ヨハネの黙示録 第1〜3章研究解読



第1章1節 第1章8節 第1章12節 第1章13〜16節 第1章18節 第1章20節
第2章1節 第2章8節 第2章12節 第2章14節 第2章18節
第3章1節 第3章7節 第3章14節



研究解読・目次 ヨハネの黙示録 新約聖書 HOME




2006/ 9/27  第1章8節 UP
1999/ 3/18  第1章13〜16節、18節、20節、第2章14節 UP
1999/ 3/17  第2章8節、12節、18節、第3章1節、7節、14節 UP
1999/ 3/ 2  第2章1節 UP
1999/ 2/24  第1章1節、12節 UP




第1章1節

1節 イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。


 これは、黙示録を理解する扉を開く、大きな鍵のひとつです。ここの記されている事柄は、将来起こることと、主に新約聖書の時代に続く後の時代に起こることです。約束された啓示は、時の絶頂の時代の聖徒たちではなく、世紀末にあたる時代に生存している聖徒たちへ与えられていると考えられます。記されている出来事はすべて、「すぐにも」起こると言われており、ペテロは 「一日は千年のようであり、千年は一日のようである(第二ペテロ3章8節)」と民に語っていて、実際に世紀末あたってこれらのことはすぐにも起き、また現実に起きています。ヨハネが見た事柄は、アダムやエノク、アブラハム、あるいはイエスの時代の状態を述べたものではありません。彼は天の幕を引き上げてもらい、示現によって将来を見ており、すなわち、世の終わりに至るまでのすべての時代に起こる数々の出来事を見たと考えてよいでしょう。




第1章8節
8節 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。


 ヨハネの黙示録は1節にあるように、「イエス・キリスト」がヨハネに現れて告げたものです。そのイエスは、自分がだれであるかを説明したのがこの8節です。「わたしはアルパであり、オメガである」は、旧約の時代から使用されているもので、旧約の神は自らを次のように述べて表しています。


主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ書第44章6節)


 ここにはアルパとされる所に「初め」、オメガとする所に「終わり」として言葉が当てられています。アッカド語という古い言語に語源を持つ言語の幾つかは文字の最初が「α(アルファ、アルパ)」であって、最後の文字は「Ω(オメガ)」を使用しています。また、これらに補足するように最後の章第22章において13節に次のような記載があります。


わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。


 このように、旧約の神自らが、自分はイエス・キリストであるという証明を行っています。しかし多くのキリスト教を自称する団体は、そのような定義を信じていませんし、信じようともしません。彼ら、


旧約の神=イエス・キリストを見落としている団体は、その教義に大きな穴が空いているにも関わらず、教えを広めている


 ことになるでしょう。(出エジプト記第3章14節、イザヤ書第44章6節、ヨハネ第8章56〜59節使徒行伝第4章12節ヨハネの黙示録第22章13節旧約聖書の神は誰か)。




第1章9節
9節 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言葉とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。




第1章12節

12節 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。


 燭台というのは灯かりを運ぶ物であって、光を発するものではなく、その燭台の役割は光を得られるようにするものです。ヨハネが勧告を与えることになっている7つの教会を7つの燭台にたとえることにより、キリストは、全地の聖徒たちが神(キリスト)の光を世に携えて行かなければならないことを示しています。7つの燭台に灯さなければならない光とは、「キリストの光」です。キリストの十二使徒も 「世の光」であると記されています。(マタイ5章14〜16節)




第1章13〜16節

13節 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
14節 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真っ白であり、目は燃える炎のようであった。
15節 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
16節 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。


 黙示録を読む人は、ヨハネが表象を用いて語っているのに目を見張ることでしょう。それは慣れないために、奇異にさえ感じているはずです。しかしこれは、文化背景や、言語の用法が根本的に異なるためであり、現代の人々のほとんどは西洋文化に染まっているため、違った感じを受けてしまいます。つまり、これら東洋では言語の用法が西洋よりも「芸術的」であるために、単語などは芸術家が絵を描く色のようなものになっています。従って、東洋の人々は、形や細部のこだわりよりも、それ自体が及ぼす「効果」に関心を払います。西洋の人々が太陽が昇っていると表現するのに対して、アラブ人は「太陽が床を上げて出てくる」というような表現を使うでしょう。

 周知のように、ヨハネはユダヤ人であり、西洋文化ではなく東洋文化に染まっており、彼は主の口から鋭いもろ刃の剣が突き出ていたと、キリストのことを述べています。しかし、具体的な情景を描こうとする西洋人の心には、ちょっと理解しがたいとしても、これを「描写」としてとるならば受け入れることが出来るはずです。東洋人の心には、その人が事の詳細よりも、表象の持つ効果に感心を払っているとすると、その表象に大きな意味があることになります。ヨハネの記術の示す表象を文字通りに解釈して絵を描くと、何ともグロテスクな姿になってしまいます。しかし、東洋人は物事を表象で表わすのを好むということを思い起こせば、7つの頭と10本の角を持つ獣や、イナゴにたとえられた軍隊、口から火を出す予言者たち(11章5節、19章15節)などは、永遠の真理の美しく深遠な表象となるでしょう。




