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2004/ 3/ 7  預言霊 UP
2004/ 1/22  預言者の役割 UP
2001/12/23  聖見者UP
2001/12/23  ヘブライ人の預言者UP


 預言者の役割は次のように要約することができます。


預言者とはすでに知られている真理を教える人であり、聖見者とは隠れた真理を知覚し、啓示者とは新たな真理を受ける人である。


 広い意味で解釈すると、預言者と言う称号は他の称号、すなわち真理を教え、知覚し、受ける人という称号も含みます。

 預言者という称号を身に受ける人、およびその人を預言者として指示する人は、まず第1に神を信じるものであり、また人類家族のために作られた救いの計画を信じる者でなければなりません。第2に、全能者の目的を実現する仕事に自らをささげる人である必要があります。彼らは、神の子供たちは真理を受け入れて、真理に従う可能性があると信じています。そうでなければ、「預言者、聖見者、啓示者」という称号は、意味のない空虚な言葉となってしまうでしょう。しかし、称号を持つ人たちは、誤解に満ちた暗い影の中を歩む世の人々にとって、キリストの教会の高鳴るラッパとなります。






ヘブライ人の預言者


 神は古代イスラエルにおいて預言者を立てましたが、これは現代において預言者を召すのと全く同じ理由によるものです。預言者は、神の律法とそれに従う生活について教え、必要に応じて悔い改めを呼びかけて、イエス・キリストについて証を述べてきました。時代を問わず、真の預言者が行う業とは、神の使者として行動し神の御心を宣べ伝えることにあります。
 ある教会役員は次のように述べました。

「預言者は教師である。預言者という言葉の意味は、この言葉をなくしては語れない。預言者は、主が人間に啓示したもうた一連の真理である福音を教え、霊感の下にそれを民が理解できるように説明する人である。預言者は真理の解説者である。さらに彼は、人の幸福は神の律法に従ってこそもたらされることを教える。また道を踏み誤っている人に悔い改めを叫ぶ。預言者は、人間家族に関して、主が目的としておられることを達成する戦士となる。彼の生活の目的は、主の救いの計画を支持することである。彼はこのことをすべて主との密約な交わりによってなす。そしてやがては主のみたまによって力に満ちるのである。」

 時の経過と共に、「預言者」という言葉はおもに啓示を受ける人、神から指示を受ける人の意味に取られるようになってきました。そして、預言者の仕事が未来の出来事を予告して預言するものと、間違って解釈されていますが、これは幾つかの預言者の働きの一端にすぎないものです。もしも預言者がただ啓示を受けるだけの人であるならば、「聖見者、啓示者」という呼称は「預言者」という呼称をただ強調するだけのものにすぎません。

 また預言者は直接神や天使から啓示を受けます。その啓示はすでに授けられた真理を説明するものであるかもしれないし、以前には人に伝えられていなかった新しい真理の場合もあります。そのような啓示を受けるのは、正式にその地位に召された者に限られるものであって、低い役職にある者が高い役職にある人のために啓示を受けることはありません。そのため誰でも預言者になれるということはなく、それにはまず、神から選ばれるということが必要です(ヨハネ15章16節)。

 その後、権能を持つ者のによる儀式を経て正式に認可されることになります。であるとすれば、預言者は神の権威ある代表者です。つまり、

たとえ世が彼を認めなくても、その時代における要件は、神が彼によって語られる


ということを意味しています。

 ルカ16章16節にある「律法と預言者とはヨハネの時までのものである」とは、ある意味ヨハネがこの地での最後の預言者になるとのキリストの予言であると見ることができます。事実、キリストの死後数十年経った紀元70年9月、徹底的な破壊と虐殺によりエルサレムは崩壊し、パトモス島に流刑されていた預言者ヨハネ以降、この地には預言者が出てないことからも、キリストの「予言」は成就していると考えることができます。







聖見者


 聖見者とは霊の目を持って物事を見る人のことを指しています他の人には意味の判然としないことでも、この人には理解する事ができ、永遠の真理を解釈し、明らかにする人とも言えます。また、彼は過去や現在の出来事を通して未来を見ます。このことは、ウリムとトンミムのような神から授かった道具の助けを借りて、直接または間接に与えられる神の力を用いて行われました。聖見者とは識別の力をもって神の光の中を歩む人であるといえるでしょう。






