4福音書概略 旧約から新約への歴史的背景 祈り


パウロの手紙 偽造された聖書
悪霊の教え ハルマゲドンの戦い キリストの再臨
背教 イエス・キリストの生涯と業


マタイによる福音書 マルコによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
使徒行伝 ローマ人への手紙 コリント人への第一の手紙 コリント人への第二の手紙
ガラテヤ人への手紙 エペソ人への手紙 ピリピ人への手紙 コロサイ人への手紙
テサロニケ人へ第一の手紙 テサロニケ人へ第二の手紙 テモテへの第一の手紙 テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙 ピレモンへの手紙 ヘブル人への手紙 ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙 ペテロの第二の手紙 ヨハネの第一の手紙 ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙 ユダの手紙 ヨハネの黙示録

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2008/ 1/20  祈り UP
2000/ 9/ 8  旧約から新約への歴史的背景 UP
2000/ 9/ 6  序文追加、4福音書概略 UP
1999/ 2/20  序文追加


 新約聖書はイエス・キリスト使徒、キリストに従ったその他の人々の生涯と働きについて、霊感によって書かれた記録を集めたものとしてギリシャ語で書かれました。新約聖書は一般的に、福音書、使徒行伝、パウロの手紙、その他の手紙、黙示録に分類されています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書はキリストの生涯についての記録です。使徒行伝は教会の歴史と使徒たちの働きについて、特にキリストが死んでから後のパウロの伝道の旅について記録しています。パウロの手紙は、教会の指導者や会員に教えを授けるためのもので、その他の手紙は他の使徒たちによって書かれており、初期の聖徒たちに新たな勧告を与えています。使徒ヨハネによって書かれた黙示録は、おもに終わりの時に関する預言を記録しています。



 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書にはふたつの系図があります。マタイにあるものは、ダビデの王位の正当の継承者を列挙したものであって、必ずしも父から子という系譜ではありません。というのは、王家の系譜に多く見られるように、最年長の生存する相続者が孫、曾孫、あるいは甥、または君主と親戚関係にある人物であることさえあるからです。

 これに対してルカの記術は、ヨセフからダビデ王への親子関係に基づく系図であり、聖書学的に見るとヨセフはイエスの本当の父親ではありませんが、しかしマリヤはヨセフの従妹であるので、結局のところ同じ血統を属することになります。これによりイエスは、母マリヤからダビデの血統を受け継ぐことになり、従ってダビテの王位をイエス自身が王位を継承する権利を持っていたことになり、この事実は意外と知られてはいません。この時、もしユダヤが自由独立の国家であって正統の君主によって統治されていたなら、大工のヨセフは王冠をいだいてユダの国王になっていたにちがいなく、その後を継ぐ合法的な後継者はユダヤ人の王、ナザレのイエスであるということになります。



 四福音書をはじめ、古代の使徒の手になる各書、書簡等には、現在の人々にとってわかりにくいところがあります。ペテロはパウロの書に対して、「ところどころ、わかりにくい箇所もあって(第2ペテロ3章16節)」と語っています。これは新約聖書の他の書にも言えることです。そのわかりにくさの原因としては、原本の誤写、改変、現代語とは異なる古代の言語、教義もしくは歴史、地理上の背景についての理解の欠如などが考えられます。このHPの目的は、そのようなわかりにくさを少しでも解消しようとするものです。新約聖書における基本的背景として、イエスが説いた世界、また古代の教会が設立されたのはギリシャ、ローマ、ユダヤの世界であることを認識しておきましょう。


 聖書の翻訳は数多くありますが、その中のどれを用いたらよいかということについて、色々な意見があります。言葉の美しさ、霊的な深み、さらにはおそらく翻訳者が入手し得た写本に忠実な翻訳をしているという点で「欽定訳(ジェームズ王訳)」が優れていると言われています。しかし、このHPでは発行部数の多い「日本聖書協会 1954年訳」を使用しています。欽定訳が翻訳として完全なものということではないとして、ある教会指導者は次のように述べました。


 「聖書が授けたもう賜の一つである翻訳の賜によって成らなかったならば、聖書やその他の聖典の絶対信頼できる翻訳があるはずはない。またこれからもないに違いない。予言者の言葉を別の国語に翻訳しようと思ったなら、翻訳者は予言者の精神を持たなくてはならぬ。しかし、人間の知恵だけではその精神を持つようにはなれない。そこで聖書は尊敬の念と信仰深い注意を以って読み、読む者は真理と人間の誤りとを見分けられるよう、『みたま』の光を常に求めるべきてある。」

