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2001/12/31  背教 UP



 東半球では1700年以上もの間、また西半球では14世紀以上もの間、天地の間には何の交通もなかったようです。
 この長い期間に、神から人へ何らかの直接の啓示があったかどうかについて何ら確実な記録はありません。東大陸における使徒の業は、紀元2世紀に入る以前に終わったものと考えられ、使徒がこの世を去ってしまうと、すでに予見され、予言されていたように、続いて背教が至る所で急速に根をおろしていきました。

 この大きな背教がすっかり形を整えるまでには、外部からの原因と内部にある原因とが共に作用していました。教会を分裂させようと外から働いた力の内で、最も強力であったのは、ユダヤ教と異教の両面から聖徒たちを襲った執拗な追害です。これによって、教会員であると公言していたおびただしい数の人々、および聖職者として役職についていた多くの人々が教会を去りました。しかし一方で少数ではありますが、追害のむちを受けて一層熱を燃やして奮い立った者もいました。外部からの敵対、すなわち全体的に信仰と働きを衰えさせていた外的要因は、個人個人の背教をもたらして、これが教会からの背教を蔓延させる結果となっています。

しかし、これよりも一層重大な原因は、教会の内部に生じた不和と分立、分裂でした


 これによって神の道と言葉から背く、完全な教会の背教が起こりました。

 キリスト教を最も早くから圧迫していたユダヤ教は、異教徒の追害に乗じて、数々の残虐行為をそそのかしたり、加勢したりするようになります。キリスト教会に対してローマの政権が現わした公然たる敵意は紀元64年頃から始まって、ネロの治世中にひどくなり、紀元305年頃のディオクレティアヌスの治世が終わるまで、時折数ヶ月または数年間休止することはあってもずっと継続しました。異教徒が支配していたこれらの数世紀中に、キリストを信じると公言した勇気のある者が、非人間的な残虐行為や野蛮な行為の被害者になったことは、一般に認められている歴史上の事実です。

 しかしコンスタンティヌス大帝が4世紀の初め頃王位に就くと、キリスト教会に対する国の態度が根本的に変わり始めました。皇帝は直ちに当時キリスト教と称した宗教を国教としたので、教会のために熱心に献身する事が皇帝の寵愛を得る最も確実な道となりました。しかし、教会そのものはすでに大いに背教した団体となり、その粗雑な組織や機能においてさえ、救い主自身が基礎を置き、使徒たちの力によって築かれたイエス・キリストの教会とはおよそ似ても似付かないものとなっていました。

 コンスタンティヌス大帝の勅令により教会の組織が俗世の気に入るように変えられるに及んで、純粋なキリスト教の精神は、それまでにたとえ残っていたとしてもそれ以後すっかり姿消しています。皇帝はバプテスマを受けていなかったにもかかわらず、自ら教会の首長の地位に昇り、そのため人々は、軍人としての高い階級や、官吏としての高い地位よりも、聖職者の役職にに就くことを欲するようになっていきました。コンスタンティヌス大帝が皇帝の権力をもって教会に保護を加えて、国の記章をもって飾る以前にすでに教会に充満していた背教の精神は、ますますその度を増しました。

 このように菌の繁殖に最適な条件が整っており、抵抗勢力自身のパン種である邪悪な病原菌がますます盛んに繁殖することとなりました。

 これより前、ローマの司教はすでに司教仲間でも、自分が最高位にあることを断言していましたが、コンスタンティヌス大帝がビザンチウムを首都に定めて自分の名にちなんでコンスタンチノープルと改めると、その都の司教は、自分がローマ法王と同等の地位にあると主張しました。しかしその主張は反駁され、長らく紛争が続いた結果教会は2つに分かれ、その分裂は現在に至るまで続いており、ローマカトリック教会とギリシャ正教会という2つの教会が存在する原因となっています。

