マタイによる福音書 第1〜3章研究解読



第1章1〜17節 第1章18〜25節
第2章13〜23節
第3章16〜17節



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第1章1〜17節
1節 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。


 この部分は1節にある通り、アブラハムからイエス・キリストまでの系図が載せられているものです。ルカ3章23〜38節にはこの系図を逆にたどってアダムに至る系図が載せられています。4福音書には二つの系図があり、マタイに載せられているのは「ダビデ王位の正統継承者」の系図であるのがルカと違っている部分です。アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロニアによる捕囚まで14代、捕囚からキリストまで14代と、何故か要所で14代ずつ分けられているのが面白い所ですが、表にしてみると捕囚からキリストまでは13代になっています。

 聖書に載せられる系図というのは必ずしも父から子という系譜になっていません。それはというと、王家の系譜に多く見られるように、最年長の生存する相続者が孫、ひ孫、あるいは甥、はたまた君主と親戚関係にある人物であることさえあるからです。これに対してルカによる福音書3章にある記述は、ヨセフからダビデ王への親子関係に基づく系図となっています。しかしマリヤはヨセフのいとこであるので、結局同じ血統に属することになってしまいます。イエスは母マリヤからダビデの血統を受け継いだので、そのまま王位を継承する権利を持つことになりました。

 これについて、ある教会役員は次のように述べています。
「このとき、もしユダヤが自由独立の国家であって正統の君主によって統治されていたとしたら、大工であったヨセフは王冠を頂いてユダの国王になっていたであろうし、その跡を継ぐ合法的な後継者はユダヤ人の王、ナザレのイエスであったに違いない。」


アブラハムからダビデまで
アブラハム イサク ヤコブ ユダ パレス エスロン アラム アミナダブ ナアソン サルモン ボアズ オベデ エッサイ ダビデ

ダビデからバビロニアによる捕囚まで
ソロモン レハベアム アビヤ アサ ヨサパテ ヨラム ウジヤ ヨタム アハズ ヒゼキヤ マナセ アモン ヨシヤ エコニヤ

捕囚からキリストまで
サラテル ゾロバベル アビウデ エリヤキム アゾル サドク アキム エリウデ エレアザル マタン ヤコブ ヨセフ イエス




第1章18〜25節

18節 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約してたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
19節 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になるのを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
20節 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリアを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
21節 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
22節 すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
23節 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神はわれらと共にいます」という意味である。
24節 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
25節 しかし、その子が生まれるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。


 マリヤはヨセフのいいなづけになっていたと考えられ、結婚はしていませんでしたが、かなり厳格な条件のもとにゆくゆくはヨセフの妻になることが決っていました。それにより実質的にヨセフの妻とみなされて、もし結婚するまでの間に不実があった場合には、死をもって罰せられることになっています(申命記22章23〜24節)。このいいなずけとしての期間は、花嫁になる人は家族が友人と共に住み、将来の夫との間の意志の疎通は、すべて友人を通して行われることになっていましたマリヤ自身がヨセフによらない子供を身ごもったことを知らされた時、ヨセフにはふたつの選択ができたと思われます。1つは、マリヤを公の場に出して裁きを受けさせることですが、これはユダヤ人の間では後々まで続いており、この場合結局はマリヤの死を意味します。

 2つ目は、証人の前でいいなづけとしての契約を解くという2つの道がありました。ヨセフがこの2つのうち、慈悲に富んだ方法を選んだことは彼の性格を表わしていますヨセフは義しい人であって律法を厳格に守っていたと言われていますが、決して極端に厳しい人ではないようです。その上彼はマリヤを愛していたので、自分の悲しみと苦しみがどうあろうと、マリヤをあらゆる不必要な恥ずかしめから救いたいと思っていたようです。マリヤのためを思うヨセフは、事を公にするという考えにとても踏み切れませんでした。それで、律法が許している方法で秘かに婚約を解消しようと決心しました。

