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アッシリアの民


アッシリアは紀元前721年、北から出てイスラエルの北王国を獲得して10部族を捕虜にしました。以来この10部族は歴史から消え去ったままとなっています。


 アッシュール神、もしくはアシラ、アシュラなど、アッシリアの神々の最高神にちなんで名付けられたアッシリアは、メソポタミア平原に位置していて、西はシリア砂漠、南はバビロニア、北と東はペルシャ山地とユーラシア山地に接する領土を占めていました。この一帯は現在のイラクに当たります。この地域に定住した最初の民族はスバルトゥ人で、後にシュメール人が加わり、紀元前3000年頃にはセム人が来てそこに混じっています。共通の言語と芸術はシュメール人から影響を受けていますが、それも後には変わり、バビロニアの言語、芸術と見分けがつかないほどに似通ったものとなりました。

 しかし、彼らには周りの状況からバビロニアの柔弱な安逸にのめり込むことは許されてはいません。彼らの像は堂々たる様の、威厳あるひげや頭髪を豊かに蓄え、背筋を伸ばし、その巨大な足で東地中海世界をまたいだ、徹頭徹尾、剛勇の戦闘民族を彷彿とさせます。彼らの歴史は王と奴隷、戦いと征服、血塗られた勝利とそして突然の敗北の歴史です。近東に強大な勢力を持ったアッシリアの構成は、領土を広げて、他の諸国を属国にした強力な王たちに負うところが大きく、初めの頃のアッシリアは、紀元前1813年から1781年の間にシャムシ・アダドの下で独立国家となりました。

 アッシリア史に名を記したその他の力ある王として、テグラテピレセル(BC1115〜1077年)、アッシュールナシルパル2世(BC883〜859年)、シャルマネセル3世(BC858〜824年)、シャムシ・アダド5世(BC824〜811年)、テグラテピレセル3世(BC744〜727年)、シャルマネセル5世(BC726〜722年)、サルゴン2世(BC721〜705)、セナケリブ(BC704〜681年)、エサル・ハドン(BC680〜669年)、アッシュールバニパル(BC668〜627年)、などが挙げられています。

 これらの諸王の下でアッシリアは絶頂を極めて、アッシリアだけではなく、バビロニア、アルメニヤ、メデアパレスチナスリヤフェニキヤ、シュメール、エラム、エジプトを支配しました。この帝国は、地中海や中東地域に出現した最も広大な組織であったと言われており、過去ではハムラビとトトメス3世がそれに続き、それ以外では、アレキサンダー大王以前のペルシャがそれに匹敵するだけとなっています。






恐怖の定石


 アッシリア帝国の要は軍隊であり、その指導者にとって戦争は科学でした。歩兵、戦車、工兵、鉄製のよろい、特に騎兵はアッシュールナシルパルが歩兵と戦車を支援するために考案しています。他に、城攻めの機械、破壊槌はどれもアッシリア人が考案したもので、アッシリアの将官は戦術や兵法もよく心得ていました。しかし、


アッシリア人が中東地域を震撼させたのは、単に戦上手なためではなく、非常に残忍野蛮であったことが理由となっています。


 占領された町は略奪されて灰燼となり、土地は木々を倒して丸裸にされるのが普通でした。戦利品の多くを山分けすることにより群の忠誠が確保されるので、戦いの捕虜はすべて奴隷にするか、殺すかするという近東の通例によって勇気が鼓舞されます。兵士たちは戦場から持ち帰った生首一つごとに報奨がもらえたので、勝利の後は死体から首を切り取って回る光景が常に目撃されました。長い戦役中には食料もかさみ、後方にいて危険で目障りになるということで、捕虜たちは戦いの後に殺されることも多くあります。彼らは捕らえた人に背を向けてひざまずき、頭を棍棒で割られたり、刃の反った重い剣で首を落とされたりしました。筆記者が脇に立って兵士1人が何人を捕虜にし、殺したのかを記録して、それに従って略奪品を割り当て、時間のあるときには王がその虐殺を取り仕切ります。

 降伏者の中でも貴族の扱いは特にひどく、耳、鼻、手足を切り落とされたり、高い塔から投げ落とされ、親子で打ち首にし、生皮を剥ぎ、弱火の上で時間をかけて焼かれる等の極悪非道の仕打ちが彼らを待ち構えていました。