第1章18節

18節 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉のかぎを持っている。


 この18節は、キリストの復活で、全人類のために死の扉の鍵が解かれたことを意味します。それに従い、キリストは復活ということをもって、死を制する力を持っていると言えます。しかしなぜ、イエスは黄泉(獄)の鍵も持っていたのでしょうか。それは、黄泉(獄)は霊界の一部であって、悪人はそこで神の正義の厳しい要求を満たすまで苦しみを受けることになっているからです。彼らが苦しみ終えた時に、その恐ろしい状態から彼らを救い、解き放つのはキリストしかいないことを指し示しています。これは、キリストが死と復活の間に霊界にいる霊たちのもとを訪れたという、ペテロの教えに完全に一致しています(第一ペテロ3章18〜20節4章6節)。

 このペテロの手紙には、人は肉体と霊とからできている確固たる証拠が書かれてあり、キリスト教でありながら霊の存在を否定している教派に対する誤りを指摘することができます。また、この手紙から、人が死んでからは、義人と悪人とでは、それぞれ違う場所にいることがわかります。




第1章20節

20節 あなたがわたしの右の手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。


 この「御使」とは、「僕」という意味と考える方がよいでしょう。七つの星というのは、キリストの御手にある7つの教会の会衆の管理役員であると見ることができます。彼らは自ら語らず、自分のために働くこともしません。彼らはキリストの代理として、神の言葉を語り、その業をなし、キリストにつける者です。




第2章1節

1節 エペソにある教会の御使に、こう書き送りなさい。


 エペソは、アジアにおけるローマの首都ではありませんでしたが、ローマ帝国の主要な都市のひとつであると言われています。エペソは、小アジア全域で最大の都市であって人口は4番目に多く、また地理上の位置からも重要な都であるばかりでなく、幹線道路と通商路の合流地点でもあります。さらにエペソは、古代世界の七不思議のひとつであるディアナ、ギリシャ語ではアルテミスと言われる壮麗な神殿でも全世界に知られていました。使徒パウロがエペソで引き起こした騒動は、この神殿のためであったと考えられています。当時この町では、職人たちが銀で神殿の模型を造っていて、それを旅行者や参拝者に売っていました(使徒行伝19章23節)。使徒パウロの説教は、これらの職人たちの仕事を脅かすものとなっています。

 パウロの時代には、港はカイスター川から流れてくる泥のためにふさがれ始め、そのために大都市エペソは次第に交易かできなくなり衰退してしまいました。紀元70年のエルサレムの崩壊後のこの都市はローマにその中心が移されるまで、長年の間キリスト教会の中心地でした。「御使」というのは、「僕」という意味と考えられています。



TOP 研究解読・目次 ヨハネの黙示録 新約聖書 HOME




第2章8節

8節 スミルナにある教会の御使に、こう書き送りなさい。


 多くの古代の記者によって「アジアの宝石」と呼ばれたスルミナは、アジアの第一の都市と呼ばれる権利をエペソと競いあっていました。現代でもトルコの主要な都のひとつであり立派な港を持つ現在のイズミルであるスミルナは重要な貿易の中心地であり、紀元前627年に地震で崩壊しましたが、紀元前290年頃、アレクサンドロスの後継者のひとりであるリュシマコスによって、ほぼ完全に再建されています。そのためにこの都市は、古代世界では数少ない「計画都市」のひとつとなりました。スミルナにはローマの女神のために神殿が立てられ、その後皇帝崇拝を奉ずる最初の都市のひとつとなっています。

 スミルナの教会の御使(僕)にこのような特別な励ましが与えられたことを考えると、スミルナの監督であるポリュカルポスがキリストを否定するのを拒んで殉教したことには大きな意味があります。処刑は残酷極まりなく、彼は火刑にされ、焼かれながら剣で切り裂かれたと伝えられています。




第2章12節

12節 ペルガモにある教会の御使に、こう書き送りなさい。


 ペルガモはローマ帝国のアジア地方の首都であり、そのためにアジアで最も重要な地位を保とうとしましたが、エペソやスミルナのほうが優位であったと見られています。ペルガモは皇帝崇拝の主要な中心地となり、20万もの巻物を所蔵する図書館があることで有名でした。また、蛇神アスクレピオスの礼拝の中心地でもあり、その神殿がシナイに立っており、多くの邪悪な行為が行われたと考えられています。




第2章14節

14節 しかし、あなたがたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教えを奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまづきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。


