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2000/ 6/25  序文追加


 「律法の写し」という意味のある、旧約聖書のモーセの5書の5番目の書です。申命記には、モーセが身を変えられる直前、エジプトから出て第40年の11月にモアブの地で話した最期の3つの説教が載っています(1章3節)。この年の5月1日には兄アロンがホル山で死んだことが記録されています(民数記33章38節)。
 
 第1〜4章は最初の説教であって、モーセは荒れ野を放浪している間に起きた最も重要な出来事をあげて、シナイ山で授けられた律法のことをイスラエルの民は忘れてはならないということが書かれています。
 第5〜26章は第二の説教で二つの部分から成っています。5〜11章は十戒を含む律法全体をモーセが総復習したものと、その実践的説明です。

 第12〜26章は、申命記の全体の中心となる律法の規定です。
 第27〜30章は第三の説教で、イスラエルととの間の聖約(契約)の厳粛に行われるべき更新や、従順に伴う祝福と不従順の招くのろいに関する記述があります。
 第31〜34章は、モーセが書いたものではないとされていますが、ヨシュアがモーセの後継者としてどのように選ばれたのかという事や、モーセの「死」について詳しく書かれていますが、他の書ではモーセは死んだのではなく、身を変えられたことになっています。

 申命記の価値はモーセの5書のなかでも、ほかの律法書に比較して、旧約聖書の預言者達から1番多く引用されているという所にあります。これは単に、申命記が預言者の出す声明の非常に有効な部分であると考えられていただけでなく、預言と律法との間に霊的な繋がりがあると思われているためです。




 あとわずかしか生きられないということがわかったら、家族にどんなことを伝えたいと思うでしょうか。何か思い起こして欲しいものがあるでしょうか。以上のことを申命記を読む前に考えてみて下さい。この書を書いた時のモーセの立場がこのようなことでした。エジプトからカナンへの長い旅は終わり、イスラエルは今約束の地に入ろうとしています。しかし、モーセはイスラエルと一緒に行くことはできなくなりました。彼は別れるにあたって、この民にどんなことを書くことができるでしょうか。この民はモーセが心から愛し、40年間も導いてきた民です。しかし、もし何かを書いたとしても、彼の勧告の言葉を昔よりも心に留めるでしょうか。民の指導者モーセは悩みます。

 神からの祝福はその人の従順さに基づいて与えられています。神の戒めに従わずにいながら約束された報いを刈り取ろうとすることは、それを支配する物理法則に従おうとしないまま電気の恩恵にあずかろうとすることと全く同じと言えます。人には自由意志の原則が与えられているために、物事を選ぶこともできるし、自分の目標を追究することもできます。しかしながら、よい選択もあればそうでないものもあります。天父の賢明な子供たちは、原因と結果という霊の法則を理解し、それに従って自分の行動を律しています。ですが愚かな子供たちはそうではありません。前者は約束された祝福を刈り取り、後者は時には最もつらいのろいを刈り取ることになっています。

 のろいは祝福の反対のものです。そして、祝福を受けるために与えられた機会が大きければ大きいほど、努力の結果用意された報いを受けようとしない限り、そこから刈り取るのろいもそれだけ過酷なものとなります。例えば、什分の一を納めないことは契約の民にとっては罪となります。一方世の人々は、この律法を守る特別な義務がないために、什分の一を納めない人と同じ罰を受けることはないとされています。つまり、契約を結んだ場合は努力に応じて祝福がありますが、契約を結んだのになんら努力しないのは、契約しなかった場合よりも状態が悪くなるということです。



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