 以下の聖句は新約聖書を理解する上での、指針となるものです。



ヨハネによる福音書 第7章16〜17節

16節 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教えはわたし自身の教ではなく、
わたしをつかわされたかたの教えである。
17節 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが神
からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。


この部分が人々を永遠の存在に関する知識を取り出せる聖句と言われています。人がこの教えの通りにするなら、真理を知り、イエス・キリストが神の御子、人類の長子、世の贖い主であることを知ることができるとされています。



ヨハネの第一の手紙 第2章3〜5節

3節 もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。
4節 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人の
うちにない。
5節 しかし、彼の御言葉を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。
それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。


 これらの聖句も永遠の生命の奥義を解く鍵です。すべての人が律法を守り、聖霊の導きを受けることによって真理を知ることができると言われています。ということは、律法についての明言を避けたり、意図的に守らないように指導するキリスト教は、本当のキリスト教ではないことになります。


テモテへの第二の手紙 第2章15節

15節 あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない練達した働き人になって、
神に自分をささげるように努めなさい。


 この部分からは、聖書を学ぶ理由をふたつ見出すことができます。すなわち @賞賛を得るということのためだけでなく、神の前に良しとされる人になれる。A聖書を学ぶ者として真理や真実を知り、それを実生活に活用できる者となれる、ということです。聖書をよりよく理解するためには、聖書は次の事を教えています。


常に祈る気持ちで読む。
神の戒めを守る努力、又は気持ちを起す。



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4福音書概略


 この4つの福音書は、神自身に対する証だけでなく、イエス・キリストの福音に対してもそれぞれ独自の証を述べています。しかし、それはひとつの究極の目的に統合されます。例えば、ヨハネの言葉に代表されるものです。


「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、
また、そう信じてイエスの名によって命を得るためである(ヨハネ20章31節)」


 4福音書には共通している部分が多くありますが、各著者ともに他の福音書には見られないものも記録してあり、またキリストに対する証の仕方も、わずかに異なっています。マタイ、マルコ、ルカはそれぞれ異なった人々に向けて書かれたにもかかわらず、対象への取り組み方がよく似ていて、この3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれます。この「共観(synoptic)」という言葉は「同じ観点から見た」という意味を持つギリシャ語に由来しています。ヨハネが記録した出来事や彼の視点は他の3人とは際立って異なっていますが、しかしそこに含まれている歴史上の事実は他の福音書と共通したものです。



マタイによる福音書


 マタイによる福音書の特色は、旧約聖書の予言をイエスの生涯がいかに成就しているかを強調している点と、イエス自身の重要な説教を載せているという点です。この説教の例としては、山上の垂訓(5〜7章)、天国についてのたとえ話(13章)、律法学者とパリサイ人を批判した長い説教(23章)が挙げられます。マタイはイエスをイスラエルの王、裁き人として、また偉大な権威と権能を持つ教師として描いています。このマタイの福音書は特にユダヤ人の読者に大きな影響を与えたと言われています。


マルコによる福音書


 この福音書は、4福音書の中でも最も短く、動きに富んでいて、神の奇跡を行う力に強調をおいています。その大胆な筆致から見て、この福音書の著者はローマ人の読者を念頭においていたのではないかと推察する学者が多いようです。マルコはキリストの死後、ペテロと行動を共にしていたと思われ、それゆえにマルコの語り口にはペテロの影響が見られています。


ルカによる福音書


 ルカの場合は、当時のギリシャ人に向けて書いたと考える人が多いようです。それはギリシャ語が洗練されたもので、しかもキリストに対する愛がにじみ出ているからでしょう。ルカの福音書の特徴は赦しと愛であると言われます。例えば、放蕩息子の話といったルカにしかないたとえ話を通して、罪人がキリストに安らぎを見出すことができることを述べています。またルカは、キリストの行った業にあって、女性がどのような役割を果たしたかを語っています。天使がザカリヤに、そしてバプテスマのヨハネの母にあたるエリサベツに現れたことを書いているのはルカだけであり、マリヤとヨセフのベツレヘムへの旅、それにイエスの実際の誕生の様子を記したのもルカだけとなっています。


