ルカによる福音書 第15〜17章研究解読



第16章16節 第16章19〜31節



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2000/ 4/23  第16章19〜31節追加、第16章16節 UP
2000/ 4/15  第16章19〜31節UP



第16章16節

16節 律法と予言者とはヨハネの時までのものである。


 この部分は聖書における矛盾として、様々に議論されているところです。ある人々はこの部分をもってして律法と予言者は、現在において存在しないと言っています。しかし、続く17節には、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすいと書かれてあり、18章20節にも「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え」とキリスト自身が語っています。つまり、



イエスがモーセの十戒の一部をここで紹介していることがわかります。


 更にラザロの話でもモーセが登場します。キリスト自身モーセを使った話をしていることから、モーセの律法は無効になったと言うことはできません。その他にローマ人への手紙の中では、2章13節3章21節7章7節8章4〜8節13節9章6節12章6節13章10節などでパウロは述べています。これらから、律法は無くなったのではなく、かえってキリストによって確立されていることがわかります。しかし注意しなければなら ないことは、新約聖書の中で度々出てくる「律法」というは、その当時パリサイ派ユダヤ教で行われていた、事細かい様々な、人の造った「律法」のことも指しています


ここで言っている「律法と予言者とはヨハネの時までのもの」とは、イエス・キリストの時代までのものという意味であり、イエスは、旧約の律法と預言者は自分を証している意味で述べています。


 キリストが殺されてから後、予言者や使徒、新しい律法が存在していますが、民衆の堕落により殺されてこの地では途絶えてしまいました。




第16章19〜31節

19節 ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20節 ところが、ラザロという貧しい人が全身にでき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、
21節 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
22節 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。
23節 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
24節 そこで声をあげて言った『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
25節 アブラハムが言った、『子よ、思い出すよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
26節 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵があって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
27節 そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
28節 わたしの五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
29節 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
30節 金持ちが言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
31節 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。


 金持ちとラザロの有名なたとえ話は、死後の世界がふたつの状態に分かれていることを教えてくれます。すなわち「アブラハムのふところ」と「黄泉」とがあり、前者は安息の場所であって、後者は苦しみの場所となっています。そのふたつの間には「大きな淵」があり、行き来はできません。キリストは死と復活の間に霊界を訪れましたが、それ以前の霊界はここに表現される状態にあります。救い主の霊界のへの訪問は、パラダイス(アブラハムのふところ)と黄泉とを隔てる淵に橋をかけるものです。つまり、


霊の獄にいる霊たちが、正しい権能を持つ人から福音の教えを聞くことができるようになったことを示しています(第1ペテロ3章18〜21節)。


 「その日に至るまで(モーセの書7章37〜39節)」、獄にいる霊たちはそこにつながれて福音が説かれることはなく、このたとえ話はされた時点では、死人の救いはまだ将来への希望にしかすぎませんでした。しかし、キリストの行った「捕らわれ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ(イザヤ書61章1節、ルカ4章18節)」との宣言により福音は霊界の隅まで伝わり、求める者には悔い改めの機会が与えられて、地上の神殿では代理の儀式の検討が行われ(第1コリント15章29節)、この世で機会があれば福音を受け入れていた人々に対して、救いの希望が与えられることになりました。


 31節では、ふたつの偉大な真理が教えられています。


神は自分の代理人や証人を選んで、人のもとに派遣して悔い改めを叫ばせて、救いの福音を説かせます。それに従わない人は罪ありとします。
自分の時代の神の生ける代弁者の言葉に耳を傾けることを拒んで、昔の予言者の書かれた教えのみを信じる人は、死人の蘇生をも含む数々の奇跡を目の当たりにしても改宗しようとはしません。


 ラザロはイエスの命令により死人の中からよみがえって、ひとりの死すべき人間として再び人々の中に入っていきました。しかし多くの反逆心に満ちたユダヤ人たちは、心を入れ換えるどころか、かえってイエスを死に追いやり、従順な人がイエスとその神としての力を信じなくなるようにはかっています(ヨハネ11章1〜52節、12章10〜11節)。キリスト自身が栄光を持って死人の中からよみがえって、多くの人々にその姿を現し、さらに証人を遣わして世界にその復活の事実を伝えたにもかかわらず、人々はそれを信じませんでした。

 現在の時代でも同様のことが起こっています。この話の中にモーセが登場しますが、ひとつの重要なことが見えてきます。16節に、「律法と予言者とはヨハネの時までのものである。」とありますが、ラザロの話はこの聖句はこのままの意味ではないことを示しています。つまりイエス自身がモーセを使って、十戒の存在を明らかにしています。16節を根拠に、


モーセの律法は守らなくてもよいと考えることはできません。


 同様に、預言者の存在否定もできません。キリストが死んでから復活した後に、パウロはローマ人への手紙第12章6節で預言の賜について語っています。




第17章3節

3節 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。


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