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黙示録の象徴


 黙示録は特異な書であり、新約聖書の他の書とは非常に異なっています。この書には、なじみのない象徴が使われており、多くの人にとって不可解な書物です。過去に黙示録を研究、その意味を思い巡らしてきた人々は大勢いて、彼らは様々な立場から、その奥義を解き明かし、その象徴を解釈しようと努めてきました。何世紀もの間、「黙示録は将来の出来事を述べたものなのか、過去の出来事を述べたものなのか、それとも比喩的なものなのか、ヨハネはまだ現実となっていない歴史を実際に見たものなのか、それとも霊的な真理を伝えるために明確で力強い言葉を用いたに過ぎないものなのか」、などという質問が論じられ、考えられてきました。

 黙示録を解釈するにあたっては、過去に様々な方法や理論が展開されてきていますが、しかし解釈の方法は大きく分けて2つに分類できます。すなわち、預言の書である説と、予言の書ではないとする説です。




予言の書ではないとする見解


 多くの学者や黙示録の解説者は、ヨハネが予言的な意図を持ってこの書を書いたこと否定しており、また彼らは、その内容が将来の出来事に関するものであるとする考えをも否定しています。「黙示録預言既成説論者」としばしば呼ばれるグループは、黙示録には現在すでに過去の事実、すなわちヨハネの記述の全ては、当時の出来事に照らして解釈すべきであるとしています。その書に記されている象徴は、教会とローマ帝国の予言はまったく記されておらず、それらを見出そうと努める者は、黙示録の意味を誤って解釈するするであろうと彼らは考えています。

 黙示録預言既成説論者とは極めて異なっているもうひとつのグループがありますが、彼らも黙示録を預言の書とは考えていません。これらの人々は時折「観念論者」あるいは「比喩論者」呼ばれ、黙示録は霊的なものとして解釈することを拒否して、ヨハネの用いた象徴は実際の出来事や状況をそのまま伝えるものであると解釈するのを否定します。すべての事柄は霊的な真理にを象徴的に描写したものであると理解すべき、というのが彼らの考え方の根本となっています。獣や大淫婦は、キリスト教徒の原則によって征服しなければならない、人間に内在する悪を表したものであるとしました。

また、大いなる裁きは人の行いが神の前に実際に報告されるものではなく、むしろ重要な倫理的問題を決めなければならない時にいつも裁きがあるとも、彼らは考えています。さらに新しいエルサレムは、人々の間から戦争や憎しみ、悪をなくし、愛と調和と平和のある生活を始める社会の象徴的な描写であると理解しています。




預言の書であるとする見解


 預言の書であるという見解を取る人は、ヨハネは将来の出来事を予言したと考えるを持っています。しかし、黙示録を実際の歴史とどのように関連づけるかということに関しては、様々に意見が分かれました。一般に「歴史重視主義者」と呼ばれるグループは、黙示録は五旬節の日から裁きの日まで、キリスト教会の歴史全体を概説したものであると主張しています。そして、この書の象徴は歴史上のすべての重大な出来事についての将来の予言であると見ました。すなわち、それらはヨハネにとって将来の事であり、そのほとんどは現在成就されているとしています。従って歴史重視主義者は、過去に知られている事柄と黙示録の中に見出される事柄を一致させようと試みます。

 歴史重視主義者の解釈の一例は、底知れぬ所から登ってくるイナゴが大規模な軍隊になる(黙示録第11章)という記述を、中世のマホメットの侵略であるとしているものがあります。彼らは、ヨハネの予言の幾つかはまだ成就されていないが、しかしそのほとんどはすでに過去の事実となっていると語りました。

一つの論説によると、黙示録の最初の3章にあたる7つの教会に宛てた手紙はヨハネの時代のことで、残りは末の日の出来事であるとするものがあります。残りの章は全て予言であり、キリストの再臨の直前に起こる大いなる出来事であると定義しています。黙示録をこのように解釈する人々は、これらの時代を「大いなる艱難の時」と呼んでいて、その期間は3年半ないし7年間続き、その艱難に次いでキリストが勝利の帰還をし、福千年が始まると語っています。そのようにこのグループは黙示録の大半を、ヨハネにとって将来のことであるばかりでなく、現代の人々にとってもなお将来のことであるとしました。彼らはヨハネの用いた象徴的な表象を認めながら、これらの予言の成就はまったく文字通りに起こると考えており、これらの理由からこのグループは「未来信者」と呼ばれています。




啓示に基づいた見解


 このHPでは前記の4つのグループである、予言ではないとする「黙示録預言既成説論者」と「観念(比喩)論者」及び、預言であるとする「歴史重視主義者」と「未来信者」とは一致していません。また、彼らの考え方の折衷案や妥協案というものにも当たりません。黙示録を予言的なものであると考えてはいますが、それでもこのHPでの解釈は他の教義や学説とは違う独自の解釈を取り入れています。事実、このHPの推奨する説を理解しようとするする人は、聖書の真理を理解する上で非常に有利な立場に立つことができます。