 ローマ法王は、霊に関わる権能は無論の事、俗世の権能も行使して、11世紀にはあらゆる事物の父なる支配者という意味で、父を意味する「ポープ」という称号を自分勝手に付けました。12世紀から13世紀にかけて「ポープ」、すなわち法王の持つ俗世の権威は、王や皇帝をもしのぎ、ローマ教会は各国民の専制君主であり、またあらゆる俗世の国々を支配する独裁者でした。それにも関わらず、この世の野望と優越欲の悪臭を放つこの教会は、「わが王国はこの世のものにあらず」と断言し、キリストが建てた教会は我が教会であると大胆に主張しています。

 ローマ教会のこの尊大な態度は、俗世に間する事の管理に劣らず、霊に関することの官吏の面でも法外でした。この教会は、人間の霊の行く先について仰々しく断言して、個々の罪を許すこともできるし、赦さないでとどめておくこともできる、またこの世においても来世においても、罰を科したり免除したりすることができる、と不敬にも主張しました。ローマ教会は、罪を犯す許可を金銭で売り渡し、すでに犯した罪と寛大な赦しの黄金憲章との交換取引を行い、さらに神の代理であると声明するローマ法王は、神自身として堂々と裁判まで行いました。

 このようにして、「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」というパウロの予言と、それに続いて、キリストの再臨の前に起こる恐ろしい状態にかかわる警告の言葉は、この不敬な言葉と行いによって事実となり、予言が成就しています。さらにローマ教会は、正当な権利もなく、勝手に権能を有するという誰はばかりのない気ままな行動を欲しいままにして、救いに欠くことのできない数々の儀式を変えました。

 また永遠の聖約を容赦なく破って、イザヤが予言していた通りの地を汚し、バプテスマの儀式を変えて、その象徴とする意味を破壊し、また異教の儀式に似たものを導入しています。こうして主の晩餐の聖餐を堕落させた上に、聖書の教えと矛盾する全く不快な「余功」という独断説によって、義人の功績を罪人の赦しに適用することを考えつきました。また偶像崇拝を、非常に人を惹きつける有害な形で奨励し、一般の人々が聖書を研究すると罰を科し、教会の聖職者たちには、独身生活という不自然な生活を送るように命じています。ほかにも、人間の作った説や詭弁と汚れた結合をすることを大いに喜び、迷信や異教と相並ぶ信条を生じるほど、キリストの福音にある簡単明瞭な教義をゆがめてしまいました。

 神が造った肉体は、苦しませたり、あなどることにだけ適していると思わせるほど、人体に関する正道を踏み外した教えを広め、そして、偽りを言ったり欺いたりしても、それが教会の役に立つならば、必ず豊かな報いを受けて、結局は善行美徳であると言明までしています。その上、教会自身が元々の教会組織の姿から完全に離れてしまったので、教会を人の気まぐれによって作り上げられた華やかな見世物と化してしまいました。

 初期の教会の背教を生じた内部原因の内、最も重要なものは次のように概説することができます。


哲学体系の混合によって、キリストの福音の簡単明瞭な教義が腐敗堕落したこと。
真の教会に前もって定められていた儀式に、承認されていない追加を行い、肝要な諸儀式に致命的な変更を加えたこと。
教会の組織と制度に、独断で変更を加えたこと。

 ローマ教会が政府から奪い取って不正に行使した支配が暴君的抑圧であったので、世界の文明は何世紀にも渡って進行の速度が鈍り、その途中で実際上歩みを止めました。この文明後退の時期は、歴史上「暗黒時代」と言われています。

 ところが、15世紀になるに及んでルネッサンス、すなわち文芸復興と呼ばれる運動が起こりました。そして人類全般に及ぶ意味深い急速な覚醒が起こり、怠惰と無知という昏睡を振り払う断固とした努力が文明世界の隅々にまで及びました。歴史家や哲学者は、この復興を目にして、「時代精神」の無意識的かつ自然発生的な促しである言っています。しかし、