 アッシリア人の生活のあらゆる面に、戦いに明け暮れ、あらゆる点で野蛮人さながらの民族特有の、情け容赦ない族長的な厳しさが見られます。ローマ人が勝ち戦の後は大勢の捕虜を終身奴隷として、野外大競技場へ連れて行って、飢えた獣に八つ裂きにさせたりもしましたが、アッシリア人は捕虜を拷問し、親の目の前で子供の目をつぶし、生きたまま捕虜の皮を剥ぎ、炉の上で人を焼き、檻に鎖でつないで大衆の慰めにし、なお生き残った者は死刑にするなどの行為に満足を見いだしたようで、あるいはそれを男子の教育に必要なことと考えたようです。アッシュールナシルパルはその様をこのように書き残しました。

 「反攻した者たちは皆皮を剥いだ。その皮でわたしは柱を覆い、あるものは壁の中央にかけ、あるものは杭に留め、またあるものは杭の上に立てた柱の周りに飾った。反抗の首謀者や高級軍人についてはその部下を殺した。」

 アッシュールバニパルは、「わたしは3000人の捕虜を火で焼いた。1人も人質として働かせるために生かしては置かなかった」 と自慢するありさまです。彼の別の記録では、「アシラ像に反逆の罪を犯し、わたしに悪事を企てたこれらの兵士は、・・・敵意ある口から舌を抜き、破滅させた。それでも生きている者は埋葬のいけにえとして捧げた。・・・彼らの引き裂かれた体は犬や豚、狼にくれてやった。・・・わたしはこうした行為によって大いなる神々を喜ばせた」 と書かれてありました。別の王は工芸家に命じて、繁栄をたたえる次のような碑文を刻ませています。「わたしの戦いの戦車は人や獣を踏み潰した・・・わたしの建てる記念碑は頭や手足を切った人間の死体でできている。生きて虜にした者は、皆両手を切り落とした。」

 ニネベで見つかったレリーフには、串刺しにされたり生皮を剥がれたり舌を引き抜かれたりしている男たちが描かれており、また中には、囚人たちの唇を細いひもで縫い合わせ、頭を動かないように固定して、ヤスで目玉をえぐり取っている王の姿が描かれたものもあります。






イスラエルに来たアッシリア


 預言者イザヤはイスラエルに、もし悔い改めなければ主はアッシリアを 「怒りの杖(イザヤ10章5節)」 として使うと警告しました。当時のアッシリアは絶頂期にあり、その恐るべき残虐さはあまねく知れ渡っていたので、イスラエルを神に立ち返らせるのに十分なはずでしたが、民はその警告を気に留めようとはしませんでした。アッシリアはテグラテピレセル2世の代に、国の西部に勢力を集中し始め、紀元前736年頃にシリアの首都ダマスコとイスラエルの首都サマリヤに要求して貢物を受け取っています(列王記下15章19〜20節)。ところがその4年後にシリアの2州が反逆したので、テグラテピレセルは再度侵攻しました。北王国の一領土であったダマスコは占領され、市民は捕虜として連れ去られてしまいます(列王記下15章29節)。

 大規模な被征服民国外追放に着手したのは、テグラテピレセルと考えられています。彼は敗戦民族をまとめて外国へ追放することによって、彼らの団結を崩し、国家意識を打ち壊そうともくろみました。北イスラエル王国の歴史に重要な役割を演じたテグラテピレセルの死後、後継者シャルマネセルやサルゴン2世の下で大追撃事業は続けられます。イスラエルの王ホセアの反乱が起きて、シャルマネセルは北王国の首都サマリヤを包囲しました。この包囲は3年も続き、この間にシャルマネセルは死んでサルゴン2世が跡を継いでいます。彼はついにサマリヤを滅ぼし、生き残りの捕虜をアッシリアへ連行して(列王記下17章1〜6節)、


かくて旧約聖書のイスラエル王国の歴史は閉じられ、行方の知れない北の部族の時代に移ることになりました


 北王国イスラエルの滅びから程なく、南王国ユダもアッシリアの攻撃に脅えることとなります。サルゴン2世の後継者セナケリブがヒゼキヤ王の代にユダを襲い、主要都市のほとんどを破壊してしまいました。しかしながら、神の奇跡によってセナケリブの軍隊は撤退を余儀なくされ、エルサレムを占領するには至らず(列王記下19章35節)、ユダ攻略に失敗したセナケリブは、当時のアッシリアの首都ニネベへ帰っていきました。






