イスラエル対する預言の声の終わり 律法学者の出現
ユダヤのギリシャ化 ギリシャ文化下のパレスチナ
パリサイ人とサドカイ人 エッセネ派
ハスモン家とマカベア家の反乱 ローマ支配下のユダ
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イスラエルに対する預言の声の終わり


 イスラエルは長年にわたって預言者たちを拒み、卑しめ、迫害し、争い、反抗してきました。そしてついに預言者たちは死に絶えてしまいます。マラキは、イスラエルに道を説いた預言者の最後の人であって、旧約においては彼とともに預言者の時代は消滅し、イスラエルの希望も絶え果てました。神はこの国が聖なる国、自分の特別な宝であってほしいと願っていました。国の富と栄光と力を増すと約束し、「わたしはシオンの糧食を豊かに祝福し、食物をもってその貧しい者を飽かせる。またわたしはその祭司たちに救いを着せる。その聖徒たちは声たからかに喜びよばわるであろう(詩篇132篇15〜16節)。そればかりか神はこの国に、町を神自身の住まいにできるように十分清くなって欲しいと望んでいました。

 実際にこの国はシオンとなるはずであり、神はとこしえにこの場所を住まいにすると宣言しています(詩篇132篇13〜14節)。イスラエルは預言者を拒否することによってこの約束と、エノクの民のようになる可能性を失いました。「主はこう言われる」と堕落に歯止めをかける言葉を投げかける者の声が聞かれない、恐ろしい暗黒の時代をイスラエル自ら招いてしまいます。では、預言者の死を彼らは喜んでいたのでしょうか。自分の欲望を満たそうとすると必ず警告の声をあげていた邪魔な人間がいなくなれば、彼らを拒んでいた人々は喜びに溢れていたのではないのでしょうか。実は全くの反対でした。

 民衆は預言者を失ったことを嘆き、そして自分たちが死に追いやったはずの彼らの著作物を集め、保存し、筆写し始めます。何故このような相反する行動に出たのでしょうか。ここで、死んだ預言者たちは偽りの神々と同じように「否」と言う力はもっていないことに注目すべきです。彼らは昔の世代に悔い改めを呼びかけるだけ、つまり霊魂となった死者がそう説いているにすぎません。何故なら「生きている預言者」にはそのような行動は難しく、「いや、わたしは生きているあなたに話をしているのです」と言うからです。死んだ預言者たちが残した神の言葉は、今や原型から程遠く解釈、拡大、歪曲するのも自由です。

 こうして生ける預言者を拒んだ当の人々にによって、それは無意味、無害のものとされ、その後道を外れた民は敬虔や正義について間違った考えを植え付けられてしまいます。これは現代におけるモラルの低い人々を見るとわかることでしょう。この時期は神の権能がほぼ無力になった時代でもあり、心を世の物に向けたため、召される人は多くても選ばれる人も少なく、神殿礼拝は単なる儀式に陥り、イスラエルの霊的な呼吸は止まる寸前です。しかし生気は幾分残っており、レビの子孫がこの権能を尊び続けていました。このささやかな徳の流れを通じて霊の命の水は細々と続き、イスラエルが自分で壊した水槽も干上がってしまうことだけは避けられました(エレミヤ2章13節)。

 この時代で俗に言われる聖職者とは本当の聖職者ではなく、モーセと違って

 
神の啓示からではなくペルシャ帝国から任命されて権威を得ていました。


 人間の王がトーラー(モーセの5書)に地位と権威を与えて、成文化を奨励し、違反するものには罰金、追放、死刑などを課して取り締まっていました。しかしこうしてモーセの律法は確立されてしまい、ペルシャ統治下の全ユダヤ人に広く知れ渡り、強制力を持つようになります。残念なことに人の手は律法の文字しか伝えられず、啓示と預言者が途絶えて、御霊と力は失われました。

 それにもかかわらず、帝国の一部であるということが、イスラエルにとって、霊的とは言えないまでも物質的には幸いとなっています。イスラエル史全体を通じて、定住生活の便利さをうらやむアラブ、アラムの遊牧民は、定着したイスラエル人に絶えず圧迫を加えていました。民が自衛力を持てなかったこの時代に、ユダヤ人農民の安全が守られたのは、ペルシャや後のギリシャの軍事力のおかげです。もしユダがこれら異教国家の一部となっていなかったら、遊牧民がユダヤ人を海に追いやりパレスチナを侵略していたでしょう。その他の様々な面においても、従属の数世紀はイスラエルに問題と祝福の両方をもたらしました。