これはその後数百年経って完成する「イエス・キリストの福音の回復」に備えるために、人類の暗黒になった心を照らそうとして、古代より予言者や残された聖文があらかじめ定めていた、発展の産物でした。


 知的活動の回復と物質上の改善をはかる努力が行われると共に、当然かつ避けることのできない趨勢、すなわち「変化」として、当時の教会の専制政治に対する抗議と反抗とが起こりました。

 13世紀には、教会の専制に対してすでにフランスのアルビ派の反乱があり、14世紀にはオックスフォード大学のジョン・ウィクリフがローマの教会とその聖職者の腐敗、特に一般人が聖書を研究することを禁じた法王の聖職者政治を大胆に非難していました。そしてウィクリフは英訳の聖書を一版に公開しましたが、ローマ法王の教会は力づくで抑圧し、罰を加えようとしています。前述のアルビ派は反乱を起こしましたが、ローマ教会の人とも思えぬ残虐行為と、無制限な殺戮とによって沈黙されられました。またウィクリフは、絶えず猛烈な迫害を受けて、かろうじて寝台の上で死ぬことができたとは言え、ローマ教会の執念深さは、彼の死体をあばきだしてこれを焼き、その灰を撒き散らすまで恨みが晴れないほどです。

 ジョン・フスとプラハのヒエロニムスは、法王の専制に反対する事でヨーロッパ大陸で目立っていましたが、2人ともそのために殉教の死を遂げてしまいました。ローマ教会は、骨の隋まで背教が染み込んでいたとは言え、霊の解放を促進するために喜んで命まで捨てようとする、勇敢な正義の士がいないわけではありませんでした。

 16世紀になると、「宗教改革」と呼ばれる、ローマ法王の政治に対する有名な反抗が起こります。
 この運動は、ドイツの修道僧であるマルチン・ルターによって1517年に始まり、間もなく法王領を全部巻き込むほど急速に広がりました。1529年にスパイエルで開かれた総会議の席上で、一部のドイツ諸侯やほかの代表者は、ローマ教会の専制に対する正式の「抗議」を文書にし、それによってこの時からこの改革者たちは、「プロテスタント(抗議をする者)」と呼ばれるようになりました。

 この時サクソニアの先帝侯ジョンが独立の教会を立てる案を出しており、その組織を作る準備をしたのが、ルーテルと、その同僚メランヒトンです。しかし「プロテスタント」たちは一致しなかったので、彼らは色々な人の方法に従って、その結果外から攻撃を受けている間に内部で分裂してしまいました。断固たる反対者たちの攻撃をまともに受けたローマ教会は、あえてためらうことなく、極端に残虐な手段に走りました。
 15世紀の後期に、「聖庁」という不快な名称のもとに設けられた、


「宗教裁判所」は、「宗教革命」の行われた世紀に、野蛮な残虐行為に酔いしれて、異端であると秘密の内に訴えられた人々を筆舌に尽くせないほどの残虐行為、「魔女狩り」という非道行為で苦しめました。


 マルチン・ルターが誘発した「宗教改革」の初めの頃、英国国王ヘンリー8世は、法王を支持すると言明して、法王からの「信仰の擁護者」という有名な称号を褒美として授けられています。しかしそれから数年のうちに、この国王は王妃カザリンを離縁して、侍女と結婚しようとしました。ところが、自分の望みを法王が中々かなえてくれなかったので、業を煮やして法王の権限を無視したために破門されてしまいますが、そこで1534年英国議会は、「英国国王の国教を主権者とする法令」を通過させて、英国国民は法王の権能に対するあらゆる忠誠の義務から解放されると宣言しました。

 このように英国議会の決議によって、王は自己の領土内の教会の主権者となり、退廃した不名誉な王の恋愛事件の結果、英国教会が誕生しています。不敬にも神の委託がないことに無関心で、また司祭職に継承らしいものさえないまま、不正な王は教会を創設して、その中に自分の司祭をそなえて、自分があらゆる霊に関する最高の管理者であると宣言しました。