ヨハネによる福音書


 ヨハネの場合は、イエスの姿を天使や12使徒との関係という点を強調しながら、さらに克明に描写していますが、この福音書の目的はただ単にキリストがどこで何をしたかというような歴史上の事実を述べるというよりも、イエスがキリスト(救い主)であることを証することにあったと思われますが残した記録は、イエスが神の御子であり、メシアであり、よき羊飼いであり、道、真理、命であって、復活と生命であることを力強く証しているのが特徴です。



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旧約から新約への歴史的背景


 イエスの時代のパレスチナについて広く研究することを目的とするならば、それなりに大学や公共の図書館で参考書を探すことができます。そのためここでは、マラキからキリストまでの約400年にわたる時代の状況を概説することにします。


 しばしば聖地と呼ばれるパレスチナは、旧約の神(キリスト)がアブラハムに対して、またイサク、ヤコブをはじめとするアブラハムの子孫に対して、受け継ぎとして与えられた地です。そしてそれは、特別な契約の民として忠実に仕えることが条件として与えられていました。しかし、背教と抗争のためにイスラエルの家は四散してしまい、10氏族は北方の国々に紀元前722年頃補囚されます。同じくユダの国も紀元前587年にバビロンへ補囚の身となりましたが、その一部は紀元前530年に帰還しました。マラキがその書を書いたのは紀元前400年頃で、その頃カナンの地にいたのはおもにユダの支族を中心とするイスラエルの残りの子孫であって、異邦人の支族や、背教して他の支族に混交したヘブル人たちに取り囲まれていました。


 それから数百年後、新たな権力者が歴史の舞台に登場してきます。それはマケドニアの王フィリップ2世の息子、アレクサンドロスです。彼はギリシャの都市国家の結集を図った父王の意志を受け継ぎ、また軍隊を持ってペルシャやシリア、エジプト、バビロニア、その他の周辺諸国を征服して、新しい帝国を築き上げました。新約聖書の出来事は、大半がその領域内で起ったことです。その時ユダヤ人の多くは、異邦人の侵略によってもたらされた生活様式の変化に怒りを覚えることになります。


 しかしアレクサンドロスの死後、彼が後継者を残さなかったため、帝国は指導者たちに分割されました。エジプトとシリア南部がプトレマイオスに、シリア北部とバビロニア西部の広い地域がアンティノゴスに、それぞれ分けられました。その後、セレウコス1世がアンティノゴスの王位を奪っています。このようにして、戦略上重要な地域であるパレスチナの攻防があり、ユダヤ人の支配が頻繁に交代することとなります。ユダヤ人はこれらの政治上の混乱に苦しめられただけでなく、彼ら自身にも不和不一致が見られています。そのためある人々は、当時広く知られるようになったギリシャ文化を取り入れて、社会不安を解消しようと試みました。しかし一方で、どのような代価を払ってでも、ユダヤ人の独自性と独立を保とうとする動きもあります。その結果、ユダヤ民族の中に分裂が生じることとなりました。


 アレクサンドロスの死後(紀元前200年頃)、パレスチナを統治したのはシリアでした。アンティオコス4世(エピファネス)は、エジプトからの撤退を不満に思ったのか、エルサレムに戻ると、ユダヤ人に自分の王国の宗教慣習に従うようにと強要しました。そして、ユダヤ教が完全に廃止され、モーセの5書と言われるトーラーの所有者だけでなく、これを読む者も死罪に処されるという蛮行が横行しています。その他にも、安息日の遵守や割礼も禁止され、多くの人がそれらを守ろうとして殺されました。また、奴隷として売られた人々も数多くいます。その偽りの神のために豚がいけにえとして捧げられており、これらの極悪非道な行為は、ユダヤ人を困惑させ、彼らの宗教を汚し、ユダヤの律法の遵守を妨げようとするものでした。

