レビ記 第章1研究解読



第1章1節



研究解読・目次 レビ記 旧約聖書 HOME




2004/ 1/19  第1章1節 UP



第1章1節

1節 主はモーセを呼び、会見の幕やからこれに告げて言われた。


 レビ記には、神がモーセを通じてイスラエルに下した直接の啓示が書かれてあります。この書は明らかに当時の神の職について書かれてある手引書であり、それを意識しながら読んでいくと興味がわいてくるでしょう。というのも、神が人に語るときはいつも神自身を現してきたからです。レビ記のどの部分を読んでも、人は神とその目的について理解できるようになるでしょう。現代の人々は、血の儀式などの生々しい記述について、時代遅れと感じるでしょうが、しかしこれはキリストという無限の贖いを示すためのものです。ある学者は、様々な犠牲と供え物について次のように言っています。

 「わたしたちの関心を引く第1の点は、次のようなことである。つまり、どの供え物にもわたしたちの目に触れるものが最低3者はあるということである。それは、供え物と祭司と供える人の3者である。この3者の重要性を一つ一つ細かく知ることが、供え物につして理解するうえでぜひとも不可決である。それでは、供え物とは何か。祭司とは何か。備える人とは何か。キリストは供え物であり、祭司であり、供える人である。キリストが人のために果たしている役割、あるいは人との関係は、極めて多様であるために、何かしら単独の象徴でそれを完全に言い表すことはできない。そのために様々な形の象徴を用い、さらにそれが種々変化して、その一つ一つがそれぞれにある特定キリストの見方を教えてくれるのである。

 あるものはキリストの性格について教え、あるものはキリストの人の業について教え、さらにまた、あるものはキリストの人となりについて教えている。しかし罪人であるわたしたちがキリストをどうに見ようも、キリストのわたしたちに対するかかわり方は、一つにとどまらない。だからこそ、多くの象徴が必要なのである。まず、最初に主は、供える人として来られる。しかし、供え物を持ってこずに供え物をするわけにはいかない。そして供え物は、この供える人の場合、主御自身である。そして、供える人でありまた供え物であるこの方は祭司でもある。律法の下にある人として、わたしたちの代理であるキリストは、わたしたちの代わりとなって供える人として神の前に立たれた。


キリストは、『神のために供えられた体』 を自分の供え物として差し出された。その供え物を通じて、神とわたしたちの間の和解を図ろうとされたのである。


 それゆえ、犠牲と供え物が完全に効き目を持たなくなったとき、言い換えれば、神がもはや犠牲を受け入れられなくなったとき、主は言われた。『見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります。』 こうしてキリストの体はその供え物となった。主は喜んでそれを差し出された。そして、主は祭司としてその血を至聖所に持っていった。供える人として、主は律法の下にある人となって、わたしたちのためにあらゆる義を全うするため、わたしたちの代理として立たれたのが分かる。祭司として、主は仲保者として、神とイスラエルの間に立つ使者となって働かれた。

 一方、供え物としては、罪の無い犠牲として、神に捧げる香ばしい香りとなり、罪を負ってそのために死なれたことが分かる。同様に考えると、供える人はキリスト自身である。キリストは、神の求めに応じて人となられたからである。供え物は、主の人柄でありその業である。また贖いが正当と認められるように犠牲となられたことである。また、祭司というのは、主の公の立場、すなわち任ぜられた仲保者としての第3の姿である。したがって、供え物が中心となるような象徴について考えるときには、犠牲であるキリストがその考え方の中心になるし、一方、供える人あるいは祭司を中心にして考えれば、それぞれ人としてのキリストと、仲保者としてのキリストが考えの中心となってくる」。



TOP 研究解読・目次 レビ記 旧約聖書 HOME



inserted by FC2 system