律法学者の出現


 ユダバビロン補囚から戻った時に、昔の教義になかった多くの教えを持ち帰りました。それらの全部を類型化して象徴を読み取るために誰かを選ぶとすれば、それは律法学者以外にはいませんでした。もともと律法学者とは、国の記録をつけたり聖典の模写に携わって生計を立てていた教育のある人々と言われています。彼らは筆写の間違いを探し、また聖文の意味を理解しようと熱心に研究した結果、やがて彼らの役割は広がり始めます。次々と建てられるユダヤ教の会堂シナゴークに聖典の写本を提供するばかりではなく、自分たちが律法の教師となっていきました。

 しかしイスラエルに預言の声が途絶えると、これらモーセの律法の専門家がその空白を埋め始めてしまいます。一端真の預言者が表立って拒否され、自分の報いに甘んじさせられるや否や、専門家の群れが彼の言葉にたかって、学究的聖書解釈の仕事を始めました。死んだ預言者たちの言葉は、特別に教育されて、注意深く調整された学者集団の所有となっています。律法学者の勢力拡大を進めた主因は、民の日常語がヘブライ語からアラム語に移ったことです。アラム語は姉妹語ではありましたがかなり違っていたので、ヘブライ語の聖典は理解するのが容易ではなく、そこで人々は学者に頼らなければなりませんでした。

 律法学者、博士、長老、ラビという肩書きが、大きくなる一方の彼らの重要度を示しています。彼らの間に解釈の一致はなく、銘々勝手に自分の見解を説いていたことには驚くに当たりません。その結果、ユダにサドカイ派、パリサイ派エッセネ派などの別個の宗派ができることとなりました。




ユダヤのギリシャ化


 紀元前4世紀の終わり頃、1つの新勢力が歴史の表舞台に踊り出る機会をうかがっていました。ペルシャ帝国の絶え間ない圧力が触媒となってギリシャの数ある都市国家はマケドニアのフィリップ王を長として手を組んでいます。彼の指揮の下、ギリシャ半島の全勢力は間もなく結束して、ペルシャの覇権に挑戦する準備を整え、やがてフィリップ王の息子アレキサンダーの下で征服の戦いが始まりました。彼は紀元前334年にペルシャ帝国を降伏させます。アレキサンダーはそこから直ちに中東全体に侵攻して、パレスチナを含む諸国を傘下に収めました。商人、職人、労働者などのギリシャ人の移住集団が引き続いてやって来て、ギリシャ文化をもたらす結果となっています。

 数年後にアレキサンダーは死にましたが、ヘレニズム、つまりギリシャの影響は何世紀も残りました。ユダヤの小国がアレキサンダーに征服されると、ユダヤ人世界は西方に向きを変えてヨーロッパ文明の影響下に入ります。過去には北東や南に連行されて散乱しましたが、今後は北及び西に広がるということです。昔は同じ中近東出身のあるじであったのが、これからは西方出身者の支配を受けることになりました。この当時ギリシャ人は、世界の諸問題は自分たちの文化ですべて解決がつくと信じていました。世の青少年にギリシャ古来の思考や思想を植えつけることが、当面の目標でした。彼らはそのために、旧習にとらわれずに学習できる町を建設して、更にギリシャ人の退役軍人が帝国中に土地を与えられました。

 こうしてギリシャ人はヘレニズム思想の浸透を図ることに成功します。結果としてギリシャ語が新しい国語となり、ヘレニズム文化が標準となってしまい、ユダヤ人にとってはかつてない大規模な異教の影響と難問が降りかかってきました。ギリシャ人はユダヤ人の風俗、慣習、宗教を原始的、前時代的、野蛮と見て、彼らの「啓蒙」に努めます。周囲の民はすぐにギリシャ支配を受けて、やがてユダヤ人はギリシャ風文化の大海の中の孤島となりました。以前はユダヤ人だけが一致団結を誇っていましたが、新たに行政面でこうした圧力を受けると、シリア・ギリシャ連合が台頭し始めます。

 強力な統一戦線にユダヤ国民が対抗していけるものかどうか、政治的に包含されてしまうのではないかという懸念が生じてきました。その懸念は事実となり、刺激的なギリシャ哲学や唯物思想の影響が、じきにユダヤ人社会の上流層に蔓延しています。大祭司の職に君臨して、神殿礼拝やより政治的な長老たちの評議会を牛耳っていた有名なザドク家でさえ、その圧力に負けてしまい、トーラーの単純な真理の一部を捨てて異教の複雑な哲学を採用してしまっています。放棄とは言わないまでも、妥協はこの時代日常茶飯事であって、ギリシャ化した大勢のユダヤ人エリートが非常に儲けの多いギリシャの取税人の仲間入りをしました。

