ヨハネの黙示録 第4〜6章研究解読



第4章4節 第4章6節 第4章8節
第5章1節 第5章13節
第6章1〜2節 第6章3〜4節 第6章5節 第6章6節 第6章7〜8節 第6章12〜17節



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1999/ 3/19  第6章5節、6節、7〜8節、12〜17節 UP
1999/ 3/18  第4章4節、6節、8節、第5章13節、第6章1〜2節、第6章3〜4節 UP
1999/ 3/17  第5章1節 UP


 約2千年前のある日曜日、流刑の地であるパトモス島で使徒であるヨハネは、将来についての奇しき示現を見ました。彼は、復活したキリストの命に従い、神よりの啓示を数多く記しました。この世紀末に生きている人々は、このヨハネのおかげで示現を学ぶことができるというわけです。ヨハネはその日パトモス島で経験したことをできるだけ後世の読者にも経験してもらいたいと思っていたことでしょう。ヨハネの記録には次のような言葉が多く見られます。「わたしは聞いた」「わたしは見た」「わたしは御霊に感じた」「わたしは泣いた」「わたしは足もとに倒れた」。

 ヨハネは自分が目にし、耳にし、感じた事柄をこれを読む人々にも同様に感じてもらいたいと思っていることでしょう。ヨハネは天のまばゆい輝き、ハレルヤの歓声、悪人の裁きの恐ろしさ、王国の勝利などについて極めて詳細に告げており、黙示録を研究する人々にその経験を分かち合っています。

 はたして、黙示録を読む人にヨハネの語っている事が行えるでしょうか。その人は差し出された手を受け止め、ヨハネを導き手として奇しき道を共に歩めるでしょうか。心に語りかけるヨハネの声に耳を傾けるでしょうか。実際に、ヨハネが見た数々の出来事を示現のうちに見た時は、それは遠い将来のことでした。しかし、今黙示録を読む人々にとってその出来事は現在の事であり、実際に起きている事実です。もしこの黙示録をヨハネが感じたように感じ、ヨハネが示現の中で見たことを現在自分の目で確かめ、ヨハネが聞いた事を聞く時に、現在の出来事やすぐにも起きる出来事に冷静に対処することができることでしょう。






第4章4節

4節 また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。


 ヨハネの見たこれらの24人の長老(神の権能を保持している)たちは、神に対する奉仕の業に忠実であって、すでに肉体から離れた人々であると考えられます。彼らは以前には、7つの教会に属していて、亡くなったときには神のパラダイスにいました。




第4章6節

6節 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後ろにも、一面に目がついていた。


 この「ガラスの海」とは、後に清められた、日の光栄の状態にある「地球」であると見ています。4つの生き物とは、ヨハネが神のパラダイスである天や、人や獣や鳥などの幸福の状態を描写するのに使われている比喩的な表現方法です。つまり、「霊のものはこの世における肉体そのものの形」であり、人の霊はその体の形であって、また獣の霊や、他の様々な生き物の霊も同様であると言えます。4つの生き物は実際に、4種類の生き物のことであって、それぞれ種類や階級を表しています。これらは、幾つかの種類の生き物が永遠の幸福を享受する時の、それぞれに定められた創造の階級、領域にあたる神の栄光を表現するためにヨハネに示されました。




第4章7節

7節 第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。


 この部分とよく似た箇所が、エゼキエル書1章5〜6節、10節にもあります。




第4章8節

8節 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。


 「目」とは、光と知識の表象であると言え、それらは知識に満ちています。この「翼」の意味は、力の表象であり、動く力や行動する力などを表しています。




第5章1節

1節 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。


 この巻物は、この世の未来に渡る歴史を指し示しています。これらは神が直接その目で見ており、記録の任にあった天使が記したものと言われています。7つの封印に相当する7千年は、大地がその使命を全うする7日間に当たります。すなわち、6日間労働をして7日目は聖めの日として安息に入るという意味です。これらの7日間には、地球の創造の期間と地球を人の住む場所として備えた期間は含まれておらず、この7日間は「この世が存在する期間」、つまり「時」としてのことであって、「永遠」という意味からは区別して考えます。

 それにより、ここで与えられているある程度正確な時の計算の仕方に合わせると、「この世が存在する期間」としてこの地球に与えられた7千年の内すでに4千年はキリストが十字架に架けられる前に過ぎているということになります。そしてその後、2千年が過ぎようとしています。このことから、地球の長い1週間は間もなく終わると思われ、今現在は土曜日の夜に当ります。しかし、これらの解釈は様々であり、真夜中であるという人もいれば、まだ夕方であると言う人もいます。いつ安息日である「日曜日」が来るのかは、再臨するキリストでさえ知らず、ただ神一人だけが知っています(マルコ13章28〜37節、マタイ24章32〜36〜51節)。今という時は、まさに千年の平和である世の安息、「福千年」の夜明けが訪れようとしていると言えるでしょう。




