ヨハネの黙示録 第19〜22章研究解読



第19章7〜9節 第19章10節 第19章13節 第19章21節
第20章1〜3節 第20章4〜6節 第20章7〜10節 第20章12節 第20章14節
第21章1節 第21章2〜3節 第21章8節 第21章17節
第22章7節 第22章9節 第22章13節 第22章18〜19節



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第19章7〜9節

7節 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
8節 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
9節 それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。


 この神権時代に、神の小羊(キリスト)である花婿は、花嫁(教会)を求めています。その花嫁はキリストの来臨を用心して待っていた忠実な聖徒たちからなる成る教会です。その時に小羊の大いなる婚宴が行われることでしょう。現在イスラエルの長老たちは、この婚宴への招待をすでに出しています。




第19章10節

10節 そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち予言の霊である」。


 ヨハネの言うように、この世で教会の指導者あるいは予言者となるには、預言または予言の権能を持たなければならないはずです。何故なら、ここにはっきりと書かれているからに他ならないからです。ある人が自分は教師や予言者であると言っても、予言の御霊(キリストや聖霊による直接の霊感)を否定するなら、その人には真理がないと言わざるを得ません。これにより、偽りの教師や詐欺師、偽予言者を見分けることができます。




第19章13節

13節 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれた。


 キリストが再臨する時には白い衣を着ているという説が一般的ですが、この部分(11〜16節)を研究すると、再臨の時は「キリストは赤い衣」を着てくることがわかります。これは象徴でもありますが、世のすべての罪を自分の身に引き受けることと、裁きのために再臨することを意味しています。




第19章21節

21節 それ以外の者たちは、馬にのっておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。


 この「つるぎ」という言葉は、聖書の中で度々神の言葉としての象徴で使われることがあります(ヘブル人の手紙4章12節)。つまり、再臨の時には邪悪な人々が神の言葉でたくさん死に、その死体を鳥が食べるという悲惨な状況を現しています。




第20章1〜3節

1節 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
2節 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕らえて千年の間つなぎおき、
3節 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終わるまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。


 サタンはルシフェルとも呼ばれていて、この悪魔が拘束されるためにこれから来ることになる福千年については、聖書のたくさんの部分に書かれてあります。聖句には悪魔が「鎖で縛られる」、「底知れぬ穴に投げ入れられる」と言っていますが、これは象徴的な意味と考えられます。霊体である悪魔を金属や穴などで縛っておくことはできません。サタンは霊体であるために彼らが直接影響を及ぼす所は、「人の霊」にほぼ限られています。恨みや嫉妬、激しい怒りや、ねたみ、いじめ、盗み、偽証などの「悪い心」に狡猾につけこみます。


それゆえに、彼らから身を守る方法は「正しい生活」であり、これ意外に道はありません。


 天上で始まった戦いはまだ終わっておらず(12章7〜9節)、結局は万人がサタンに抗する力を証明するまではその戦いに終わりはありません。キリストも荒野でサタンの誘惑に試された時には、それに屈しなかったので彼はキリストの前に無力になっています(ルカ4章13節)。




第20章4〜6節

4節 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らに裁きの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手にしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間支配した。
5節 (それ以外の死人は、千年の期間が終わるまで生きかえらなかった。)
6節 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、なんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。


 裁きの権が与えられていた人たちとは、キリストの下で選ばれた代表者たちが、指定された民と国民、部族を裁く座に着く人たちのことです。聖句が示しているように、裁きにもある階級が存在していることがわかります。千年の期間の間生き返らない人々というのは、この世にある時にあまりにも世の中の物質や物事などに執着していて、利己的な人生を送った人々であると考えられています。第一の復活とは、この福千年に生き残る善良な人々を意味しています。




第20章7〜10節

7節 千年の期間が終わると、サタンはその獄から解放される。
8節 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのため召集する。その数は、海の砂のように多い。
9節 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。
10節 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣も偽予言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。


 ヨハネは、福千年の後にサタンが再び解き放たれて、善と悪の軍勢の間に最後の大戦争があることをはっきりと告げています。天使長ミカエル(アダム)は、神の軍勢を集めて、サタンとその軍勢に戦いを挑むようです。しかしその戦いはサタンの軍勢が敗れ、その後永遠に彼らの行くべき所へ落されることになります。ヨハネはサタンに従う軍勢をゴグ、マゴグと呼んでおり、これらは少々誤解と混乱を招きます。というのは、この名前は福千年が始まる前のハルマゲドンの時の軍隊の指導者にも付けられているからです。これらの言葉自体は、ハルマゲドンの戦いについて詳細に記録されているエゼキエル書38、39章から取られたものです。多くの学者たちは、エゼキエルが偉大な武勇と邪悪の象徴としてこれらの名前を選んだと信じているようです。