 異教との流儀に公然と譲歩する人々を見て、より敬虔な多くの人たちはその日和見主義者を罪人と等しい者と見なし、そうした感覚はキリストの時代まで続きます。この頃、非常に皮肉な現象が生じました。補囚の時代以降、サマリヤではユダヤの血統が異教徒によって薄められてしまいましたが、それでも住民はネヘミヤの時代まではエルサレムを自分たちの霊的なよりどころとしていました。ところが帰還したユダヤ人に神殿再建への参加を拒否されて、サマリヤ人はそれに対抗してゲリジム山に自分たちの神殿の基礎を据えました(エズラ4〜5章、ネヘミヤ13章27〜31節、ヨハネ4章20節)。こうしてゲリジム山はサマリヤ人、モリヤ山はユダヤ人の神殿の地となっています。


サマリヤはギリシャの圧力に押されて速やかにその様式を取り入れ、ヘレニズム思想の中心地となっています。


 エルサレムのユダヤ人もかなり譲歩はしましたが、サマリヤ人のギリシャ化いかにも先祖の風習をかなぐり捨てたかのように見えて、それが驚きを。呼んで、やがては嫌悪に発展しました。


この敵意が、エルサレムとサマリヤが手を結ぶ可能性を永遠に破壊しています。


 その後キリストの時代には両者の間の憎悪が激しくなっており、ユダヤ人の中にはガリラヤからユダヤへ旅をする時に、悪い影響にさらされて汚れに染まる危険を冒さないで済むようにと、サマリヤを避けてわざわざ遠回りする人々がいました。




ギリシャ文化下のパレスチナ


 アレキサンダーの死後、東部全土を戦争の嵐が襲いました。アレキサンダー時代の将軍たちが自分たちの領土を広げようとして戦争を起こし、最終的には2人の将軍が聖地を手中にしています。セレウコスがシリアと中東の北部を征服して、プトレマイオスがエジプトを取り、パレスチナはじかに2人の競争者の間に置かれました。聖地はその後の数年間、プトレマイオスとセレウコスが支配権をかけて戦う間に何回も両方にやり取りされて、ユダの町々も住民も悲惨な被害に遭っています。紀元前301年にようやくエジプトのプトレマイオスが勝利を収めて、その後100年間支配を受けることとなりました。

 しかしこの間に、もう一方のマケドニアのセレウコス朝との覇権争いも続いており、パレスチナはプトレマイオス王朝にとってかつてのエジプト、ペルシャ、アッシリアの支配者たちにもそうであったように、戦略的に重要な土地でした。エジプト人にとっては防衛の前線基地であり、また貿易ルートが交差する所でもあったため、大きな経済的な価値がありました。かたやシリアに根を下ろしたセレウコス王朝は、自国の心臓部に近い国をプトレマイオスに支配させるつもりはありませんでした。こうしてユダヤはなお、二大敵対勢力の争いの的となり、紀元前200年になると、セレウコスがユダヤを占領、掌握しています。

 一つのヘレニズム王朝からもう一つの王朝への支配者の変化は、かつて支配権がペルシャ人からギリシャ人に移ったよりも多くの問題をユダヤ人に引き起こしました。プトレマイオス時代には、ヘレニズム化の圧力はまず富裕層に微妙に感じられ、下流階級には税さえ払っていれば問題はほとんどありませんでした。この時代にユダヤ人の人口は特にパレスチナ以外で急増しており、例えばエジプトのアレクサンドリアの町は世界最大のユダヤ人社会を擁するようになり、バビロンや世界の様々な町に大きなコロニーができています。ディアスポラ(バビロン補囚)のユダヤ人がユダヤに住むユダヤ人の数を上回っていました。

 セレウコス王アンティオコス4世が紀元前175年に権力を得ると、パレスチナ・ユダヤ人のそれまでの比較的穏やかな生活は終わりを迎えました。アンティオコスはギリシャ人がユダヤ人の保守性や迷信深い蛮行を長く認めすぎたと言い出して、ギリシャの宗教を強制することによってユダヤ人の宗教を駆除しようとします。この王はエルサレムに体育場を建てて、ギリシャの哲学、演劇、教育を持ちこみ、ユダヤ住民の上層部はたいした問題もなくその変化を受け入れてしまいました。なぜなら、