第5章13節

13節 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた。「御座にいますかたと小羊に、さんびと、ほまれと、栄光と権力とが、世々限りなくあるように」。


 この部分は、ヨハネが天における奇妙な有り様をした生き物を見たと考えられます。彼は、天に住むすべての造られたもの、すなわちすべての獣と鳥と魚が実際に天に存在して、神の栄光を帰すのを見たと言えます。これらの生き物は、この地球のような宇宙に無数にある惑星から救われた生き物で、まったく人の思いの及ばない、ヨハネも見たことない珍しいものであったようです。もし天を覗くことができるなら、これらはすべて天で見ることができるはずです。この大いなる奥義が与えられたのは、天に存在するものをヨハネに示すためです。このようにしてヨハネは、神が造ったすべてのものである獣や鳥、魚、人などすべて救うことによって神自身の栄光を神自身が受けたことを学びました。

 ここでの注意点は、これらの真理を受けながら「私は獣、あるいは動物の救いを信じることができない」と考えてしまうことです。
 このような人はいずれ、今は信じていても他の予言者の啓示も否定していくことでしょう。ヨハネは神に栄光を帰す生き物の声を聞き、それを理解しています。生き物を造った神は、それらの生き物が語る言葉を理解することができているようです。この4つの生き物は、彼らの創造の目的を達した最も気高いとさえ言える高貴な生き物であり、おそらく他の世界から救われたものであるようです。というのも、彼らは「完全」であるからです。彼らは彼らの天体における「天使」のような存在ですが、それがどこから来たのかはまだわかりません。しかし、その生き物たちが神を称えて栄光を帰しているのを、確かにヨハネは目にし、耳にしています。




第6章1〜2節

1節 小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。
2節 そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を 与えられて、勝利の上になお勝利を得ようとして出かけた。


 ヨハネはこれらの出来事に関連して、勝利の象徴である白い馬に乗った人を見ています。この人は戦争の武器である弓を持ち征服者の栄誉を表す冠をかぶり、勝利の上に勝利を得ようとして出かけました。封印の七つの意味はそれぞれが千年間を表していて、この封印は第一であるのでアダムからの千年間を意味していることになります。この時代に当てはまる勝利者といえば、それは「エノク」に他ならず、この出来事はエノクとエノクの行った業に関するものであることは明らかです。

 ヨハネの見たものは、エノクの町が打ち建てられ、その後その町が天に取り上げられられた出来事ではなく、その当時の聖徒たちの軍を治める司令官としてエノクが、「勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた」前代未聞の戦争であったことは非常に興味深い事です。まことにエノクのような業を行なった者はなく、また彼に並ぶ征服者や司令官もいません。エノクこそ、ヨハネの黙示録の示現に見られるように勝利の白馬に乗るにふさわしい人であると言えます。




第6章3〜4節

3節 小羊が第二の封印を解いた時、第二の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。
4節 すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることをゆるされ、また、大きなつるぎを与えられた。


 「第二の封印」が解かれた時、赤い馬、すなわち戦争と流血の赤い馬に乗りつるぎを与えられた者は、おそらく「悪魔自身」であると考えられます。それはというと、確かにこの時代は悪魔が権力を振るった時代だからです。この時代、生き残った義人はノアの箱船に乗った8人しかおらず、この他のすべての生ける者を滅ぼさなければならないほど悪がはびこった時代でした。そのような邪悪のために、神は彼らの上に洪水をもたらす結果となります。もしこれがルシフェルでなかったとすると、それは流血を招いた人、すなわち現在記録に残っていませんが多くの惨殺を引き起こした戦士を象徴する人であると考えられます。紀元前3000年から2000年の期間は戦争と滅亡の時代であったと言えば十分と言え、これらの時代にサタンは人の命を奪うために様々な社会状況を生み出しています。

 ノアの時代の邪悪な行いは、創世記第6章1〜12節に書かれてあります。




第6章5節

5節 また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。


 第三の封印が解かれた時、剣に続いて飢饉が起こり、主の民は飢えに苦しんでいます。この紀元前2000年から1000年までの間は、この地球の歴史に類を見ないほど飢えの「黒い馬」が民に対する影響を及ぼしています。この封印が解かれた時代の初めに、アブラハムの兄であるハランが餓死しています。その時に、アブラハムは神から家族をカナンに連れて行くように命じていました(アブラハムの書1章2930節2章15節)。彼は生きるために必要な食糧を得ようと旅を続けています(同2章17節21節)。

 食糧の不足は、ヤコブの時代の主の民にとっても深刻で、ヤコブは息子たちをエジプトに送り、当時宰相となっていた息子ヨセフの穀倉から穀物を買わせようとしました。その時代に飢饉はすべての国にあり、ヤコブとイスラエルの家の初期の者たちがハランの滅亡から救われたのは、神の介在によります(創世記41章53〜57節、42章、43章44章)。また、モーセにしたがってエジプトの捕らわれから逃れでた数百万のヤコブの子孫たちは、本来ならばパンなどの欠乏で滅びていたはずですが、天からの「マナ」によって40年間荒野の中で養われています(出エジプト16章)。