 しかし、神は契約の民を見捨てず、ユダヤ人と彼らの宗教は、奇跡的な方法で救われています。


この圧政者らに対抗して立ったのがマカベア家です。


 このユダヤ人の家族は、人々を率いて、やがてシリア人を追い払うことに成功しました。こうしてユダヤ人は表面上、紀元前163〜63年の約100年の間、独立を享受することができました。このように、シリア人のもたらしたギリシャ化の圧力が、国々に燦爛したユダヤ人を、独自の伝統を守る集団に仕立てていったように思われます。しかし、政治的な混乱が原因でマカベア家の指導力が低下した時、異邦人の帝国ローマが、政治的策略をもってパレスチナを支配するようになります。そして間もなく、無慈悲な野心家たちを王にすることにより、ユダヤ人国家を治めました。


 父アンティパルの後を継いだヘロデ大王は、異邦人の血統を持つイドマヤ人で、際立った権力者であり、権力を維持するために多くの人の血を流しています。彼は自分の妻や子供たちの命さえも惜しいとは思っていませんでした。イエスが生まれて間もなく、ベツレヘムにおけるユダヤ人の子供たちの大虐殺を命じたのもヘロデ大王です。彼の死後、パレスチナの領土は3つに分けられています。それらは、キリストが導きと教えと恵みを施していた当時、次の人々により治められていました。


ヘロデ・ピリポ イツリヤとガリラヤ北東部 ヘロデ大王の息子で、寛大な支配者であったと言われて
います。
ポンテオ・ピラト ユダヤ、サマリヤ、イドマヤ イエスの裁判に関係しています。
ヘロデ・アンティパス ガリラヤとペレア ヘロデ大王のもう一人の息子で、イエスの裁判に関係し、
バプテスマのヨハネを投獄して処刑しています。


 この時期に様々な出来事があり、ユダヤ人の多くは、予言されていたメシアの訪れを待ち望むようになってきました。彼らは力強い救い主の手によらなければ、国の将来に希望はないと考えていました。新約の各書にあるように、


エホバはキリストとして、ユダヤ国家のみならず全世界に救いをもたらすために、
イエスという人間となり、この世に降臨したということです。



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祈り


 私が思う祈りとは、どんな人でも行うものだと感じています。宗教に感心を持たない人でも、人生の困難に遭遇すると誰に言うというわけでもなく自分の思いを熱烈に思い巡らし、ある人は神社に、またある人はお寺に、ある人は祈祷師にあるいは新興宗教の神に自分の思いや考えが現実になるよう、「祈り求め」ます。これらのある程度形となった神に願わない人でも、「このようになってほしい、あのようになってほしい」と熱烈に心の中で叫んだりしています。実のところこれも「祈り」の類と考えてよいのではないでしょうか。

 以下はある教会役員が公の場で祈りについての見解を述べたものです。既に祈るべき対象を知っている人も知らない人も、人が神と交流を図ることのできる「祈り」とはどのようなものか、考えてみるとよいでしょう。


 「祈りという賜物

 祈りは天の御父からわたしたち一人一人への、この上ない贈り物です。考えてみてください。絶対で至高の存在であり全知全能の御方が、取るに足りないわたしたちに、御父として話しかけるよう励ましてくださっているのです。実際、わたしたちには御父の導きが何としても必要であることを御存じなので、「あなたは心の中で祈るだけでなく,声にも出して祈りなさい。隠れて祈るだけでなく,世の人々の前でも祈り,ひそかに祈るだけでなく,公にも祈りなさい」1 とお命じになっているのです。

 状況にかかわらず,また謙虚であろうと尊大であろうと,貧富の差や学問の有無,自由の身かとらわれの身かにも関係なく,愛情を受けて育ったか否かにもかかわらず,わたしたちは神に語りかけることができるのです。事前に予約を入れる必要もありません。願いの言葉は,簡潔なものでも,必要なだけ時間をかけたものでもかまいません。愛や感謝を伝える祈りでも,必死に助けを願い求める祈りでもよいのです。神は数え切れないほどの宇宙を創造し,それらの世界に人を送ってこられました。にもかかわらず,皆さんやわたしは御父と直接話をすることができ,御父は常にこたえてくださるのです。

 どのように祈るべきか

 わたしたちは天の御父の愛するイエス・キリストの聖なる御名により祈ります。ふさわしい動機をもって,清く従順になろうと努めるとき,そして進んで御父の望まれるように行おうとするとき,祈りは効力を最大限に発揮します。謙虚に,そして神を信頼して祈るなら,指示と平安がもたらされます。天の御父に気持ちを上手に伝えられないのでは,と心配する必要はありません。哀れみと思いやりに満ちた御父にただ話しかければよいのです。皆さんは御父の大切な子供であり,御父は皆さんをこの上なく愛し,助けたいと思っておられます。祈りながら,天の御父が近くにいて耳を傾けておられることを心で感じてください。