異邦人との友好関係から最も大きな利益を受けて、また支配者の怒りが燃えれば最も損失の大きいのが彼らであったからです。


 しかし大半の住民はそうした風潮を棄教と見なしています。

 体育館を意味する「ジムネアジム(gymnasium)」という英語は、「裸」を意味するギリシャ語のgymnosから来ており、ギリシャ人は人体の美しさを称えて、ジムネアジム(体育場、アカデミー)の青年たちは裸で運動競技に参加しました。この習慣は保守的な人々には嫌悪されましたが、富裕階級の人々は割礼を恥とするだけでなく、息子たちが体育場ですぐに変わり者扱いされてしまうために、割礼の律法を捨て始めてしまいました。時には、この男性器の皮膚の一部を切除するというアブラハムの聖約のしるしを隠すために、苦しい手術を受ける青年さえいました。

 ユダヤ人をヘレニズム化しようとする圧力は、彼らを強化しようとアンティオコスが望んだせいでもありますが、そこには政治的な理由があります。ローマがみるみる内に強国になってきていて、エジプトや小アジアの一部のように地中海地方がすでに陥落し、次の目標は当然シリアとパレスチナであることが歴然となってきました。彼には台頭する力に太刀打ちできる強力で安定した国民が必要でした。しかし国内には反抗的で制御しにくいユダヤ人がひしめいており、またその態度が宗教から来ている明白です。しかしすでに彼には答えが見えており、


ユダヤ教を葬るために圧力を強め始めました


 紀元前169年、アンテイオコスの命令で神殿が略奪を受けました。2年後には安息日に軍隊が聖なる町を襲い、安息日を聖とせよというモーセの第4の戒めを「厳密」に解釈した民は、敵の襲撃にも反抗せずに大勢の人が殺されてしまいました。そのすぐ後に城壁は破壊されて、汚された神殿の近くに建った要塞の中にも駐屯地ができてしまい、一部しかできなくなった神殿礼拝は間もなく中止となっています。安息日の遵守や祭、割礼は禁止されて、違反者は死刑という境遇に陥ってしまい、ユダヤ人にとって大きな禁忌であった豚肉が、アンティオコスの兵士が見守る前で犠牲の捧げ物になり、民はゼウス神などの偽りの神々の偶像礼拝を強制されてしまいました。




パリサイ人とサドカイ人


 歴史のこの時点で、重要なユダヤ人の2グループが出現しました。どちらも起源や歴史については様々な説がありますが、サドカイ人もパリサイ人も、ユダがセレウコスの強力なヘレニズム教育に抵抗していた時期に存在が知られだしたことは、多くの研究者や権威者が一致して認めるところです。ユダヤ人の分派はすべてがバビロニア補囚の時代に端を発しますが、ギリシャ人の圧力下で、2つのグループが目立って重要なグループとして浮上し始めました。後に述べるハスモニア家の反乱が終わる時代には、両方の教派が強力なライバルとなっています。

 パリサイ派の元となった教派は「聖なる人々」を意味する名のハシディーム派であると言われていて、この教派はユダヤ教の儀式の遵守と、エズラ時代のトーラー研究を重視しています。その中には、周囲の人々の汚れから自分を隔てて、律法の解釈に厳格に従うという誓いを立てた人々がいました。ハシディーム派は記録された聖典であるトーラーを自分たちの宗教の基盤として正当と認めただけでなく、それを背景に拡大して古い規範を新しい状況に当てはめようとして、律法をより比喩的に解釈しています。その解釈が大半は暗唱によって口承されたので、口承律法として知られるようになりました。また彼らは選択の自由と予定説の結合、死者の復活、来世における報いや罰の裁きを信じていました。

 ユダヤ風の伝統的な価値観が次第に失われていくことに危機感を持った人々は、自分たちの宗教の擁護に熱心な唯一のグループと見えたハシディーム派に、ますます心を寄せるようになっていきます。このハシディーム派の周辺に、モーセの律法の用語に挺身する一大グループが形成され始めました。彼らはギリシャの影響に対抗して、かたくななまでの厳格さでモーセの律法に従いました。このグループは偽りの思想という世の汚れから離れようとしたので、「分離された」という意味のヘブライ語のパールスを語源とするペルシームと呼ばれ始めました。ここから、


ペルシームのギリシャ語の音訳であるパリサイという名が生まれています。


 パリサイ人は大多数の住民に歓迎されたために、サドカイ人より遥かに大きなグループとなり民の支持も得て、その状態はキリストの時代まで続いています。彼らは一般人を主体としていましたが、サドカイ人は祭司、商人、貴族などの上層階級から成っており、