 近代の啓示による明確な回答および預言者の霊感による正しい改訂、説教、救いの計画に関する広範な知識など、これら総てを保守的に、また知恵と霊感をもって応用するする方法は、他では明らかにされないほど深く正しく理解することが可能です。

 この啓示された情報は、黙示録の解釈に重要な鍵を与えており、ある意味では黙示録は鍵の下ろされた家のようなものです。窓から覗き込むと中のものが少し見えますが、ぼんやりとしてあいまいで視界も限られます。ところが、近代の啓示を使うと、ドアを開いて中に入ってそれらを手にとって見ることができます。しかし、一度目にしたからといって全てを理解できるわけではなく、ある程度時間をかけて調べる必要があります。特に、教義と聖約と呼ばれる啓示の第77章についてこのことが言えます。

 これは近代の預言者が受けた質問の答えのひとつあって、7つの封印についての解答が与えられています。その結果非常に斬新な解釈が答えとして与えられました。この黙示録5章1節はこの世の歴史全体を表しており、7つの封印のそれぞれが1000年間の歴史を示しています。つまり、最初の封印は最初の1000年間の出来事を表し、以下も同様にそれぞれの封印はそれぞれの1000年間を示しています。しかしながら、そのおもな目的は歴史ではなく、「予言」であって、最初の4000年はそれぞれ簡単に述べられ、それぞれが2節程度にまとめられています。つづく第5の1000年間である、ヨハネと彼の読者たちが生きていた次期は最初の4000年よりも多くなっていて、それに続く第6の1000年に至っては第6章12節から第7章の全文までの23節にわたって詳細に述べられています。

 以上をまとめるとこのHPの黙示録解釈は、


人類歴史の全体にわたって御父と御子の壮大な計画を表しており、それも特に悪がその力と邪悪の全てを制圧する時期の事に集中しているということです


 当時の大きな悪の力であるローマから直接に恐ろしい被害を遭った当時の聖徒たちに、このような啓示がどれ程の慰めを与えたかは定かではありませんが、教会は文字通りの滅亡に直面しており、福音の光がかき消されようとしていました。このような状況の下では、神が神の人々に対して何か働きかけているのだろうか、あるいは抵抗勢力であるサタンが勝利を収めることはないのだろうかと迷っても不思議な事ではないでしょう。しかし黙示録が告げているように、神が力を表すので将来サタンは決して勝利を得る事はなく、やがて時がくれば永遠に閉じ込められます。

 このことを知ることは、当時の聖徒たちにとって非常に価値があり、現代の聖徒たちにとっても同様です。なぜなら、世界の動向や政治に詳しい人なら理解できることですが、古代にあったような一極集中の「悪」が今一度大きな力を結集するのを見る事になり、皇帝礼拝よりも神に背く力の大きい政治的権力や哲学、またかつてローマの全盛時代に行ったよりも大きな力を持った人の生活を支配しようとする力を目にするからです。さらに、人の邪悪が急速に広がることも見るでしょう。神の計画の概要と、神が全てのものを治め、将来に善と悪の間で交わされる最後の大戦争で勝利を得るという慰めがもたらす確信は、今の世の人々ために非常に大きな価値があります。

 黙示録のように、神は神の子供たちを教えるのになぜ象徴を用いるのか、疑問に思うのはよくあることです。
 聖書を一読しただけでも明らかなように、神は神の子供である人間に福音の真理を教えるに当たって、頻繁に象徴的な言葉と表象を用いています。麦と毒麦、からし種、燭台、オリブの木、ラッパ、酒ぶね、目、耳、心、バプテスマ、聖餐など、象徴の用いられたものを挙げると数限りないものです。

 では、神がどうしてこのような象徴を用いて永遠の真理を教えようとしたのかを考えてみると2つの理由があることがわかります。

 第一の、そして最も重要であると考えられるものとは、

象徴は抽象的な概念や言葉以上に心に大きな衝撃を与えて、真理をはっきりと伝えることができる

というものです。


 マタイ13章24節の麦と毒麦のたとえ話を例にすると、イエスは弟子たちに、王国には悪い人と良い人がいると直接告げることもできましたが、しかし毒麦は成長の段階では麦とほとんど区別のつかない毒草であり、どちらも実をつけるほどにならなければ分けることはできません。このことを覚えておくと、麦と毒麦のたとえ話は深い意味を持ってきます。これらは、現在においても古代の使徒の時代においても、麦と毒麦の原則によりはっきりと目にすることができます。