 よりよい祈りへの鍵かぎは,正しい質問ができるようになることです。欲しいものを願う祈りから,御父が自分に望んでおられることは何かを誠実に求める祈りへと変えてみてはどうでしょうか。御み心こころが分かったら,次に,御心を行う強さを得られるよう祈ってください。御父との間に距離を感じたことがあるとすれば,それには多くの原因が考えられます。原因が何であれ,助けを嘆願し続ければ,御父が近くにおられるという確信を取り戻すためにするべきことを,御父は教えてくださるでしょう。祈る気持ちになれないときでも祈ってください。時には誤った振る舞いをしてしまい,子供のように,問題のあるままでは御父に近づけない,と感じることもあるでしょう。そういうときこそ祈る必要があります。ふさわしくないから祈れないなどとは決して思わないでください。

 急を要する,どうしようもない問題に直面し,解決する力が自分にはないと気づいて初めて,計り知れない祈りの力を真に理解することがあります。そのようになると,自分がまったく御父に依存していることを謙虚に認め,御父に頼るようになります。そんなとき,必要なだけ長く,そして熱心に気持ちを言葉に出せるよう,独りになれる場所があれば助けになります。わたしもそのようにしたことがあります。とても不安に駆られる経験をしたときのことです。不従順や背罪とは関係のないことですが,非常に大切な人間関係にかかわることでした。しばらくの間,わたしは心を注ぎ出すように熱烈に祈りました。しかしどんなに努力しても解決方法は見つからず,かき乱された心が平安を取り戻すことはありませんでした。

 わたしは御父に,すなわち自分が知るようになり,完全に信頼するようになった永遠の御父にひたすら助けを請い求めました。それでも心に平安を与えてくれる道はなかなか見いだせませんでした。その平安こそ,いつもなら享受している祝福でした。そのうちにわたしは,睡魔に負けて眠ってしまいました。すると目覚めたとき,平安に包まれていたのです。再びわたしはひざまずいて厳かな祈りをささげ,「主よ,どうしてこのようにされたのですか」と尋ねました。そしてその答えは,御父のわたしへの愛と思いやりであったことを悟りました。これが哀れみ深い御父にささげる心からの祈りの力なのです。わたしはヒンクレー大管長が集会で祈りをささげるのに耳を傾けることで,祈りについて多くを学んできました。

 皆さんも,2001年10月,御父の世界中の子供たちに向けて開かれた大会で大管長がささげた閉会の祈りを注意深く研究すれば,大管長から学ぶことができます。大管長は準備された原稿を読んだのではなく,心からの祈りをささげました。(大管長のこの祈りをメッセージの最後に掲載しますので,参照してください。)その祈りを研究すれば,時折見受けられる無益な繰り返しも,人にいいところを見せようという態度もまったくないことに気づくでしょう。大管長は簡単な言葉をつなげて,力強く祈っているのです。そして愛する天の御父をよく知る,謙虚で信じて疑わない息子として祈っています。

 御父の答えは最も必要なときに与えられるということに絶大な信頼を置いています。祈るときはいつも,目的に沿った言葉を用い,何を解決したいのかをはっきり述べ,自分が認識している具体的な祝福に対して十分な感謝を表すべきです。大管長が飾ることなく述べた祈りは,丹念に磨かれた宝石のようであり,長年祈りが生活の中で欠かせない位置を占めてきたことを静かに証しています。

 祈りはどのようにこたえられるか

 祈りはどのようにこたえられるか,ということに関する真理は,皆さんの助けになるかもしれません。重大な事柄への助けを求めて祈る際,天の御父はよく,穏やかな促しを与えてくださいます。そのような促しはわたしたちに,考え,信仰を働かせ,取り組み,時には苦しみ,そして行動することを求めます。それは,わたしたちが霊感された答えを識別できるようにする,順を追ったプロセスなのです。時折,主から答えを受けるうえで乗り越えられない障害のように思える状況に遭遇します。しかしそのような状況は,主を信頼して踏み出す大きな一歩となることに,わたしは気づきました。