この宗派の名称のヘブライ語ザドキーム(サドカイ)は、ダビデ王時代の大祭司ザドクに由来したものと言われています。


 旧約の預言者エゼキエルは、神殿の管理をザドクの一族に委任しており(エゼキエル40章46節、43章19節、44章10〜15節)、この一族の子孫は紀元前200年頃まで神殿業務の管轄権を持っていました。サドカイという呼び名は、このザドク人に好意的な人々のことを指すものです。ギリシャ文化を受け入れたのが主としてこの富裕層だったために、サドカイ人は一般大衆に人気がありませんでした。この宗派は全体から見て保守的であり、彼らはパリサイ人と違って、トーラーに忠実に基づいている部分以外は口承律法に束縛されるのを拒否しました。更には死後の命を信じずに、そのため復活の教義も否定しています。

 律法を守る目的はこの世で神の助けを得ることにあって、彼らの神学は神を人のレベルにおとしめる傾向が見られ、礼拝は人間の君主にささげる忠義の誓いとそれほど変わりはありませんでした。律法は厳密に解釈するものとし、パリサイ人が好んだ象徴的、比喩的解釈は許されていません。この二大勢力のせめぎ合いの中から正式なユダヤ教の会堂「シナゴーク」の礼拝が発祥しました。パリサイ人は祭司による神殿の独占的な支配に立脚したサドカイ派の宗教的権威を落とそうとしており、その支配力をそぐために、以前は神殿でしか扱われなかった祭のいくつかを取り上げて家庭で行うことを主張しました。また、自分たちの教義を広めて、末代に伝えるために、正式な礼拝の場であるシナゴークを建てています。このようにして、


祭司の子孫以外の学者が、国民の宗教行事の役割を勝手に担い始めています。




エッセネ派


 宗教的な汚れを避けて社会から遠ざかるという考え方が進んで、エッセネ派という別の宗派が結成されました。この名はギリシャ語の文書にしか見られず、恐らく「敬虔な人々」を意味するものと言われており、1940年代の後半に死海文書として知られる彼らの聖典がクムラン洞窟で発見されて、一躍このグループに関心が集まりました。この宗派はパリサイ派との間にかなりの共通点がありますが、彼らと違うのは、彼らよりもさらに極端な形でその信条を貫いたことです。エッセネ派は、パリサイ派が世間からの隔離を徹底していないと考えており、彼らは霊的のみならず実際に世間と隔離して、地域的に遮断可能な死海のほとりなどの孤立した場所に自分たちの社会を築きました。

 そうした共同体の生活は高度に組織化され、厳しい規律に基づくものです。モーセの律法によれば結婚によって婦人は汚れにさらされ、また信仰心の妨げになるとして、通常は結婚が行われず、神殿礼拝とそれに関連した犠牲も捧げられませんでした。彼らは夜明け前に起床して一同で祈り、午前11時ごろまで銘々の仕事をして、その時刻になると全員が水浴の儀式を受け、白い衣服を着て共同で食事をとります。食事が済むと聖なる衣服を脱いで仕事着に着替えて夕方まで働き、また一緒に食事をしました。ほぼ完全な自給自足で、穀物を育てて家畜を飼う生活をしていました。




ハスモン家とマカベア家の反乱


 ユダヤ教を滅ぼそうというアンティオコスの企みは残虐さを増す一方となりました。王の軍隊が村を取り囲んで一軒ずつユダヤ教の家探しをして、割礼を受けている男児か見つかるとその子は殺され、母親は見せしめのために首に縄を巻かれて高い壁に吊るされるという蛮行が横行していました(第2マカベア6章20節)。また別の場合には、豚肉を食べるのを拒否したために、母親の前で7人の息子が恐ろしい方法で次々に殺されています。母親は子供たちに信仰を守り抜くように勧め、自分も毅然として最後に死んでいきました(第2マカベア7章)。残虐と恐怖は逆の効果をもたらし、それにより反感が増大してアンティオコスとギリシャ軍兵に対する憎しみが野火のように広がって、不服従の気持ちが民の心にくすぶりました。