 大英帝国の中で行われたカトリックとプロテスタントの争いは、歴史を学べばよく知ることができますが、この2つの相争う教派間の憎しみと、各々の教派の信者が持っている熱意と、彼らが言い表した神の愛とキリストへの献身とは、おもに剣と斧と棒によって、はっきりと示されています。
 祭司売教の暴政から少なくとも一部分解放されたことを知って大いに喜んだ末に、人々も国民も、新しく獲得した思想、言論、行動の自由を、恐ろしい過度の放縦によって退廃させてしまいました。誤って「理性の時代」と呼ばれ、フランス革命で絶頂に達した無神論的残忍非道は、神を否定することを賛美する時、人がどのようになるかを証明する、決して拭い去ることのできない証拠です。

 16世紀からこのかた、人の考案した数々の教会が、急速にその数を増していることは驚愕に値するものであり、その信条の中にキリスト教であることを公言している教会と宗教組織は数百にのぼっているとされています。現在、「見よ、ここにキリストあり」、「見よかなたにあり」と言う声は四方に聞こえおり、英国教会のように、それが始まった時の事情によって名づけられたものもあれば、その名高い創立者または主唱者の名をとって、ルーテル教会、カルビン教会、ウェスレー教会のような名前をつけたものがあります。また特異な教義もしくは、特異な管理の方法によってメソジスト教会、バプテスト教会、組合教会などと呼ばれているものもあります。

しかし、近代までこの地上にキリストの教会をという名前、もしくは肩書きをはっきりと宣言している教会は一つもなく、その当時、地上に存在して、イエス。キリスト以来引き続き権能を継承し保持していると「あえて」主張していた教会は、ただ一つカトリック教会でした。ですがそのカトリック教会は、長年の背教に陥っており、その上神の権能もしくは承認をすっかり失っていました。もし「母なる教会」が゛正当な「神の権能」を持っていなかったなら、つまり、霊に関わる力を持っていなければ、そこから派生した他の教会は、神に関することを執り行う権能をその「母なる教会」からどのようにして受け継ぐ事ができるのでしょうか。

 神が尊ぶようにと、また認めるようにと求めている権能を、人が作り出すことができると大胆に断言できる人はいません。仮に、人が彼らの間に社会、組合、団体および「教会」さえ作り出したとしても、規定を定めて、律法を組み立て、運営、訓練、管理の方法を案出したとしても、またその管理の組織が教会員になった者を拘束する力があっても、あるいは以上全ての権威と、権能とがあることを認めたとしても、人の作ったこのような制度は、どこから神の権能を引き出すことができるのでしょうか。

この権能は、実際に神から授けられるより他に方法はなく、この権能がなければ地上のどこにも「キリスト教会」は有り得ません。


 このような教会は数多くあるものではなく、おそらく一つだけであると考えられ、その教会とは、実際に神の権能を持ち、復活したイエス。キリストの指示によってあらゆることを執り行う組織です。他に考えられるのは、失われた十氏族の民の中にある教会と思われます。

 キリスト教国が背教の状態にあることは、いくつかの教会の名高い良心的な代表者と、また数々の教会が率直に認めているところです。英国教会でさえ、堕落退廃に関する公式の宣言で「邪神崇拝の危険に対する訓戒」の中で述べているように、上記の恐ろしい背教の事実を認めています。

「かかるが故に、俗人、聖職者、学者、無学者、老若男女、各団体、全キリスト教国の男女、小児の差別なく、すべての者は、考えても身の毛もよだつような、極めて恐ろしい事実、すなわちあらゆる悪徳の中で神が最も忌み嫌われ、人類にとっては最も憎むべき邪神崇拝の中に同時に溺れてしまっている。しかもそれは800年以上という長い年月にわたって続いている。」