滅び行くアッシリア


 ヨナが悔い改めを叫んだ町ニネベは、アッシリア帝国の最後の首都です。以前はアッシュールとカラが首都でした。セナケリブは町を再建し、城壁の強化、用水路を作りました。しかし、紀元前612年のニネベの滅亡は、ゼパニヤとナホムの2人の預言者たちの言葉の成就です。アッシリア帝国は滅びましたが、その原因は勝つ度に屈強な者が死んでいったためであり、闘争心が少なく用心深い者たちが子孫を増やしていった結果であるといえます。おそらく、文明化が進んだのは、野蛮な者たちが除去されていく生物学的淘汰によるものであり、そのためにアッシリア興隆の生物学的基盤を弱める結果となりました。勝利を収めるにつれて国は弱体化し、貪欲な軍神マルスを養う作物を育てる人間が減ったばかりか、アッシリアへ捕虜として連れて来られた多くの貧民は、絶望を糧としながらも子孫を生み育て、アッシリアの血統を乱し、それまでまとまりのあった国民性をなし崩しにし、人数が増えると共に征服者たちのただ中にあって憎悪に満ちた破壊勢力となります。

 軍隊自体がそうした他国人に占められていくにつれ、一方では半未開人の略奪隊が辺境の各地を狙い、戦いで勝ち取った領地の国境を守る絶え間ない警護に国を疲弊させてしまいました。ついに紀元前625年には、カルデヤ人とバビロニア人がナボポラッサルの指揮の下にアッシリア人をバビロニアから追放します。また、紀元前614年には、メデア人とバビロニア人が連合してアッシュールを捕らえ、その2年後にアッシリアの首都ニネベは陥落しました。アッシリアの崩壊に伴って、バビロンが世界の帝国となって近東諸国から恐れられる支配者の座に着くことになります。






十支族の行く末


 サルゴン2世によって捕虜にされてから、イスラエルがアッシリアにどのくらいの期間とどまっていたかは知られていません。おそらく大勢の人々が征服者の生活文化を受け入れて、同化していったと考えられます。非常な罪悪ゆえの捕虜の身の上なので、彼らがアッシリアの異教文化を受けたとしても、それは無難な考え方です。しかし聖書外典の一冊には、捕虜の一団が捕囚を自分たちの罪悪の結果であると見て、悔い改めて神を求めたと記録されています。その記録から、神は彼らの叫びを心に留めて、北の諸国へ導かれました。

 聖書外典に、エズラ(エスドラス)は神から受けた示現を書き残しています。


エズラ第2書 第13章41〜46節
41節 しかし彼らは、異教徒の群衆から離れて人が住んだことのない遠国へ行き、そこで、
42節 故国では守ることのなかった自分たちの法令を守ることを決意した。
43節 そして彼らはユフラテ川の中の狭い道を通っていった。
44節 時に至高者は彼らにしるしを示され、彼らが通り過ぎるまで川の水を開きたもうた。
45節 そして、1年半の長き年月をかけてその国を旅した。その地方はアザレス(アルサレス)と呼ばれている。
46節 そして彼らは後の日までそこに住んだ。


 これについて研究したある教会役員は、イスラエルの部族がどの方角へ向けて旅をしたかについて次のように述べています。

 「彼らは『かつて人の住みしことなき』 国へ行こうと決めた。これは彼らがあらゆる汚れの影響から免れんがためであった。その国は北方においてのみ見出すことができた。南方アジアはすでに比較的古代の文明の中心地であった。エジプトは北アフリカで栄えた。そして南ヨーロッパは将来世界を支配する人々で急速にいっぱいになりつつあった。したがって、彼らは北に向かって進む以外に仕方がなかった。しかし、彼らの旅のの最初の部分は北の方ではなかった。エスドラス(エズラ)の記事によると、彼らは最初故国に向けて移動したようである。また彼らが故国へ帰ろうとするつもりで出発したことはあり得ることである。

 あるいは、恐らくアッシリア人を欺くためにカナンへ帰るかのように出発をして、ユフラテ川を越してメデア人やペルシャ人の軍勢に襲われる危険がなくなったときに、彼らは旅の足を北極星の方へ転じたことであろう。」

 エズラの説明は、キリストが真鍮版の民に教えたこととの一致が見られます。神は「父が、その地から導き出された(第3ニーファイ15章15節)」行方の知れない部族と言っています。先の説明は、行方の知れない10部族が帰るときには北から来る、と指摘した多くの預言、エレミヤ書3章18節、16章15節、31章8節などを背景としています。彼らがどこへ行ったか、また現在どこにいるかについてはいろいろと推測されてきましたが、よくわかっていません。その理由は、恐らく彼らは「封じられた人々」として神の保護下にあるのでしょう。古代の記録では推測するにも限界があります。しかし近代に発掘された書と啓示によって、ある程度のことまでは分かるようになりました。