 神がこのことを通してヨセフを試したとも考えられます。もしそうであれば、ヨセフは見事にその試しを乗り越えられたことになります。天使がヨセフのもとを訪れてマリヤを妻に迎えるように命じたのは、彼が決心をした後のことで、マリヤの救い主の母としての召しは彼女が生まれる前から知られていたと考えられています(イザヤ書7章14節)。またヨセフ自身もキリストの父となるように予任されていたことから考えられ、これらのことから、世の人々を教えたり導いたりしている人は、前世の天上の大会議において聖任されていたと考えることができます。




第2章13〜23節

13節 彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼子を探し出して殺そうとしている」。
14節 そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼子とその母を連れてエジプトへ行き、
15節 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
16節 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確めた時に基づいて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
17節 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
18節 「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞こえた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。
19節 さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使いがエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、
20節 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼子の命をねらっていた人々は死んでしまった」。
21節 そこでヨセフは立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰った。
22節 しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤ地方に退き、
23節 ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。


 キリストについての予言に精通して、しかもしるしが与えられたことを知った東方の博士たちは、次のように言ってエルサレムに来ました。「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました(2章1〜2節)」。その約束されたメシヤが自分の王国を脅かす存在となると考えたヘロデ王は、ベツレヘムにいる2歳以下の子供をすべて殺すために兵士を送りました。しかし天使の知らせによって、ヨセフはマリアとイエスを連れて、無事エジプトに逃れることに成功しています。

 東方の博士たちはイエスをしるしとなった星を頼りに発見して、ひれ伏して拝み、たくさんの贈り物をしています(2章9〜11節)。しかし、天使は博士たちに、ヘロデのもとへは帰るなと告げたので彼らは別の道を通って自分の国へ帰りました。怒ったヘロデは2歳以下の子供をすべて殺させています。ヘロデがこの命令を出した時、バプテスマのヨハネもイエスより6ヶ月ほど年上の幼子で、両親と共にベツレヘムの近くに住んでいました。ヨハネは、父ザカリヤの自分を顧みない勇気によって、ヘロデの殺戮の手から逃れています。

 この時ザカリヤは、妻にヨハネを連れて山に逃れるように言っており、ヨハネはそこで、いなごと野蜜とを食物として育てられました。ザカリヤはヨハネの居場所について決して口を割らなかったので、そのことと、その年の神殿の儀式執行祭司長であったために、ヘロデの命により神殿の入口と聖壇との間の所で殺されてしまいました。このようにしてザカリヤは息子の命を救うために死んでいます。彼は、キリストの時代の最初の殉教者となりました。




第3章16〜17節

16節 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分に下ってくるのを、ごらんになった。
17節 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。


 四福音書の著者はすべて聖霊が「はとのように」下ったと記していて、ルカは「はとのような姿をとって」と書かれてあります。ある教会指導者は、ヨハネが「神の御子をバプテスマの水に導きいれ、またそのことの証人として聖霊がはとの形で、あるいはもっと厳密に表現すれば、『鳩のしるし』をもって下るのを見る特権を得た」と語っています。さらにその指導者はこのように説明しています。「鳩のしるしは創世の前から聖霊の証として定められていた。従って、悪魔は鳩のしるしをもって来ることができない。聖霊は個性を持ちたもう御方で、人の形をしておりたもう。聖霊は鳩の形に限定されることなく、鳩のしるしをもって来たりたもう。その事実が真理にかなっていることを示すために、鳩のしるしを見る特権がヨハネに与えられたのである。鳩は真理と潔白とを示す象徴または表象だからである。」。

 従って、ヨハネがこの「鳩のしるし」を見たことは疑いはないと考えられ、すなわち彼は、聖霊が人の形をして降りてきて、その降りる姿が「鳩のようであった」ことを目撃しているのです。実はこの聖句にはキリスト教のほとんどで言われている「三位一体(神、御子、聖霊は一つであるという説)」を根底から崩すことが書かれてあります。これら3つの存在は、別々にあってそれぞれ独立した存在であることがここで証明することができます。


この部分をよく読むと、まず「バプテスマを受けたイエス」、そのイエスに下る「鳩のような御霊(聖霊の別名)」、それと「天からの声」と同時に3つの存在があり、これらは三位一体ではないことを明瞭に証明しています。


 この意味が解ってくると聖書における理解の幅がかなり広がることは言うまでもないことでしょう。(使徒行伝第4章12節7章56節



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