マタイによる福音書 第10,11,12章研究解読



第10章28節
第11章2〜3節
第12章30節 第12章31節 第12章32節



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第10章28節

28節 また、体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。



 古代の教会において、教会の教であると称して人を惑わすようなことを教えていた人がいたことは明らかですが、今日においても、教会の正当な教に異論を唱えてこれを誇りとする人がいることも確かです。彼らは啓示された真理と一致しないことを教えます。その中である人はよく知らないでそのようにし、またうぬぼれからそうした行動に出る人もいます。あるいは色々と考えた末にそうしていることもあります。人間というものは自分に都合のいいように物事を考えがちですが、しかし、そうした正統でない見解を他人に押し付ける権利は誰にもなく、そのような人は、自分の魂が危機にさらされることに気づく必要があります。

キリストが組織した教会の大きな目標は、

人々の人格を築き上げて、彼らの人生に信仰の力を増し加えることにあります。


 もしも教会の全てのプログラムを取り入れ、正当な方法で教えることができなければ、その人は教えるべきではないでしょう。またそれに対して、自分からその責任を辞するのは名誉なことです。なぜなら、そのまま教える立場にとどまる人は、不正直で人を欺くということを行うだけでなく、実際に罪のある状態に置かれることになるからです。というのは、その人を信じる人たちの信仰を滅ぼして、誤った教義へと導き、義に背いて攻撃を加えるよりは、ひきうすを首にかけて海に投げ込まれたようがよいと、ここの聖句では痛烈に述べているからです。これは子供たちだけではなく、神を信じて、神に頼る大人についても同じです。




第11章2〜3節

2節 さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
3節 イエスに言わせた、『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。



 なぜバプテスマのヨハネがイエスのもとに使いを送って、このような質問をさせたのかを疑問に思うことでしよう。また、キリストとその聖なる召しについて、ヨハネがまだ確固たる証を持っていなかったというようなことが、はたしてあり得ただろうかと首をかしげる人もいます。しかし、憶えておかなくてはならないことは、


ヨハネの記録された最後の証が、イエスの人気が高まるのを懸念した弟子たちに対するものであった


ことです。

 ヨハネは彼らに、自分は救い主ではないことと、また自分を離れてイエスに従うことを話しました。このことは今問題にしている出来事よりも数ヶ月前にあったことです。バプテスマのヨハネにとって苦労だったことは、弟子たちに自分のもとを離れて自分が証したイエスのもとに行かせることであったと思われます。

 イエスのバプテスマから数ヶ月経って、自分に従う者たちをイエスのもとに行くように何度も説得してきたヨハネでしたが、中にヨハネのもとを離れて真の主に仕えるということをどうしてもしぶる者がいました。このような状況をふまえて考えてみると、


ふたりの弟子を遣わしたのは、イエスについて再確認をするというよりも、弟子たちを説得させるための手段であった


 と考えられます。ヨハネが言わせた問いは、ヨハネ自身のためではなく、弟子たちを教え導くためのものでした。ヨハネは他の誰よりもイエスのことを前もってよく知っていたはずです。このことについてヨハネは啓示を受けており、自分の目で見て、耳で聞いて、聖霊を通して証を得ていました。また牢獄にした時さえも天使からの導きと教えを受けています。従って、この問題に関する最も納得のいく説明は、


ヨハネが弟子たちを遣わしてイエスがだれなのかを尋ねさせることにより、彼らに自分が長い間証してきたことが真実であることを何とかして悟らせようとした


 ということでしょう。このように考えれば、ヨハネの贖い主に対する知識、弟子たちへの証、弟子たちがなかなかヨハネのもとを離れないことなど、すべて説明がつきます

 ここで強調しておかなければならないことは、イエスとヨハネの間に敵がい心のようなものはなかったということです。イエスを受け入れるためにヨハネのもとを去り、ヨハネを拒絶する必要はありません。イエスは神の御子であって、ヨハネはその予言者です。従って、このふたりを同等の立場で比較することはできないということです。またヨハネは、自分自身と救い主とが親戚関係にある(ルカ1章36節)にあるということについて、弟子たちが誤った観念を抱くのに憂いを感じたからでしょう。




第11章13節

13節 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。


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第12章30節

30節 わたしの見方ではない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。


 導きと恵みを施していた頃のイエスに対する人々の反応は様々です。ある人々は喜んでイエスを受け入れて、どこに行くにも彼に従い、その教えに従って生活しようとしました。またある人々は無関心であり、更に、正面から攻撃してくる者もいました。これにより、当時の人々は、すべてのものに反対があるという律法を如実に示したことになります。一方ではイエスが人生の道を説くのに対して、他方ではパリサイ人や律法学者が1つ1つについてイエスを攻撃しました。そして、それらとは別の無関心な人々もいました。ではそのような無関心な彼らはイエスの見方でしょうか。敵なのでしょうか。それとも単に無関心なのでしょうか。

 ここで注意するべきことは、それは彼ら無関心な人々はイエスの律法を守っていないということです。そしてその無関心の故に他の人にも無関心な態度を勧め、その結果その人たちもまた戒めを守ろうとしなかったということです。このような無関心な人々は、キリストに対して垣を築いたようなものと言えます。また不従順の模範を広めるとともに、神の業を妨害する者となってしまいました。このようなことがあったので、イエスは30節にあるように言ったというわけです。




第12章31節

31節 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。


 「みたま」の証は人にとって非常に強い影響をあたえ、また神の真理の感動と啓示が力強く明らかにされるために、忘れられることのできない真理への確信がもたらされます。従って人が一旦「みたま」によって悟りを開かれて、イエスが肉体において神の生んだ独り子であることを知った後に、神の業から離れて攻撃するならば、それは神の力によって受けた光と証に対してそのようにしていることになります。ということは、そのような人は故意に自らを悪に委ねていると言えます。そのためイエスはそれらの人には赦しがないと言っています。




第12章32節

32節 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。


 聖霊の賜を受けていない人、つまり「天よりの賜物を味わうことのなかった人」は、キリストを汚す罪は犯しても、悔い改めにより赦されることができますが、聖霊の賜物によって得られる証は非常に大いなるものであって、神に逆らい、神の業を攻撃するのであるならば、その人には赦しは与えられないと断言されています。ここで重要なのは、なぜこのようにまで厳しい処置にまで至るのかを個人が十分に認識しなければならないということです。


罪のない者の血を流すこととは、罪のない者の命を奪うということに限定されず、神の言葉を滅ぼそうとしたり、キリストを公に辱めることも含まれます。


 真理を知った後に、キリストが認めた聖徒らに対して戦いを挑む者もキリストを攻撃していることになります。神の聖徒を攻撃することは、神に対しても攻撃をすることであって、このように神の血に対して罪有りとされます。



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