預言者の役割


 預言者たちは、確かに未来について多くのことを考えていましたが、それぞれの時代に行った業のほとんどは、時代に即した実践的なものでした。預言者は民の教師であり、統治者、導き手であって、真理を説き明かし、幸福へ至る道は神の御心に従うことにあると教えました。また、真理から迷い出た人々に悔い改めを勧め、主の救いの計画を擁護しました。


過去や現在を問わず、いかなる時代においても、聖徒に勧告を与えることが預言者の権限であり責任です


 預言者は神の代弁者ですが、メッセージを復唱するだけの個性のない機械ではありません。一人一人がすばらしい人格を備えており、様々な個性や表現力を持っていました。預言者はそれぞれの状況の中で自分の目を通して物事を見詰めながら、その時代の民の言葉と理解力に応じて語っています。呱呱の預言者は、特別な使命を果たすために、特定の時期に召されており、その召しには明らかに神の導きがありました。例えば預言者アモスは、形式主義と物質的な豊かさが相まって退廃と自由放任の風潮を高めていた時代に召されています。そして、その時代に即したメッセージを、時代に合った方法で伝えて、責任を果たしました。

 ホセアは、既成の社会形態が崩壊しつつある時代の民に説教をしています。エゼキエルは少しも恐れずに真理の叫びを上げ、予告された悲劇が民の上に降りかかるとき、「彼らの中にひとりの預言者がいたことを彼らは悟る(エゼキエル33章33節)」と宣言し、さらに民と共に捕囚の地にいる間も警告の声を上げました。イザヤが教えを説いた人々は、そのメッセージを拒むことによって取り返しのつかない地点まで行ってしまい、自らを罪に定めることとなりました。エレミヤは、エルサレムに最後の苦難が下された時代に生き、警告を無視して報いを受けている王に再び警告を与えました。ある教会指導者は次のように述べています。

 「実際に、主の民に対する主の全計画は彼らを中心に動いていた。預言者の一人がこう語るように、それは人々の間で定着していた。

 『まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れたことを示さないでは、何事をもなされない(アモス3章7節) 

 旧約聖書、新約聖書のどの箇所もこの重要な事実を示している。神は御自身のものと認められた民を地上にお持ちであった時代には、いつでも民のために絶えることなく導きを施されたが、


その導きは生ける預言者たちを通じて与えられた神よりの啓示であった。」


 イスラエルに二人以上、時には多くの預言者が召されることがあります。真鍮版の預言者リーハイはその記録からエレミヤと同時代の人物であり、この時代には他にも多くの預言者がいました。イザヤとミカも同じ時代の預言者で、それぞれ異なる人々に語りかけていたと考えられています。どの預言者が宗務面で他の預言者を管理する権能を持っていたかということについては、当時の記録が十分でないために明確な答えが得られていません。近代にイエス・キリストによって回復された組織は、管理する権能を持つ預言者の役割に深い関心を寄せています。なぜなら、現代の教会が発展する上でそれは不可欠な要素であり、神自身が今日、管理権を持つ預言者を置くように指示されたからです。このことに関して回復された教会の長老は次のように説明しています。

 「大管長以外の人が、『預言者、聖見者、啓示者』 という称号を受けるが、それに伴う『力と権能』 は、大管長からの指示があるときにのみ行使される。そうでなければ権能の混乱が生じるであろう。この原則の実際の運用の例は教会内でしばしば見ることができる。例えば、大祭司という職には管理する権能が含まれるが、その人が管理するのはそのように召されたときだけである。これらの聖なる称号、『預言者、聖見者、啓示者』 の下に権能を行使する場合も全く同じである。」

 預言者は理解力の及ばない民が理解できるような方法で神を描写しました。従って、神は人と共通の属性を備える存在として、またねたむ神、神にふさわしい敬虔さを重んじる神として描かれています。神は民に姿を現して、自分自身が人格を備えた神であるであることを示そうとしました(出エジプト19章10〜11節)。しかし民は畏れて、神と直接まみえることを辞退しました(出エジプト20章18〜19節)。

 預言者の生涯とメッセージについて研究する時に忘れてはならないことは、時代背景が現代とは全くかけ離れていることです。古代にはテレビもなければ、自動車やジェット機もありませんでした。一般に古代の預言者たちの行動範囲は、現代よりもはるかに狭い地域に限られており、また。現代の預言者たちと同じように、当時の文化の範囲内で行動していました。預言者の役割については次の箇所を参照するとよいでしょう。出エジプト4章12,16,30節、民数記12章6節、列王記下17章13節、エレミヤ1章7節、エゼキエル2章7節、マタイ28章20節、へブル1章1節。