 そしてついに暴動の口火が切られます。紀元前167年、モデインという小さな村でギリシャ軍が村人を集めて、ハスモン家老齢の祭司マッタティアに異教の神に犠牲を捧げることを命じました。マッタティアは身の危険も顧みずにそれを拒みましたが、別の祭司が進み出てきて兵士の命令を実行しようとしました。この意思の弱い祭司がナイフを振り上げた時、激怒したマッタティアは刀を掴み、祭司とシリア人役人の両方を切り殺してしまいました。彼と5人の息子は山へ逃げ込み、ユダの全員に参加を呼びかけ(第1マカベア2章1〜27節)、本格的に反乱が始まります。それは各地に蜂起を促して、ユダヤ人は忌まわしいギリシャ人に反旗を翻し、暴動は全土を揺るがしました。

 アンティオコスが反乱を本気で受け止めたときには、国中に自由を求める空気が漲っていました。マッタティアはモーセの律法を擁護する祭司であったため、パリサイ派はハスモン家を支持しています。マッタティア自身は反乱の開始後間もなく死にましたが、彼には5人の息子がおり、父が死ぬとユダがその跡を継ぎました。彼は天才的な軍人で、まともな武器を持たない多数の民衆に、神と自分たちの大儀を信じるように繰り返し呼びかけ、民衆を力づけた彼は味方の人数の2倍から4倍の敵を何度も打ち破ることに成功しました。紀元前164年にはエルサレムの町が返還され、神殿から汚れたものが取り払われてエホバ礼拝のために再び奉献しています。ユダヤ人は400年以上たって初めて外国人の君主から独立しました。

 ハスモン戦争は、マカベアの乱という呼び名で知られています。マッタティアの息子がユダ・マッカビー、ギリシャ語読みではマッカバイオスと呼ばれていたからです。「マッカビー」という語が「槌」を意味するアラム語から来ていて、華々しい戦功をあげたところからユダにその呼び名を与えられたと、大方の学者は考えています。ところがある学者が、面白いことに「真鍮版」と共通する興味深い説を紹介しました。ハンフリー・プリドーは次のように述べています。


「Mi Camo−ca Baelis Jehovah、つまり主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、という文章の頭文字をつないで、それがMaccabiという造語になり、それでこの旗の下で戦う全ての人がマカベアと呼ばれた。」


 彼によると、ユダは自分の志に従う人々を一つの旗の下に集め、彼はその旗に聖典からとった言葉(出エジプト15章11節)を短縮して書きつけたと言っています。マッタティアの息子ユダはユダヤの独立を求めて戦いつづけて、セレウコス軍にも度重なる勝利を収め、紀元前161年にはローマと同盟を交わすほどにまでなりました。ユダの戦死で独立への歩みは遅れはしましたが、兄弟ヨナタンとシモンが彼の仕事を引継いで、セレウコス王朝の政治力減少に乗じて自分たちの勢力を強化し、ユダの境界線を拡張しています。しかしマッタティアと息子たちのせっかくの勝利も短命に終わりました。民やハスモン家の子孫は、自分たちを解放したのが神であることを瞬く間に忘れてしまい、サウルやダビデ、ソロモンのように、新しい王たちは王宮権勢の威力と栄光に負けて堕落してしまいました。

 マカベア一族の息子や孫は月並みな政治に屈して、100年も過ぎないうちに腐敗は進んで、紀元前63年にポンペイウスがユダを併合し、イスラエルの地は熟した果実のようにローマ人の手に落ちました。パリサイ人はハスモン家を指示して国の独立に貢献したので、絶大な人気を得たばかりか、国家権力の中枢にまで接近しています。古くから有利な立場にいたサドカイ人は、ギリシャ人に最も気に入られていたために民の人気を失っいました。しかしイエスの時代にはパリサイ人が庶民になお支持される一方で、サドカイ派も力を盛り返して、ユダヤの宗教議会「サンヒドリン」や大祭司の職を支配しています。

 シューラーという人はこの変化の原因を次のように説明しています。

 「ハスモン王でマッタティアの孫であるヒルカノスとパリサイ派の仲たがいの明白な原因については、ヨセフス記録を残しているが、同様にタルムードにも次の内容のことが書かれている。あるときヒルカノスは、大勢のパリサイ人が同席した晩餐会で、もし自分が律法と違うことをしたのに気づいたら、注意して、正しい方法を教えて欲しいと言った。ところがその場の人々は王を褒めちぎるばかりだった。ただ一人エレアザルが立ち上がってこう言った。『王は真理を知りたいと望んでおいでですので、もし心底正義を求めておいででしたら、大祭司の職を辞して国の政治にご専念ください。』 そこでヒルカノスがその理由を知りたいと望むと、エレアザルはこう答えた。

