ヨハネによる福音書 第7〜10章研究解読



第8章56〜59節



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2005/ 5/24  第8章56〜59節 訂正及び追加
2000/ 4/28  第8章56〜59節 UP



第8章56〜59節

56節 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
57節 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
58節 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
59節 そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。


 この部分は、イエス・キリストが自分の神性を適格に宣言している場所で、これ以上の表現を用いることのできる人はいないであろうと言われているものです。これは旧約聖書にも記されており、モーセの時代である出エジプト記第3章1〜15節の中にあります。


アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである
(ヨハネ第8章58節)。

わたしは、有って有る者
わたしは有るというかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました

(出エジプト記第3章14節)


 この新約聖書と旧約聖書をつなぐ箇所は重要ですが、多くのキリスト教で誤解や無視をされてきたところです。


これはイエスが旧約聖書に登場する神は自分であると言及している部分です。


 おそらく、神の名は神聖であるが故に名前としての表現ではなく、このような「私は有るという者」という表現を使用したのではないでしょうか。名前というのは誰でも名乗れるものであり、過去から現在に至るまでキリストと名乗る者は多くいました。イエスの時代にも自分こそが神であると名乗る者もいたはずですが、イエスが使った「私は有るという者」という表現は、おそらく旧約聖書の時代からでも偽預言者たちですら使ったことのないものでしょう。つまり、名前を預言者たち以外に知らせなかったのは、偽者を見分けるひとつの方法であったと考えることもできます。

 多くの聖書学者はこのふたつの部分について、旧約聖書の神とイエスは違った存在であるとし、「わたしは、いる」と「わたしは有る」という言葉は違うものであると考えています。しかしながらこれらの意味は、人々を旧約時代から導いてきた「わたしは、その頃からいる」のであり、そして新約の時代になって、「わたしは人として有る」ことを表していると考えられます。(出エジプト第3章14節第6章3節イザヤ書第44章6節使徒行伝第4章12節ヨハネの黙示録、第1章8節第22章13節旧約聖書の神は誰か)。



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