聖書をある程度読んだことのある人ための「まえがき」



 聖書には人をよい方向に導いてくれる言葉が多くみられます。その点で非常に「良書」であると認識する人も多くみられ、一般的な意見となっています。しかし聖書の役割はそれだけのためにつくられたわけではなく、時として人を罪に定め、犯した過ちゆえに大きな嘆きを起こさせる力も持っています。

マタイ23章12節には次のように記されています。

「だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

 高慢な者の価値のない思いは打ち砕かれ、謙遜な者は柔和な心が受け入れられ周囲から重んじられるように、聖書の言葉によって人は落胆したり喜んだりします。また、パウロが言及した、

「もし律法が『むさぼるな』と言わなかったなら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。(ローマ7章7節)」

という言葉は、罪とは何なのかを明確にする聖書の役割を示した例です。十戒に代表されるように、人のとるべき行動を導く聖書内の言葉は人から出たものではなく、神という存在が不完全な人に向けて提示した、この世を堂々と生きる上で欠かせない律法となっています。

 聖書には有益な言葉や説教、指針があります。しかしその多くは現代の読者にむけて述べられた言葉ではないことが、聖書を読み進むうちに理解できることでしょう。預言書と幾つかの書は別としても聖書の筆記者の多くはそのようには書いていません。現代の読者が聖書の言葉を求める場合は、自分の陥った境遇に何かあてはまるものがないかと考える場合です。〜への手紙によい言葉、共感できる言葉あったとしましょう。しかしそれは〜へのと記されているように、現代人ではなくその当事の場所の人々にへと、かなり限定されて記されています。

 つまり、現代人にとって全く関係のない人の手紙を読んで、「これは自分にあてはまると勝手に感じている」ということになります。それによって神の霊を感じる、御霊を感じた、精霊が降りた、などと表現してしまいます。その結果教会の扉を叩いたり、信仰に目覚めるといった行動をとる人もいます。これはこれでひとつのきっかけですから、間違いではないしても、この経験から多くの間違った思考を深く刻んでしまうことがあります。

 聖書を詳しく調べようとする人はお気づきでしょうが、このHPのあちこちで言っているように、「聖書は完全ではない」ことを理解する必要があります。また、神の人類に対する全ての言葉が記されているわけでもありません。人の困難に聖書の言葉が役に立つ、立つのだろう、それであるから聖書はよい書であって、それを記した神様は偉大であるから聖書に間違いはないと考える人は、考える力を持たない、あるいは神の霊を受けていない人です。これを「盲信」といい、神が最大限に嫌う「偶像崇拝行為」に類するものです。この考えは神よりも聖書を重要視してしまうことに繋がっていきます。

 聖書の目的は、「聖書を信じさせることではなく」、自分の置かれた境遇と古代の人々が置かれた境遇を照らし合わせて、彼らはどのようにして神を信じるようになったかという、「過程を学ぶ」のが本来の目的であると感じています。聖書の言葉が自分に当てはまると感じるのは、物事に対する一つの過程であり、それで全てではありません。何か困った時に聖書を開く、それもひとつの方法ですが大事なことが欠落しています。ある場合にはそれで解決することもありますが、祈ることも全くせずに聖書の言葉のみで救われようとしても、聖書は救ってくれないでしょう。

 その結果解決しなかった場合は、大きな問題をひき起こすことがあります。導きを本に求めても本は喋りもしないし答えもしません。結果、聖書に対する不信感ばかりが大きくなって、より「心地よい言葉を求めて」違う本を探し出すことになります。そしていつしか聖書を忘れ、過去に聖書から得た知識や知恵を小さい存在として心の中で片付けてしまい、「聖書に神はいなかった」と結論づけたりします。これは別段不思議なことではなく、ごく当然の結果です。このような結果に至ってしまった人は、最初からこのようになるべくして聖書に接してしまっているだけです。そのような人は、聖書にある自分にとって都合のよい言葉だけを捜しているだけであって、神を求めているわけではないからです。