 バラムの教えというのは、簡単に言うと「神の道を曲げる」ことであると言えます。つまり、お金をもらって占いをすること、神の御心に反した助言をすること、正しい道や考えや力を悪用すること、金銭や権力を得るために説教をすることも含まれます。このような類の事柄は正しい道を悪用することになります(ペテロ第二の手紙2章)。とはいっても、占いなんかはいいのではないかと感じる人もいることと思いますが、基本的に聖書では占いを「悪」と見ています(申命記18章9〜14節)。

 占いをするときに、よく「霊感を感じる」とか言っている人がいますが、それは神から来るものではなく、「悪魔」から来るものであると断言してもよいでしょう。確かに何%かの割合で当たっているというのも事実ですが、100%ではない以上神からのものとは言えません。聖書中の神には、「これくらい」とか「・・・だろう」という曖昧な判断はしていないからです。しかし実際に、多額の金銭で「良い結果」を占う者が存在するのも事実であり、またそのような者が「教祖」などと崇められているのも事実ですが、占いは「遊び」ぐらいの感覚でとらえておくべきでしょう。




第2章18節

18節 テアテラにある教会の御使に、こう書き送りなさい。


 テアテラは七つの都市の中で最も小さいと言われていますが、それにもかかわらずこの教会には最も長い手紙が送られています。この都市は、羊毛の染色を始め多くの加工業の中心地として知られていて、「紫布の商人」といわれパウロによる改宗をしたルデヤはこのテアテラに住んでいました(使徒行伝16章17節)。テアテラはスミルナからの道路に通じていて軍事都市であったために、軍事精神が強調され、太陽神であるテュリムノスが守護神として崇められ、武勇をあおっていました。




第3章1節

1節 サルデスにある教会の御使に、こう書き送りなさい。「神の七つの霊と七つの星を持つ方が、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。


 サルデスは5つの主要道路の合流点に位置していて、重要な内陸貿易の中心地です。この都市は豊かに富んでいることで知られており、また富んでいることによる内部の腐敗でも有名です。キリストはそれらを見ぬいており、それで1節にある通りの言葉で戒めています。




第3章7節

7節 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書き送りなさい。「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。


 サルデスの南東約45`に位置するヒラデルヒヤは、その地理的理由から、「東方への門戸」と呼ばれました。この都市は活火山地帯の中にあって、幾つかの温泉場がありました。ヒラデルヒヤがぶどう園の多い地方にあったために、そこではぶどう酒の神バッカス(ディオニュソス)の礼拝が盛んになってしまいました。しかし、その規模と重要度においてはテアテラに次いで小さな都市です。


ダビデのかぎ

 アダムの時代から霊感された聖典の記者は、権威と権能の象徴として「鍵」という言葉を使ってきました。鍵とは、「管理権」のことであり、その鍵を持つものは、託された範囲で「統治権」を持つことであるということです。古代イスラエルにあって、ダビデは勇者であり、彼の言葉は律法でもあり、その名前は権威と権能の象徴でもあります。それらの事を、預言者イザヤは神が気高く力強い権威を持っている事を伝えようとした時、主(キリスト)の御名をダビデの子という言葉で呼び、また次のように語っています。「わたしはまたダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じれば開く者はない。(イザヤ書22章22節)。ダビデの鍵とは、キリストの持つ絶対的な力であり、それによって主(キリスト)の思惑は物心両面のすべての事柄にかかわってくるものと言えます。




第3章14節

14節 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書き送りなさい。「アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。


 ラオデキヤはふたつの重要な盆地と、3つの幹線道路の合流地点に位置し、古代世界で最も裕福な通商都市のひとつです。特に銀工業、独特な黒色羊毛産業や、その他の薬学校で知られていて、この学校はフリュギアの石から目薬を作ったことで有名です(同18節)。また北方に位置するヒエラポリスの温泉は、南方に流れる川に温かい水を送り出していて、その水はラオデキヤに達する頃にもまだ温かかったと言われています(同15〜16節)。


アァメンたる者


 アーメンという言葉はヘブル語の「支持する」「確信する」という言葉に由来するものです。昔は祈りや考え、あるいは誓いが真実であることを歓呼する習わしがありましたが、説教の始めにこの言葉を使うと、それはその説教が確かなものであるということを意味していました。また、祈りや教義の解説の後に使うと、それは話し手と聞き手が、そのことを拘束力を持つ確かな事柄であるとして受け入れたことを意味します。従って、現在もそのような使われ方がされていて、すべての行いと教義、儀式は、キリストを通してそれが真実であり確かなものであるという印が押されることになり、これにより、救い主は大いなる「アーメンたる者」と呼ばれることになりました。この称号は、ラオデキヤの聖徒たちが、生ぬるく決意に欠けた状態を悩んでいたことを考え合わせると深い意味に感じとれます。

 生ぬるい状態は、確信を表わす「アーメン」の反語であるといえます。心の中で「支持」する気もなく、どうでもよいと考えているのに「アーメン」と言ってしまうのは十戒に反しているといえます。



TOP 研究解読・目次 ヨハネの黙示録 新約聖書 HOME



inserted by FC2 system