預言の霊


 広い意味で言うと、聖徒はすべて預言者であると言えるでしょう。預言者とは、真理と神の業に対する証を持つ真の教会の会員であり、聖霊の力によって、イエスがキリストであり「生ける神の御子」であることを学んだ神の聖徒のことです。神の名を受けた天の使いが弟子ヨハネにこのように言いました。


「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である(黙示録19章10節)」


 他のいかなる源にもよらずに、啓示によって救い主が神の御子であることを知る人は、ここで定義されているように本質において預言の霊を受けているのであって、預言者です。それゆえにモーセは、「主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えることは、願わしいことだ(民数記11章29節)」 と主張しました。パウロもすべての聖徒に向かって、「預言することを熱心に求めなさい」と勧告して、忠実な人々は「ひとり残らず預言をすることができる(1コリント14章31〜39節)」と約束しています。

 証は啓示によって聖霊からもたらされるものであり、聖霊の使命は「御父と御子のことを証される(モーセ1章24節)」ことです。キリストに関する証について、真鍮版の人物であるモロナイは、「キリストがおられることを聖霊の力によって知ることができる(モロナイ10章7節)」と述べました。預言は同一の源から、同一の力によってもたらされます。なぜなら、ペテロの言葉にあるように、「預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである(2ペテロ1章21節)」と記されている通りです。

 イエスが神の御子であるという啓示を賜わるほどに律法に従う人は、その律法により必要に応じて預言をする力を授かります。真鍮版の民の歴史を見ると、証を得た人々がその結果として預言霊を授かっていることが記録されています。その民の中のベニヤミン王は、救いの計画がキリストの贖いの血を通して遂行されることを詳しく説いてから、「自分の語った言葉を民が信じているかどうか知りたい」と思っていて、すると民は答えて、「そのとおり、わたしたちは、王がわたしたちに語ってくださった言葉をすべて信じています。また、全能の主の御霊のおかげで、わたしたちは王の言葉が確かで真実であることを知っています」と言っており、民が確かに証を得たことがわかります。

 そしてさらに、「わたしたち自身もまた、神の限りない慈しみと神の御霊の現れによって、将来起こることをはっきりと示されており、ふさわしければすべての物事について預言することができます(モーサヤ5章1〜3節)」と言いました。このように、イエスに対する証は預言の霊であり、証と預言とはともに聖霊の力によってもたらされています。また、イエスが主であるという啓示を受ける人はすべて預言者であり、


必要なときには御霊の導きにより、全ての物事について預言することができます。






召しと訓練


 ある教会役員は、1人の人間としての預言者について重要な意見を述べています。

 「預言者として召されるには、陶器師の手にある粘土のように主の手の中にあってへりくだり、喜んで働こうという気持ちがなければならない。預言者として召された人は、ほとんどと言っていいほど優れた能力を有し、経験も豊富で、知恵と正しい判断力とを備えた人である。このことは、預言者は人間であるけれども有能で、傑出した人物だということである。聖なる歴史をひもとき、アダムの時代から現代にいたるまでのすべての預言者について調べてみれば、彼らが優れた能力を備えた人物であり、エテロの言葉を借りれば、『神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人』 であったことから分かる(出エジプト18章21節)。

 しばしば重要な事柄に関して、預言者の非公式な見解や説明が出されることがある。これは傾聴に値するものである。賢者はより賢く能力のある者の勧告を求めるものだからである。・・・教会員は、公式なものであれ非公式なものであれ、預言者の語る言葉を理解するには、どうすればよいだろうか。答えは実に簡単である。日々の生活、思い、行いにおいて福音とその要件を満たし、真理を愛して喜んで身をゆだねるならば、主からのメッセージを理解できるであろう。」

 この教会役員はさらに次のように説明しています。

 「教師は教える前にまず学ばなければならない。したがって古代においても近代においても、預言者の塾が設けられ、世に出て行って福音を教え、主の戦いを戦う人々に、王国の奥義が教えられてきた。これらの預言者は何かの職に召される必要はなく、いつでもどこへでも真理の教師として出かけていく。」

