見た神とは、一体何者なのでしょうか。

 イスラエルやユダの部族にとって、過去から現在に渡り、最も大きな罪とされてきたのは偽りの神を礼拝することでした。それ故シナイ山の雷と稲妻の中で、神自身が石版に刻んだ十戒の第1番目には、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。(出エジプト20章3節)」と記されています。その後モーセはイスラエルの民を約束の地へ導いていた時、彼らがやがて国々に散らされる時が来ると預言して言いました。「その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。(申命記4章28節)」

 もし神が、無形の存在であって生きても死んでもいないこと知っていたとすれば、モーセはわざわざ神を表現するのにこれらの言葉を使用するでしょうか。モーセは幾度も神と逢い、話をし、民についての預言や助言をもらっているので、神とはどのような存在かを明確に理解していたことは容易に考えられます。モーセが神と出合って知ったこととは、偶像であるとされた木や石の神ができない行動を、実際に行う事ができる神、すなわち


見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともできるのが、神の本質である


ことに他なりません。またモーセは、神からこのようにも言われました。「〜あなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。(申命記4章29節)」 神に出会ったのはモーセだけではありませんでした。出エジプト記にはこのように記されてあります。「こうしてモーセはアロンナダブアビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。〜神はイスラエルの指導者たちを手にかけられなかった、彼らは神を見て、飲み食いした。(24章9〜11節)」

 ここまでは神を見たという事例ですが、神自身が体を使って行った事があります。「主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち
神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。(出エジプト記31章18節)」 ここには、「神に指がある」ことが記されています。モーセは神に指があることを見たので、神とは人の形をしているのではないかと容易に想像するのは難くないでしょう。それを示唆する出来事も記されています。「人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。(出エジプト記33章11節)」 神は自身の顔をモーセに合わせて、伝えるべき事を彼に教え、様々な律法を確立させています。これらは神の性質や本質、実態を表した記録です。

 では現在のキリスト教に見られる神の認識とは、どのようなものがあるかを並べてみましょう。


カソリック教会 神は最高の英知の御方であり、体なく、形なく、色もなく、人の感覚では認知できないからである。
(リブ・P・コロット Doctrine and Scriptural Catechism of the Catholic Church 1925,12,19)
メソジスト教会 永遠にして、体なく手足なく、無限の力と知識と善とを有する、唯一まことの生ける神は、見えるものも見えないものもすべてを創造し、維持される御方である。この神会の一致という点で、実在と力とにおいて一体である三位の御方、天父と御子と聖霊とが存在する。
(Methodist Discipline トロントで出版 1886年)
長老派教会 唯一まことの生ける神は、無限にして完全であり、目に見えない最も純粋な霊であり、体や手足、感情を持たず、不変、広大、永遠、不可解、全知全能の御方であり、最も聖く、自由で、絶対的な存在であり、御自身の栄光のために変わることのない義の御心に従って万物を動かし、愛に満ち、寛大で慈悲深く、長く耐え忍び、善と真理に満ちあふれ、不正や背きや罪を赦し、熱心に神を求める者に恵みを与え、公正で厳格な裁きを行い、すべての罪を憎み、罪ある者を決して見過ごしにされない御方である。
(Presbyterian Church Confession of Faith 第2章第1節)


 それでは、聖書冒頭の創世記にはどのように記されているでしょうか。


「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り(1章26節)」


 上に挙げた教義の中には、聖書の記述と明確な違いがあるのをここではっきりと確認することができるものであり、諸教会は少なくとも19世紀からこのような教えを広めてきました。神が彼らに現れ、実際に教え導いていたのなら、少なくとも「体が無い」とは言えないでしょう。体があるということは既に旧約の時代から、信心深い人には知られていたことです。諸教会の「霊に体は無い」とする教義の根拠の1つは次の部分です。

「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ。(ルカ24章39節)」

 注意すべきは、新約聖書は全般的に霊とするものに、悪霊や聖霊といった、人の感覚で感知することのできないものを指している場合が多く見られていることです。つまり、見ることはある条件によって可能であっても、触ろうとしても感覚として感じることはできないという定義です。この部分を分かりやすくするには、「霊には『触れる』肉や骨はないが」とするのがいいでしょう。このHPでは、旧約の神はイエス・キリストであると述べており、イエスが受肉する前は旧約の神、すなわち霊の神であるとする説を支持しています。そこでもう一度、石の板に着目してみましょう。

はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわちが指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。(出エジプト記31章18節)」。

 ここでは、1つの出来事を記すのに「主」と「神」という2つの言葉が使われています。別の見方をすると、モーセに語ったのは主、指を持って石の板に書いたのが神、となります。役割が別々にあって、モーセに現れていたのは旧約の神と御父であって、二人の神がいたということが考えられることになります。どのような推測が立つにせよ、この記録が持つ意味は非常に大きいものです。それは以下ような意味と記録上の事実を表しています。


主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。

主と神が「霊」の場合 霊の状態でも指を持ち、人のような姿形をしている。石板に文字を書くことができる。霊としての体を持っている。
主が霊で神に指がある場合 霊の状態では石板に文字を書けないので、指という実体を持つ神が石板に書いた。
霊に体が無い場合 霊に手足がなければ指や顔と表記される部分に矛盾が生じる。聖書の記述に合致しない。
神が霊であり体が無い場合 指や顔と表記される部分に矛盾が生じる。神=霊とし、体が無いのであれば、指と認識すること自体不可能である。聖書が成り立たない。創世記1章26〜27節、5章1節の記述と矛盾する。
神(御父)に体がある場合 実体があるので人そのものの形をしている。肉体のみということは神の性質からは考えられず、復活したキリストと同じような、霊と肉体が完全に結合した状態であると考えられる。


このように、主や神に実体がない、体も手足もないとする教義は聖書の記述に真っ向から反対の立場を取っていますenglish



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The doctrine assuming that the Lord and God have neither an insubstantial body nor hands or feet, in this way takes a position that is in complete opposition to the description contained in the Bible.

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