 しかしこのようなことは至極普通にあることではないのか、と考える人も多いはずです。もっともそれもよくある出来事であり、最初から深い洞察をもって聖書を読む人などほとんどいないことでしょう。問題はそのような聖書について初心者のとる態度ではなく、「何故、今聖書を読んでいるのか」、という自分の行動を疑問に思うことではないでしょうか。これに気付くと気付かないのとでは、後に大きな差となって現れます。神の足跡が記されている聖書は、文字を探索する書ではなく、神の霊をその身に宿すことのできる書物です。これは宿した事のある人にだけしかわかりません。聖書を読むときに神の霊というのは必要不可欠な存在であって、逆に自分にこの存在をまったく感じられないときには、聖書の正しい解釈を得られないことを意味しています。

 つまり、「今聖書に自分の関心が生じるのは何故なのか」という疑問を感じ取ることができるか、できないかであり、更に「聖書を読みたくなる衝動はどこから来るのか」、という更なる疑問に感心が高まった時、また更に「聖書を読ませようとする気持ちは神が起こすのだろうか」に至る時、聖書の持つ神の力が現れてきます。

 この神の霊、御霊とも聖霊とも呼ばれる存在を求めるか求めないかで、聖書の理解力は大きく変わってきます。「聖書に神はいなかった」とする人の考えは、まず求めるものが最初から違っていたと言えるでしょう。不思議なことに、読む人の熱心さによっても聖書は個人個人に違いを表します。書いてある文字に何か特別な変化があるわけではありません。読む人は皆一様に同じ文章を眼にしているのに、それぞれ理解力に差が生じる場合があります。

 これは神の大いなる力ともいうべきもので、文章を読む力がある学者のような人より、読み書きがかろうじてできる人のほうが神の真理をわかっていたりすることも多々あります。聖書を通して何を求めるかによって、与えられるものは個人に差が出ます。正しいものを求めなければかえってそれは呪いともいうべき結果をもたらし、結果そのような人は聖書から離れ、神からもさらに離れていくことでしょう。キリスト教において、神を差し置いて聖書の中にのみ救いを求めるこのような行動は、偶像崇拝以外なにものでもないことです。

 聖書とはひとつのガイドラインであって、個々の情況において正しい判断は神に聴き仰ぐ以外に方法はないことを、聖書は示しています。またそれは聖書の教えるもっとも重要なものであり、たとえキリスト教ではない人に対しても当てはまるものです。聖書に記されている律法とは「囲いの中の人々」、教会内の人にむけられているもので、神の存在を知る機会を与えられなかった人に律法は適用されないことが記されています。当然ながら他宗教の人を裁くことは認められず、かえって「隣人」として扱うように勧告されています。それらは人に与えられる権限ではなく、神だけができることです。

 旧約聖書にもあるように、異教の人々でさえ神にとっては「器」であり、キリスト教徒ではないからと言って弾圧するのはもってのほかです。彼らには彼らの道が用意されているのであって、その大きな神の考えが逐一一般キリスト教徒に与えられると考えるのは、高慢な考えであって誤りです。

 この「ガイドライン」はキリストの死後、または12使徒の死後、多くの言葉によって記され、訳に訳を重ねてきました。また使徒などの神の言葉を直接聞くことのできる人がいないにも関わらず、わからないことはわからいないままで発行され続けてきています。ある言語の写本にあることが違う語の写本にはないことなど、聖書の不完全さは今に問われる出来事ではなく、とうの昔から問題にされてきました。ここに「聖書は完全である」とする考えが前提にあれば、もとから不完全なガイドラインを「完全な神の書」であると民衆に信じさせるために色々な策が練られたり、ひどい場合はその策が実行に移されたりしてきました。

 聖書は神を知る為のひとつのガイドラインである、という考えを持ち、そのガイドを応用してこそ初めて価値と力を発揮します。それによって聖書の述べる究極的な救い、永遠の命を得ることとは、キリストを知ること、キリストを使わした神を知ることであると気がつくことでしょう。

 自分は聖書に詳しい、通読しているので知識があると思っている人にとって、このHPは「つまずくきっかけ」を与えるものです。もしつまずくことがあれば、それは一つの修正時期であって、さらなる知識や知恵を「ふやすきっかけ」となることでしょう。

 このサイトに記されていることは全て完全というわけではありません。サイト管理人はある程度の客観性を持ちますが、信ずる説や文献によって偏りが見られる場合もあります。また筆記や誤認による間違いも出てくるはずですので、書いてあるからといってうのみにせず、疑問に思ったことは是非調べて聖書研究を進めて下されば幸いです。



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