第6章6節

6節 すると、わたしは四つの生き物の間から出てくると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。


 ここに述べられている小麦と大麦の価格計算は、今日の人々にとっては少々奇妙に感じるはずです。しかしヨハネの時代の貨幣価値と慣習を知っているとよく理解できます。一ますは現在の量り方すると約1リットルに当たり、一日分の量に相当します。デナリはローマ貨幣の小さな銀貨であり、それを今日の貨幣と比較するのは困難ですが、一デナリが当時の一日分の労働賃金に相当したことは知られています。ということは、一日分の食糧を買うためには一日分の賃金を払わなければならないことになり、これらから当時の飢饉のために食糧が高騰していたことがわかります。大麦ならば一デナリで三ます買うことができましたが、大麦は人のためには粗雑な穀物であり、ひどい飢えに苦しんだ人々だけが食べていたようです。

 馬に乗っていた人が手に量りを持っていたことから、役人のような人がいて食糧の受け渡しが厳密に行なわれていたと考えられます。「オリブ油とぶどう酒とをそこなうな」という言葉から、当時の飢饉の下にあっても人が完全に滅びてしまわないほどの食糧はなんとか保たれていたということがわかります。




第6章7〜8節

7節 小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声を、わたしは聞いた。
8節 そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。


 第四の封印の時、すなわち紀元前1000年頃からキリストの来臨の時までの間、死は全国民の間で猛威を振るい、地獄がそれに従っていました。この流血の時代に神に従わずに死んだ者たちは、剣によろうと、飢饉によろうと、あるいは疫病によろうと、野の獣によろうと、死んだことによって地獄に投げ落とされことを意味しています。それほど全地は悪に満ちていたと考えることができます。これは、偉大な王国や他の国々の戦争や反逆が、神の選んだ民を何度も苦しめ、侵した千年間です。しかしその神の民も互いに争い合い、数知れないほどの自分の兄弟たちを墓に送り込んだ時代でもあります。




第6章9〜11節

9節 小羊が第五の封印を解いた時、神の言葉のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。
10節 彼らは大声で叫んで言った、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。
11節 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。


 キリストの誕生から紀元1000年までの期間を表わす第五の封印の出来事は、神の民に関するもので、それは以下の通りです。


この世における神の独り子の生誕と、人々の間におけるキリストの業とキリスト自身が血を流すことによって果たされた贖いの犠牲。
キリストによって建てられた教会の発展と完成。福音を受け入れると同じように殉教を受け入れた信者と、不信者との間に見られる信じ難い狂言。
完全なキリスト教からのその後の堕落。その結果、ついに長い期間の暗黒の背教時代が到来。


 キリストの業と働きは聖書に記されており、またキリストが業をなしていた、「時の絶頂」の後の背教と、救い、救いの真理と力からの逸脱についても、その他の書物に数多く記されています。従って、キリストがここで明らかにしていること、すなわち封じられた巻物のこの部分で「殉教の教義」が取り扱われていることは自然なことであり、あたりまえの事と言えます。古代の聖徒たちの間で、殉教はかなり現実味を帯びたことであって、彼らはいつもその事を考えていたことでしょう。彼らはすべてを投げ出してキリストに従う時に、もし運命がそのように定められているなら、もしくはそれが神の御心ならば、彼らのためにキリストが自分から犠牲して命を与えてくれた「愛」のために、自分の命を捧げるように求められるかもしれないということを知っていました。このように死を求められたということから、時の絶頂は殉教の神権時代と言えます。




第6章12〜17節

12節 小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起こって、太陽は毛織りの荒布のように暗くなり、月は全面、血のようになり、
13節 天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落とされるように、地に落ちた。
14節 天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島はその場所から移されてしまった。
15節 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに身をかくした。
16節 「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。
17節 御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。


 今現在は第六の封印、すなわち紀元1000年に始まり、土曜日の夜を通して安息の時代の直前に至るまでの、1000年間の最後の時期に当たります。この安息の時は、キリスト自らがこの世を治め、福千年のすべての祝福がこの地球に注がれる時です。事実、世界中の至る所でその「しるし」が見られます。


天の星は・・・落ちた

一般的にはこれらの物は「隕石」などのようなものと考えられています。また、地球の自転軸の高速移動により星が流れているように見えるのかもしれません。
天は・・・消えていき 青い空がなくなると言われています。
山と島は・・・移されてしまった 大地震により、大規模な地殻変動が発生することを意味しています。
さあ、われわれを・・・かくまってくれ 今まで聖書の出来事を否定していた人々が、地位や権力のある人を問わず、神やキリストの存在を全面的に認めることを意味します。


 第六の封印の時期に地球に影響を及ぼす時のしるしについては、イザヤ書13章9〜11節24章20節マタイ24章29〜31節にあります。



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