 教師が時々「父」と呼ばれていたように、預言者の弟子たちも「息子」と呼ばれていました(列王記下2章12節、6章21節)。預言者の息子たちは特殊なグループを形成して、預言者が責任を果たす際に手助けをし、ゆくゆくはその跡を継いだのでしょう。彼らは訓練された宗教上の教師であり、中には結婚して自分の家に住んでいる人もいましたが、残りの人は独身で共有した家に住んで、食事を共にしていました。

 預言者の塾は預言者サムエルによって設立されたと考えられています。サムエルが「預言者の息子たち」に指示を与えていることが、サムエル上19章19〜20節に記されています。しかし、預言者の塾が旧約聖書のどの時代まで続いたかは分かっていません。サムエル、エリヤ、エリシャの時代が最盛期だったようですが、最後には、金銭と権力の動きを占うだけの不謹慎な組織に堕落してしまいました。






偽預言者


 すべての「預言者」と呼ばれるものが神から遣わされるわけではなく、中には「偽預言者」がいて、他の神に仕えるように人々を誘惑します(申命記13章)。紀元前874〜853年頃にイスラエルを統治していたアハブの時代には、邪悪なバアルの預言者が目立つようになりました。彼らはカナン人の誤った宗教に仕えて、アハブの妻イゼベルから絶大な支持を受けました。神の預言者は、民衆の注意を喚起するために、それらの偽預言者と対決しなければなりませんでした。エリヤの場合は、バアルの預言者が信頼できないことを納得させるために、超自然的な現象を起こす必要がありました。真の預言者たちはいつの時代でも、偽りの預言者と戦い争ってきたのでしょう(エレミヤ23章13〜17節)。

 偽預言者と真の預言者が対決した典型的な例が列王記上22章に記されています。ユダとイスラエルの王は、シリアと戦うために連合して、アハブはヨシャパテにラモテの町を攻めて奪い返すように提案します。ヨシャパテは預言者たちに意見を求め、アハブの全ての預言者は戦いに行くように勧めました。そこでヨシャパテはアハブに言いました。「ここには、われわれの問うべき主の預言者がほかにいませんか(7節)」。イスラエルの王アハブは答えました。「われわれが主に問うことのできる人が、まだひとりいます。イムラの子ミカヤです。彼はわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言するので、わたしは彼を憎んでいます(8節)」。

 それでミカヤが呼ばれることになりますが、使いに立てられたアハブの僕はミカヤにこのように言いました。「預言者たち(バアル)は一致して王に良い事を言いました。どうぞあなたも、彼らのひとりの言葉のようにして、良い事を言ってください(13節)」。ミカヤは言いました。「主は生きておられます。主がわたしに言われる事を申しましょう(14節)」。ミカヤは自分の命を危険にさらすことになっても、真実を語りました。偽預言者たちは何であっても王を喜ばせることと、宮廷での恵まれた地位を守るのに役立つことを語っていました。当然ながらそこに国を救おうという意思はありません。

 ある教会指導者は真の預言者について次のように述べています。

 「世に必要なのは、清く、信仰深く、汚れない名をもって神にふさわしく振る舞い、愛される夫、誠実な父として模範を示す預言者である。預言者は、祭司や牧師や長老以上の人でなければならない。彼の声は、新しい計画、新しい真理、新しい回答を啓示する神の声となるのである。わたしは預言者に完全無欠を要求するつもりはないが、しかし彼は神から権威ある者として認められなければならない。任命されず、権能もないのに職を受けたつもりでいる人は世に大勢いるが、彼はそうではない。彼は主と同じように、『律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように(マタイ7章29節)』 語らなければならない。

 彼は、制限を緩めようという人々の声に対しても、勇敢に真理を語る。神から与えられた自分の務めと任命の神聖さと、人を召して聖任し、永遠の錠前を開く鍵を渡す権能が自分にあることを確認している。」

 旧約聖書の時代に偽預言者が広く存在していたことは、各書に記されています。申命記18章20節、イザヤ9章15〜16節、28章7節、エレミヤ書2章8節、5章31節、23章9,11、16節、27章15節、28章15節、哀歌2章14節、エゼキエル22章25節、ミカ書3章5節、ゼカリヤ書10章2節。