 しかし、万国に及ぶ背教の夜が長く、かつ暗かったとは言っても、神が世の人々のことを忘れたと結論するのは早計であり、人類はその暗い時代の間中、完全に見放されていたわけではないことを認識する必要があります。「神の御霊」は、人類の不信仰が許されていたいた間も活動していました。世の人々が知らない間もなお、使徒ヨハネが活動しており、また真鍮版からも3人のアメリカ大陸先住民がヨハネ同様の働きを許されていたことがわかります。ですが、彼らの活動があったにも関わらず、霊の暗黒時代は、使徒も予言者も、長老、監督、祭司、教師、執事もなしに生活し、人類は死んでいきました。

 人の建てた数々の教会の中に、どのような形の神々しさが存在していたとしても、その教会には神の権能はなく、霊感を受けた使徒が予見した時代は完全に訪れていました。つまり、人々は健全な教えに耐えられなくなり、耳障りの良い話をしてもらおうとして自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、真理からは耳をそむけて作り話に没頭するようになります。19世紀の初めの25年には、予言者アモスが予言したいろいろな状態が重なって現れました。アモスは次のように予言しています。

「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのきんである。彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかたなへはせまわる。しかしこれを得ないであろう。」

 これは、背教の時代には人類に対して天の窓が閉ざされて、神からの直接の啓示がなく、また特に、キリスト自ら現れるということがなかったという意味です。人類はすでに神を知ることがなく、神を知っていた昔の予言者使徒の言葉は、神秘と空想のとばりで包まれていたので、「真の生ける神」はもはや存在しないと考えるようになりました。そして「真の生ける神」の代わりに、各宗派に属する人々は不可解な者である、「体も器官も、感情もない」非物質的な、無である神を理解しようと努めてきています。

 しかし、暗黒で無知の時代が何世紀も過ぎてから、世の人々が再び新しく真理の光に照らされることが、天上の会議ですでに決められていました。「英知の霊」、すなわち真理の御霊の働きによって、人類の魂は、ちょうど福音という種を新しく蒔くために畑を深く耕すのによく似た準備を受けていました。「航海用羅針盤」の原理は、実は神の御霊によって啓示されて、それに物質の形を人が与えたものであると言われています。そして、その助けによって、未知の大洋が探検され、ついに新世界を発見しました。そこには、堕落した銅色の皮膚をしたイスラエルの残りの者、「アメリカ・インディアン」が住んでいました。

 やがてメイフラワー号とスピードウェル号の2隻が、流浪の状態を逃れて、良心の命じるままに神を礼拝することのできる新しい住まいを求める人々の先鋒として「ピルグリム・ファーザーズ(英国清教徒の一団)」を、西大陸に運んできました。


このコロンブスのアメリカ大陸発見と、清教徒の一団がアメリカへ移住することは、キリストが降誕する600年ほど前に、すでに予言されていました(イザヤ7章14節


 これらの人々の使命は、予言者が人々に告げる言葉となすべき働きとをもって神から遣わされるのと全く同じように、真実これらの人々に神が与えた土地です。アメリカ移民団とその母国である英国との戦いと、その結果君主の支配から永久にアメリカ国民を解放した勝利とは、福音の回復につながる次の段階であることがすでに予言されていました。安定した政府を建てるための時間、またあらゆる人に完全な政治的宗教的自由を与える事を約束するアメリカ合衆国憲法を作ってこれを発布するための時間、すなわち選ばれて霊感を受ける人々を育てあげる時間とが与えられました。

 不寛容のために頑なになり、頑迷のいばらと、精神的、霊的農奴の状態という雑草がすっかりはびこった未耕地は、回復された福音という貴い種子をまくにはふさわしくなく、


キリストの福音とは自由の具体的現われであって、この教えを受け入れて従う全ての人を自由にする真理となっています


 やがて、定められた時に、永遠の父なる神と御子イエス・キリストは地上の人々の間に現れ、この終わりの時代、つまり人の救いの計画の最終局面での業を開始しています。



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