 『わたしどもは古老から、王の母君はアンティオコス・エピファネスの統治時代に捕虜となられたと聞いております。』 これはヒルカノスがアンティオコスの私生児だという非難だが、それは間違っていた。ヒルカノスは猛烈に怒った。そこでエレアザルにどんな罰を与えようかとパリサイ人に聞くと彼らは『縄をかけて鞭打ちを』と答えた。そのような侮辱には死刑以外にないと思っていたヒルカノスはますます激怒し、エレアザルは仲間の気持ちを代弁しただけなのだろうと考えた。王はただちにパリサイ人と断交し罰則を持って彼らが定めた律法を守ることを禁止しサドカイ人に近づいたのである。」




ローマ支配化のユダ


 ローマが近東を平定すると思想的な面における戦争がエスカレートしました。ユダヤ神学はほぼ最初からギリシャ思想によって微妙にゆがめられていましたが、ローマの占領時代に至って本来の姿から逸脱したものが新しいユダヤ神学の核となり、大多数の国民に支持されています。


新しいユダヤ神学をそれ自体最も奇異なものにした宗派が、異教徒からの隔絶を最も熱心に説いた宗派であったのは皮肉なことであり、それがパリサイ派です。


 理想主義、精神至上主義はギリシャ哲学の根源であって、その思想は、パリサイ人トーラー以上に信奉した口承律法の基礎でもありました。公教育は民を変えるための鍵であるというギリシャ思想の原理を、パリサイ派はそっくり踏襲しました。それは、シナゴークによって民をトーラーや神に近づけるためです。人々はそこで自分のなすべき事を逐一教わって、家や町や店、市場で、敬虔を徹底する運動が事あるごとに規定されてしまい、こうして律法は心や霊が置き去りにされたまま、精神の独占物となりました。

 皮肉なことに、当時のユダヤ人たちはバビロン補囚の原因となった偶像崇拝とはすっかり縁を切っていましたが、今度はもっと狡猾で魅力的な新しい形の偶像礼拝を作り始めました。彼らは本当のイスラエルの神に心を向ける代わりに、律法を礼拝し始めています。トーラーが不自然なまでの崇敬を受けて、それに対する従順がますます厳格な礼拝形態を形成しています。


律法学者とパリサイ人が新たな偶像の大祭司であり、彼らはエホバの真実の僕と自称しましたが、実態はバアルの祭司たちのように霊的な力に欠けていました。


 彼らは一丸となってキリストに敵対しましたが、何度も手ひどい批判を受けています。イザヤが遥か昔に預言したように、彼らは唇を持って神に近づきましたが、心は遠く離れていました(イザヤ29章13節、マタイ15章7〜9節)。

 ローマのポンペイウスがパレスチナを獲得すると、彼はすでに力を失っていたハスモン一族の一人を王に任じました。このハスモン王の助言者が、ユダヤ人に嫌われていたイドマヤ人アンティパテルという名の人でしたが、彼はすぐさまローマに取り入って、傀儡のユダヤ人の王から権力を奪いました。アンティパテルは、東方から絶えずローマを脅かす外敵パルテヤ人との戦いでローマを援助することによって自分の勢力を固めています。その報奨として、息子をユダの王にする権限を認められました。こうして、ユダヤ史に深い影響を残して、イエス暗殺を初めて企んだ者として名を知られるヘロデ大王が登場します。

 ヘロデは多くの理由でユダヤ人に憎まれていました。恐らくヘロデはユダヤ教には改宗しましたが、正統なユダヤ人ではなかったということも大きな理由のひとつでしょう。ヘロデは国の統治者としては有能でしたが、野蛮で不道徳な人物として知られていました。ローマ人は何かと問題の多い地方の統治をヘロデに委ねることことを喜びとして、ヘロデもローマには徹頭徹尾忠誠を尽くしています。ヘロデはギリシャ・ローマ文化の大支援者で、それを再びユダに持ちこみ、彼はギリシャの化の一環として大建築計画を実行し、その費用をすべて民衆の重税で賄っていました。

 ユダヤ人たちは自分たちの金銭で要塞や体育場や異教の神殿が建つのを見ましたが、ヘロデは民をなだめ、また概して自分に好意的なサドカイ人の地位と力を高めようとして、神殿の敷地に精巧な拡張計画を立てて、それはやがては古代世界の不思議の一つともなっています。この建築計画はキリストの時代にもまだ進行中でした。ローマの支配下で、限られてはいましたがユダヤ人には自治権が与えられており、そのささやかな自治権は昔から71人の男性で構成されて、大祭司によって管理されている宗教、政治の議会であるサンヒドリンに集中しました。