 これらの戦いはエゼキエル書に書かれてある通り、キリストの再臨に先立って、まずハルマゲドンの戦いが起こり、福千年後にはゴグとマゴグの戦いが起こるということです。




第20章12節

12節 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。


 聖書の中には数々の書物があると言われていますが、これらの書物の一つは、世の人々の生活に関するものであり、天に保存されていると考えられています。開かれるその他の書物は地上でつけられた記録であり、教会が組織された時から、教会の会員の記録をつけるように指示されているようです。おそらく、これはアダムの時代から神の権能が存在していた時に、記録をつけるように神から勧告されていたと思われます。




第20章14節

14節 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火が第二の死である。


 人は罪の結果、自分自身を自分から苦しめる傾向にあり、自分自身に罰を科していきます。言い換えると、彼らは火と硫黄の燃える池に自分から入ってしまいます。この状態を「失望」または「絶望」と表現されますが、これらによってもたらされる人の心の苦しみは、「火と硫黄の燃える池」のように激しいものです。すなわち、悪人はそのような激しい苦しみを自分から被り、聖典には永遠に続くと書かれてあります。つまり「獄」とは、永遠の自己嫌悪の連続とも言えるのではないでしょうか。また、死も黄泉もなくなることから、もはや人は死ぬことがありません。それは未来永劫死ぬことのない体を授かるという意味になります。




第21章1節

1節 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地は消え去り、海もなくなってしまった。


 この聖句から、地球もそこに住む人類と同様に、様々な進歩の過程を経由、すなわち「変る」ということがわかります。地球は創造された時は「良し」とされており、アダムの堕落によって死すべき状態となっています。現在のこの地球は「星の光栄」であると考えられていて、この状態は後に星の光栄を受け継ぐ人々が支配し治める状態になっています。しかしやがて「更新」され、回復された状態になって福千年、つまり「月の光栄」の人々が治める千年間の地球が誕生するわけです。ですが、それらさえも終わる時が来ます。そこに住んでいるすべての被贓物と同様に、「地球も復活」するためには地球ですら死なねばならないと解釈できます。そしてすべての被贓物と同様に地球も復活を受けて、日の光栄の律法に従って日の光栄化されるでしょう。




第21章2〜3節

2節 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
3節 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、


この「新しいエルサレム」が何を意味するかを理解するにあたり、次の5つの事をよく知る必要があります。


神が人々の間で数々の業や奇跡を行なった、古代の町であるエルサレムは末日に再建されて、福千年の時にできる世界の2つの首都の1つとなり、この町から神(キリスト)の言葉が出てきます。
新エルサレム、新しいシオン、神の市と呼ばれるものは、もう1つの大陸であるアメリカ大陸に建てられます。
最初のシオンであるエノクの市は、天に取り上げられています(創世記第5章24節)。
エノクの市の住民たちは、現在復活した状態で住んでいますが、アメリカ大陸に建てられた同じ名前の市とひとつになるために、新しいエルサレムとして戻ってきます。
この地球が日の光栄の世界になる時、「聖都エルサレム」が再び「神のもとを出て天から」下ってきます。その後この地球は永遠に日の光栄の人々の住まいとなります(黙示録21章10〜27節)。


 ある教会指導者はこのように言っています。
「さて、わたしは尋ねたい。どれ程の正義と真理が洪水のように地を押し流すだろうか。私は答えよう。人々と天使たちが力を合わせて、この大いなる業を推し進めるであろう。シオン、すなわち新しいエルサレムは備えられる。また選民が地の四隅から集められ、聖なる市が建てられる。主の幕屋が彼らと共にあるからである。」

 この引用文から、パトモス島のヨハネが末日に関してエノクの見たものと同じものを見たことがわかります。




第21章8節

8節 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行なうもの、まじないをする者、偶像を拝むもの、すべて偽りを言うものには、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。