希望の使者


 預言者はこの世の初めから終わりまでに渡る出来事を眺望して、多くの預言をしてきました。旧約聖書の預言者たちは各々の時代の苦難と、神が続いてイスラエルに下される罰とを知らしましたが、それだけではなく、将来訪れる喜びの日についても予見しました。そして、イスラエルの救いが彼らの時代には来なくても、将来いつの日か実現することを知って、かすかな希望を人々に与えてきました。現在、教会に集う人々はイエス・キリストを信じて救いを得ています。また現代の預言者と使徒たちは全世界にキリストについての教えを明らかにして、正当な執行者として、神の名によって救いの儀式を行っています。これらの儀式は、地において結ばれて、天においても永遠に結び固められており、同様なことが古代においても見られます。

 救いは今日と同じようにキリストにあって、古代の預言者は、回復された教会が教えている教義を教えていました。真鍮版に登場する人物ニーファイは預言者として仕え始めたときに、その目的について記しており、神から与えられた使命を次のように要約しています。

 「わたしが一心に志すのは、人々がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のもとに来て救われるように、説き勧めることである(1ニーファイ6章4節)」。同じ真鍮版の王ベニヤミンは、天使によって語られた言葉を宣べ伝えて、これと同じ概念を確認して、さらに次のように言いました。「・・・悔い改めて、主イエス・キリストを信じるのでなければ、このような者には決して救いは与えられない・・・。そして、主なる神はこれらのことをすべての部族、国民、国語の民に告げ知らせるために、聖なる預言者たちをすべての人の子らの中に遣わされた。またそのことによって、キリストが来られると信じるすべての者が、あたかもキリストが自分たちの中にすでに来ておられるかのように自分たちの罪の赦しを受け、また非常に大きな喜びを味わえるようにされた(モーサヤ3章12〜13節)」。

 またコリアントンという真鍮版の預言者アルマの息子は、反抗的で肉欲的な罪によりキリストの来臨について理解することができませんでした。そこでアルマは息子にこのように言いました。「さて、わたしはこの件についてあなたの心を少し軽くしよう。見よ、あなたどうしてこれらのことが、このようにずっと前から分かるのかと不思議に思っている」。そして、次のように論証しました。

 「今の人はキリストが来られる時代の人と同じように、神にとって貴い存在ではないだろうか。贖いの計画は、この民の子孫と同じように、この民にも知らされることが必要ではないだろうか。今、主が天使を遣わして、『この喜びのおとずれ』をわたしたちに告げ知らせてくださるのは、わたしたちの子孫に宣言されるのと同様に、あるいはキリストの来臨の後に宣言されるのと同様に容易なことではないだろうか(アルマ39章15〜19節)」。

 救いはキリストにあって、神の聖なる福音に従うことによりもたらされます。「この喜びの訪れ」は、キリストの降誕以前の人々にも宣言されています。それは、


救いがこの人類に与えられるようにし、その子孫の心を備えて、キリストの来臨の時に神の言葉を聞けるようにするため


です。

 キリストが降誕した時代や、その後の預言者のいない暗黒時代に生を受けた人の中で、キリストを救い主として、神として、主として、王として受け入れる備えのできていた人は、全体から見ればごくわずかでした。これは神と人との歴史を通じて最も悲しむべき記録です。しかし、多くの預言がその重要な部分として織り込まれたたくさんの教義とともに宣べ伝えられて、神の導きを受けた数多くの誠実な人々は、御霊の助けによってそれを研究し、心理の知識を手にすることができました。

 メシアの預言を何となく漠然と信じているような学者たちは、これらの神聖な声明が数において少なく、比較的限られた聖見者や預言者から出たとされています。しかし実際にはこれらの預言は多くあり、それを語った預言者は、町や国や大陸を満たすのに十分な数でした。あらゆる預言者、古代の義の説教者、シオンの民、古代の聖徒、アダムからヨハネに至る聖霊の賜物を受けた人々、これらすべての人がメシアに関する証を述べました。彼らは皆、やがて降臨するキリストに対して、御霊による希望を抱いています。幸いなことに、その中の何人かは民の預言者として召され、彼らの言葉の一部が必要な人々のために保存されています。

 救い主イエスは当時のユダヤ人に次のように言いました。「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て楽しんだ(ヨハネ8章56節)」。他にもそれを見て預言した人がいました。使徒行伝3章21〜24節、真鍮版ヤコブ4章4〜5節、ヒラマン8章16〜18節。



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