帰還する部族


 古代の預言者たちは、終わりの時代である現代にイスラエルの家の完全な集合と回復があることを知っていました。多くの諸教会が近代から設立されてきましたが、実際にキリスト御父が現れて教会運営の力と啓示を授けられたものはたった一つしかありません。この時から集合と回復が始まっています。その後立てられた預言者には、死ぬことなく生き長らえているキリスト12弟子のひとり預言者ヨハネが失われた10氏族の間で働き、この民が地上に戻ってきて父祖の地を再び所有するための備えをしていることを、神によって告げられます。その後この教会が造った神殿においてモーセが現れ、集合及び帰還する10氏族を導く鍵が与えられました。これは10氏族の母体は地上から失われるも、世界中には散乱した12の氏族を代表する子孫が生き長らえていることを意味しています。この説明は以下の5つの理由で表すことができます。


アッシリアがイスラエル北王国を攻撃したとき、大勢の人々がユダ南王国へ避難した。
神がイスラエルをアッシリアから導き出したとき、後に残った人々がいた。
10氏族が北へ向かって旅に出たときに、途中でヨーロッパやアジアに散らばってとどまった人々がいた。
状況に応じて神はイスラエル人を別の土地へと導くことがある(エゼキエル第17章)。
残された聖文には、イスラエル全部族の残りの者がたちが世界各国に散らされ、再臨前に世界中から集められることと、失われた10部族が北から一団となって帰還することがが記されている(申命記4章27節、28章29節、64節、エレミヤ16章14〜15節、31章8節、エゼキエル11章15〜17節、ホセア9章16〜17節、ダニエル9章7節)。


 現代の預言者に与えられた預言には、失われた10氏族であろう人々の帰還とその後の様子が伝えられています。

「また、北の地にいる者たちは主の前に覚えられるようになる。彼らの預言者たちは主の声を聞き、もはや自分自身を抑えない。そして、彼らは岩を打ち、氷が彼らの前に崩れ落ちるであろう。一つの大路が大いなる深みのただ中に設けられるであろう。彼らの敵は彼らのえじきとなるであろう。不毛の砂漠に生ける水の池が現れ、焼けた土地はもはや乾いた土地ではなくなる。彼らは、わたしの僕であるエフライムの子らに貴い宝を持ってくるであろう。永久の丘の境は彼らの前で揺れ動くであろう。彼らはそこで、すなわちシオンにおいてひれ伏し、主の僕たち、すなわちエフライムの子らの手により栄光を冠として与えられるであろう。そして、彼らは永遠の喜びの歌をもって満たされるであろう。見よ、これはイスラエルの諸部族への永遠の神の祝福であり、エフライムとその同胞の頭に授けられるさらに貴い祝福である。(教義と制約第133章26〜34節)」

 旧約の預言者エレミヤはこの出来事があまりにも驚くべきことなので、神はもはやイスラエルの民をエジプトの地から導き出した主ではなく、イスラエルの民を北の国から導き出した主と呼ばれるに違いないと断言しました(エレミヤ16章14〜15節)。

 彼らが帰還する理由の一つとして、現在の彼らは地上のエフライム部族に与えられている権能を受けるためというのがあります。これは失われた10氏族がメルキゼデクに与えられた権能ではなく、アロンに与えられた権能しか保持していないからと考えることができます。これは10氏族が神の祝福や受け継ぎの地を受領するにあたって、長子の祝福を持つ部族と合流する必要があることを示しています。イスラエルの血統としての長子はルベンですが、その長子の特権はヤコブによってヨセフの子エフライムに渡されています。


ヨセフは父が右の手をエフライムの頭に置いているのを見て・・・このように、彼はエフライムをマナセの先に立てた(創世記48章15〜22節)。
−ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた(歴代史上5章1節)。
・・・エフライムは私の長子だからである(エレミヤ31章9節)。


 先の預言の通り、10氏族の帰還に関する権能は長子であるエフライムの部族が握っています。おそらく彼らは神殿に関する儀式と権能を授かるため、世界各国の神殿のある場所にくることでしょう。そこで彼らは、現在の人々が見ることも想像することもできないような発達した技術を駆使して荒地に緑を蘇らせ、不毛の大地を肥沃な土地に変えて一時の間生活し、彼らの敵となる者たちの抵抗は無意味なものになると考えられています。この出来事はエレミヤが述べたように、地球規模の大きなものです。彼らの超越した技術によって技術革新は大幅に進み、それによって大きな利益と実りを産むので彼らを拒む人々との間で大きな差を生じます。


それは物質的な面の利益も然ることながら、彼らの持つ平和主義による精神的な豊かさにも、多大な影響を受けることになります


 現段階(2006年)でも教会内部及びその周辺の選り分けは進んできていますが、帰還する部族の影響によってより大きな段階の麦と毒麦の選別が進むであろうと考えられます。預言を信じない者、信じているふりをする者、高慢な者、謙らない者、教会内部の不和分子、その他多くの神に認められない属性を持つ人々はことごとく選り分けられていくことでしょう。


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