 肉体と霊が分離した状態、すなわち肉体の死の後、邪悪で罪深い者は、第二の死である「霊的な死」を被ることになります。言い換えると、彼らは神の前から断ち切られ、義なる事柄や御霊につける事柄、つまりあらゆる善に関する事柄について「死んだ状態」となってしまいます。しかし滅びの子以外の人々は「地獄」又は「外の暗闇」と呼ばれる所で、自分自身の罪ために苦しみ、その償いをした後に彼らは第二の復活に甦って星の光栄の王国で彼らの受け継ぎを得ることができます。これをもって彼らの霊的な死として定められた期間は終わりを告げて、死と地獄はその中から死人を解き放ちます。つまり、滅びの子以外のすべての人々は、備えられている王国で自分の分を受けることになります。しかし滅びの子と呼ばれる永遠にわたって神の怒りを受ける者たちは、復活後、永遠の苦痛である第二の死がその上に猛威を奮う唯一の者となってしまいます。




第21章17節

17節 また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。


 キュビトというのは「前腕」のラテン語から来た言葉で、当初は中指の先から肘までの長さを表していました。しかし時代の経過と共にその長さは様々に変り、現在では1キュビトはおよそ45センチとなっています。従って144キュビトは約65.8mになります。ですがこの数字は象徴であると考えられており、聖なる市全体が12の数字に関係があり、144とは12を12倍した値であることからもなんらかの意味があると考えられます。




第22章7節

7節 見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである。


 「すぐに来る」という表現が使われていますが、これまでヨハネが警告してきた出来事がすべて起こった時にキリストが再臨するという意味を表しています。




第22章9節

9節 彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。


 この地球上に住む者たちに教えと導きを施すために使者が送られてくる時は、この使者は見知らぬ者ではなく、自分たちの親戚、友人、同僚、または同じ教会の僕仲間から来るということです。しかし、これらの意味と天使の現われとはまた別個のものです。




第22章13節
13節 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。


 これは聖書の奥義を表している重要な部分です。旧約の神は自分を表現するのにこのような言葉を使用しました。


主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。
わたしのほかに神はない。(イザヤ書第44章6節)


 この奥義とは、旧約の神とイエス・キリストは同じ存在であり、これらはその奥義を証明する1つの根拠となっています。(出エジプト記第3章14節、イザヤ書第44章6節、ヨハネ第8章56〜59節使徒行伝第4章12節ヨハネの黙示録第1章8節旧約聖書の神は誰か




第22章14〜15節

14節 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都に入るために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
15節 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。




第22章18〜19節

18節 この書の予言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
19節 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者かせあれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木聖なる都から、とり除かれる。


 キリスト教の中には、この部分をもって「聖書は完結しており、付け加えることは認められない」とする教義を掲げている所がいくつか見受けられます。しかしこの部分は聖書中で最も誤解が多い所です。この節をよく読めば、黙示者ヨハネがそのほかの聖なる書き物のことではなく、黙示録のみについて語っているということがわかります。モーセは古代のイスラエルと同様な表現を使っており、「わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。」と記しました。この言葉は申命記の第4章2節に見られ、他にも同じ書にある第12章32節でも次のように言っています。「あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行なわなければならない。これに付け加えてはならない。また減らしてはならない。」

 これらの言葉によって、モーセがその後のすべての啓示と、将来聖典と呼ばれるようになるかもしれないすべての書物を禁じたと考えることは無理があります。それは、モーセは将来のすべての予言者たちの口を封じ、また彼らが神の意図のままを語りあるいは書くことを禁じる権限を持っていたわけではないからです。モーセがそのような権限を持っていたなら、現在の人々に旧約聖書のほとんどと新約聖書が与えられてはいなかったでしょう。

 黙示者ヨハネについても同様です。黙示録に付け加えてはならないという警告は、その書物に対してのみ語った言葉です。すなわち、いかなる者もヨハネが語ったことを変える、つまり改悪するようなことがあってはならないという意味です。その証拠に、


ヨハネが黙示録を語った時には、まだ現在の聖書は編纂されてませんでした。


 従ってヨハネは聖書についてはまだ語ることはできなかったと言うことになります。さらに聖書研究者によると、驚くべきことに、


ヨハネによる福音書は黙示録の後に書かれていたということが判明しています。


 もしもこれが真実なら、ヨハネは他の書物を排除しようとしたのではなく、この黙示録自体を変更や改悪から守ろうとした、ひとつの証拠となります。



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