 答えを全部すぐに与えられることはめったにありません。わたしたちが成長して力を増し加えられるよう,一度に少しずつ与えられるのです。一つ一つの答えも信仰があってこそ得られるもので,少しずつ導かれて,ついには,全部の答えを得るに至るのです。この手順を踏むには,御父がこたえてくださるという信仰を働かせることが求められます。この手順がとても難しいときもありますが,結果として大きく成長することができるのです。御父はいつでも皆さんの祈りを聞いてくださり,常にこたえてくださいます。しかしひざまずいて祈っている間に答えを受けることはめったにありません。たとえ今すぐに答えが欲しいと懇願していてもです。

 むしろ御父は,御霊が皆さんの思いと心に最も効果的に影響を及ぼせる静かな時間に導きを与えてくださいます。そのため,指示を受け,力を得ていることを認識できる静かな時間を意識して作る必要があります。そうすれば御父の方法により皆さんは成長することができます。デビッド・O・マッケイ大管長はこのように証しています。「祈りの答えは必ずしも直接的でなく,望んでいるときに,期待しているような方法で与えられるとは限らないことは確かです。けれども,答えは必ずやって来ます。願い求める人にとって最も良い時と方法で与えられます。

 ですから,答えを得るまでの長い間,時折神が皆さんを苦しむままにしておかれることに感謝しましょう。皆さんの人格が培われ,信仰が増すのです。この二つの事柄には相関関係があります。つまり信仰が増せば増すほど,人格が培われます。そして人格が培われると,より大きな信仰を働かせることができるようになるのです。時折,主は皆さんが尋ねる前に答えを下さることがあります。このようなことは,皆さんが危険に気づかないときや,間違ったことをしているのに正しいことをしていると思いこんでいるときに起こり得ます。強く望んでいることについて心から祈っていて,思いどおりの答えが返ってこないときは,とてもつらいものです。従順な生活を送り,大きな信仰を心から働かせたのに,どうして望んでいた結果が得られなかったのかを理解するのは難しいものです。

 救い主はこのように教えられました。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるもので,あなたがたにとって必要なものは何でも,与えられるであろう。」 長い目で見ると何が最良なのか,何が必要なのか見分けるのが難しいときがあります。しかし,神が皆さんの生涯で行われることは永遠の観点から見て皆さんのためになるということを受け入れると,人生が楽になります。皆さんは自分の祈りに対する答えを求めるように言われています。 「心の中でそれをよく思い計〔る〕」 ようにという主の勧めに従ってください。自分で解決策を考え,出した答えが正しいか確認を求めるときに,助けが与えられることが往々にしてあります。

 それは祈りを通して,または聖霊の影響として与えられる場合もあり,時にはほかの人がかかわって与えられることもあります。オリバー・カウドリに与えられた祈りについての導きは,皆さんにも役立つでしょう。「見よ,……あなたはわたしに求めさえすれば,何も考えなくてもわたしから与えられると思ってきた。……あなたは心の中でそれをよく思い計り,その後,それが正しいかどうかわたしに尋ね〔なさい。〕もしそれが正しければ,……あなたの胸〔は〕内から燃〔えるであろう。〕それゆえ,あなたはそれが正しいと感じるであろう。」答えは,確信が伴う感情として与えられます。

 救い主は二つある回路を明確にしておられます。「聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」思いと心への答えは,聖霊からわたしたちの霊へのメッセージです。わたしにとって思いへの答えとは,明確に語られた言葉のようにとても具体的なものですが,心への答えは少し漠然としていて,例えば「もっと祈りたい」という気持ちとなって表れます。さらに主は,このように明確にしておられます。「しかし〔もしあなたが提案したことが〕正しくなければ,……思いが鈍くな〔る。〕」 わたしにとってそれは落ち着かない,不安な気持ちのことです。オリバー・カウドリは肯定的な答えが与えられる別の方法を教わりました。「わたしはこの件についてあなたの心に平安を告げなかったであろうか。」