 象徴がこのように効果的な教授法である第二の理由は、

霊的な成熟度に合わせてそれぞれ霊的な真理を伝えることができる

というものです。


 バプテスマの儀式は、例として最適なものの一つであり、バプテスマは清められること、すなわち罪が洗い流されることを象徴しています。しかしその意味をさらに考えてみると、そこには深い霊的な意味のあることが明らかとなり、それはバプテスマの儀式以前の罪深い人間の死と埋葬を暗示しています。またバプテスマの儀式を行うフォントは肉欲に従う人間の墓にたとえられる一方で、女性の子宮をも象徴しており、最初の肉体の誕生と同じように、そこで新しい霊的な人間がもう一度生まれることになります。このようにバプテスマは、簡素で美しい儀式にとどまらず、その象徴の中に福音の最も基本的で重要な真理の幾つかが見出されています。

 福音の中に象徴が用いられる理由はそのほかにも幾つか存在しています。前記した簡素さと美しさ、あるいは象徴の持つ普遍的訴え、それらはその意味を調べて考えようとする人の、探究心をかき立てる効果を持っています。すべての聖書の中で最も象徴がたくさん用いられている書である黙示録をこれから調べてみましょう。




黙示録の象徴性


 黙示録に関して最も頻繁に問われかつ回答の困難な問題は、その「象徴性」です。その問題とは、ヨハネの見た表象の幾つが象徴的なのか、それらは文字通りに理解あるいは解釈すべきなのか、比喩的なものとするべきなのか、またそれらを複合的に考えなければないないものであれば、その違いはどのようにすればよいのか、といったものでしょう。黙示録の表象にあるものは非常に奇妙で、普通の人々には第13章1節にあるような「七つの頭と十の角を持つ獣」といったものはなじみのないものです。

 先の問題に完全に答えることができないにしても、黙示録の研究を始めるに当たっては以下の事柄を踏まえる必要があるでしょう。


  ヨハネは読者にあいまいな、あるいは理解できない事柄を書こうとしませんでした。ヨハネは読者の理解できる言葉で書き、彼らとその文化背景をひとつにしています。従って、彼らはヨハネが用いた特別な用語や句に通じていたと見ることができます。私達が黙示録を理解するのに困難を感じる理由は、時代に隔たりがあり、社会情勢や言語が異なるからです。しかし、ヨハネは黙示録を書くに当たって、読者がそれを明確に理解することを期待していました。
 ヨハネの記録は書かれた当初には、はっきりしていて純粋であって、ほとんどの人にわかりやすいものであったと近代の啓示や研究からわかっていました。聖書の他の部分と同様に、正確さを欠く所が見受けられています。このことから、適切な解釈を施すことが困難になっているのが現状でしょう。
 ヨハネの用いた表象の多くは象徴的であり、それらを文字通りに解釈してしまうと、実に異様な不可解な描写です。その好例のひとつの神の御座の周りの生き物の描写で、それらの生き物は6つの翼を持ち、「その翼のまわりも内側も目で満ちていた(4章8節)」と述べられているものです。これらの翼は動き働く能力を表わしていて、目は巧妙と知識とを表わします。古代の人々に、自動車や列車、飛行機やロケット、様々な通信機器などはどのように象徴できるでしょうか。

 恐らく現代の人々が言い表すのには程遠い解釈で表現することでしょう。人々が光を感じ、知識の大半を得るのは「目」によってであり、「目」は巧妙と知識を象徴するのに適切です。このように、黙示録は非常に象徴的な記録なので、すべてを文字通りに解釈しようとするときに、非常に大きな誤解が生じています。
 黙示録は非常に象徴に富んだ書物ですが、その象徴は現実的な物や人、出来事を描写しています。言い換えると、それは象徴的ではありますが、観念主義者の主張する意味での象徴性はありません。すなわち、抽象的で不明瞭な概念を持つものでもありません。例えば、ガラスの海は象徴的な概念ですが、それは日の光栄化した地球という明瞭で具体的な物を表わしています。7つの封印によって封じられた書物も象徴的なもので、これらは地球の歴史上における7つの期間を文字通り具体的に描写したものとなっています。

 象徴の幾つかは明らかであり、近代の啓示と研究にを通じて、人々はそれが何を意味するかを知ることができます。しかし象徴の多くは明らかではなく、従って、さらに啓示が与えられるまで、その意味を断言することはできません。ですが、覚えておくべき重要なことは、黙示録は象徴で満たされているけれども、それぞれの象徴は具体的な意味を持ち、現実の事柄を伝えているということに他なりません。
 黙示録とその象徴の意味は霊感の賜によってのみ正しく解釈することができます。神の霊感によらない解釈はどのように素晴らしいものであっても、その奥義を解くものではありません。その書が黙示録と呼ばれるのはそのためであって、啓示がそれを理解する上での不可欠な条件です。従って手は加えられてはいるものの、神が書くように命じた書物の中で最も明らかなもののひとつと言われるゆえんとなっています。これらの近代の啓示と研究は、黙示録の奥義を解き明かす上で非常な助けとなります。謙遜かつ熱心に祈りをもって黙示録を研究する時、御霊によって最も重要な末日の啓示を受けることができるでしょう。





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