 この議会は、紀元前100年頃までユダヤ人の生活を取り仕きった長老たちの最高議会の名残りであって、それはハスモン家の下で幾分弱体化していましたが、王たちに仕える全ギリシャ評議会の名称を意味するサンヒドリンという名称を与えられています。ヘロデ大王はキリストの誕生後間もなく死に、ローマは国をヘロデの3人の息子に分割しました。ピリポはガリラヤの北と東、ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレア、アケラオはユダ、サマリヤ、イドマヤを治めています。ユダヤ人は紀元6年に、極端な圧政を行ったアケラオの更迭に成功して、領土はヘロデ・アンティパスに与えられました。




ヘロデとゼロデ党(熱心党)


 新約聖書に出てくるもう二つのグループが、新旧約聖書の間に出現しています。一つはヘロデ・アンティパスの統治を喜び、彼の支持を民に訴えるユダヤ人グループで、ヘロデ党と呼ばれており、この党はヘロデ・アンティパスの勢力伸長をを当時流布中のメシア思想の成就だとして、その考えを説いて、自分たちの計画を邪魔立てしそうな人々と争いました。この政党が宗教の党派であるパリサイ派と組んで、救い主を自分たちの政策の邪魔者と見て、イエスに反対しています(マタイ22章16節)。

 ヘロデ党と逆の立場に立ったのがゼロデ党です。この党は紀元6年に、ローマの課税に反対してガリラヤのユダを頭に結成されました。この反抗者たちは異邦人の支配と影響を嫌って、ユダの独立を求めるという点でマカベア家の精神を幾らか受け継いでいますが、彼らが理想としたのはマカベアではなく、ピハネス(民数記25章7〜13節)でした。ピハネスは、荒れ野で臆面もなく神の律法を破ってイスラエル全家の安全を脅かした男女を殺しています。この時神は、律法を守護したピハネスの「熱心」を褒めており、それゆえにゼロデ党はローマ転覆のための暴力は正しいと理由づけました。

 彼らは外套の下に短剣を忍ばせて群集に混じることがあったので、ローマ人は彼らを、ラテン後の短刀を意味する語からシカリと呼んでいます。ゼロデ党は親ローマで知られた人々や、時には直接ローマ人を暗殺していて、彼らは暴力的ではありましたが、ローマを倒してこそ神の王国が来るという考え方を基盤に自分たちを正当化する姿は、実に宗教的です。その呼び名が、モーセの律法に極めて熱心なことを示しています。紀元6年の最初の暴動はローマによって鎮圧されましたが、その後ゼロデ党の残党が砂漠に逃れて、キリストの時代にゲリラ戦法でローマを悩ましました。キリストの死後、ローマに対する謀反の先頭に立ったのは、おもに彼らでしたが、それはやがて紀元70年のエルサレム滅亡という結果につながっていきました。




新約の時代へ


 400年間、諸天は沈黙して、マラキ以降イスラエルに預言者はいませんでした。礼拝は中断しましたが、神殿の祭式はこの時代の大半を通じて。続いています。祭司たちは祭壇に正しい犠牲を捧げて、祭司が聖所の祭壇に香を焚く一方、民は毎日祈りを続け、啓示はやんでしまいましたが、外的な儀式は継続しています。ある日、ザカリヤという名の祭司が努めを終えた後、聖所からなかなか出て来ず、民は不思議に思い始めました。それは当然であって、再び幕が上がり、神の言葉が告げられます。アビヤの組の祭司である年老いた謙遜なザカリヤが、天使の訪れを受けました。


そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。(ヨハネ1章13節)


彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう。(ヨハネ1章17節)


 待望のその子は、神の王国が近いことを宣べ伝えるために、エリヤの霊と力を持って出で行く使者となる子です。彼によりイスラエルは今一度聖約と約束を受けることができ、鍵と力が再び託されて、再びエホバの国となります。道を備えに来たものはヨハネヘブライ語で「神は恵み深い」という意味の、ヨハナンという名で呼ばれました。イスラエルに再び預言者が遣わされて、しかも今度はその預言者がエホバについて告げ始めます。彼は、エホバが神の御子として、またユダの長らく待ち望んだメシアとして降誕するために道を備える預言者、先駆者となります。

 かくして「旧約聖書」すなわち古い聖約は終わりを迎えて、「新約聖書」すなわち新しい聖約が始まりました。



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