 平安な気持ちは確認の証であり,わたしが個人的に経験する中で最もよく受けるものです。ある重要なことでとても心を悩まし,解決しようともがいてもうまくいかなかったとき,わたしは信仰をもって努力を続けました。後に御父が約束されたように,平安に満たされ,わたしの問題は解決しました。聖文に記された効果的な祈りの原則を理解すれば,祈りに関する誤解は幾らか解けるでしょう。しかし,それらの原則をもってしても,答えがいつ与えられるかは確定できません。

 実際,御父は三つの方法のうちから一つの方法でこたえてくださいます。一つ目の方法として,自分の決断が正しいという確認を与える平安と慰め,確信を感じることができます。あるいは二つ目の方法として,気持ちが落ち着かず,思いが鈍くなれば,自分の選択が間違っていることが分かります。または三つ目ですが,これは難しい方法です。答えを感じられないという方法です。入念に準備し,熱心に祈り,答えを受けるのに妥当なだけの間待ったのに,それでも答えを感じられない場合,皆さんはどうしますか。そのような場合,それは御父の信頼の証であるため,感謝した方がよいかもしれません。

 ふさわしい生活を送っており,その選択が救い主の教えと一致していて,そして行動を起こさなければならないのであれば,信頼を胸に前進してください。御霊の促しに敏感であれば,二つのうちのいずれかが必ず適切なときに起こります。つまり思いが鈍って不適切な選択であったことが示唆されるか,平安を感じたり胸の内が燃えたりするのを感じ,選択が正しかったことが確認されます。皆さんが義にかなった生活を送っていて,神を信頼して行動しているならば,間違った決定をしている場合,神は警告的な気持ちを与えないまま,皆さんが進みすぎてしまうのを黙って見ているようなことはされません。

 祈りという賜物に対する感謝

 祈りの大切な側面は感謝です。イエスはこう宣言されました。「すべてのことの中に神の手を認めない者と,神の戒めに従わない者のほかに,人はどのようなことについても神を怒らせることはない……。」祈りという比類ない賜物とそこから得られる無限の祝福についてよく考えると,真の喜びがわたしたちの思いと心を満たし,感謝でいっぱいになります。ですから,わたしたちは絶えず心から,力を尽くして,愛する御父に絶えることのない感謝を伝えるべきではないでしょうか。祈りという至高の贈り物を下さったことへの感謝,そしてわたしたちを成長させ,必要に最も合った答えを下さることへの感謝をささげるのです。御父がいつでも皆さんの祈りに対して,永遠の観点から見て最良の方法で最良の時期にこたえてくださることを証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。」 
2007年3月31日 末日生徒イエス・キリスト教会 十二使徒定員会 リチャード・G・スコット長老


 大管長の祈り

 「永遠の父なる神よ,あなたは大いなる万国の裁き主,宇宙の統治者であり,わたしたちの御父にして神であられます。わたしたちはあなたの子どもであり,この暗い厳粛な時に当たり,信仰をもってあなたに心を向けています。愛する御父よ,どうかわたしたちが信仰を持てるように祝福してください。愛を持てるように,心の中に慈愛を持てるように祝福してください。この世にある恐ろしい悪をなくすため,忍耐の精神を持てるように祝福してください。現在戦いに従事している人々に保護と導きをお与えください。彼らを祝福し,命を守り,危害と悪から救ってください。彼らの愛する者たちの安全を求める祈りをお聞きください。

 わたしたちは世界の偉大な民主主義のために祈ります。その政府の創設はあなたが見守ってくださったものであり,そこには平和と自由,そして民主的なプロセスが存在しています。御父よ,助けを必要とするこの時期にあって,わたしたち自身の国家とその友を憐あわれみの目で御覧ください。わたしたちの命を守り,あなたとあなたの愛される御子を信じる信仰をもって歩めますように助けてください。わたしたちは御子の憐れみに頼り,わたしたちの主なる救い主としてあがめています。平和の業を祝福し,再び速やかに平和を回復してください。わたしたちはへりくだって請い求めます。

 どうか,わたしたちの傲慢さを赦ゆるし,罪を見過ごし,親切と寛大さをもってお計らいくださいますように,また人々の心をあなたに向けさせてくださいますように。わたしたちすべてを愛しておられる御方,すなわち主イエス・キリスト,わたしたちの贖あがない主,救い主の御名によってへりくだりお祈りします。アーメン。」 
2002年10月 末日生徒イエス・キリスト教会 ゴードン・B・ヒンクレー大館長



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