イザヤ書 第7〜9章研究解読



第7章3〜4節 第7章14節
第8章1〜4節 第8章14節 第8章18節 第8章19節



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2004/ 6/11  第8章19節 UP
2000/ 5/ 2  第7章14節、第8章1〜4節、14節、18節UP



第7章3〜4節

3節 その時主はイザヤに言われた、「今、あなたとあなたの子シュル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、
4節 彼に言いなさい、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レジンとスリヤおよびレマリアの子が激しく怒ってもこれら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。


 シュル・ヤシュブとは、預言者イザヤが王を訪ねる際に同行した息子のひとりです。これは預言的な名前であって、「すえは帰る」という意味です。第8章18節も参照して下さい。「上の池の水道」については列王紀上18章17節参照。くすぶっている切り株とは、燃え尽きてしまったたいまつをイメージしています。すでに燃えてしまった木には火力はすでにないので、何の意味も脅威も及ぼさないということです。




第7章14節

14節 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。


 この名称は、この地上におけるエホバ、すなわち霊の状態のイエスの使命を表す称号でもあります。新約聖書には、この言葉のヘブライ語の意味の正確な解釈が書かれています。マタイによる福音書には次のように記録されています。

 「すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。』 これは、『神われらと共にいます』という意味である(マタイ第1章22〜23節)」




第8章1〜4節

1節 主はわたしに言われた、「一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」。
2節 そこでわたしは確かな証人として、祭司ウリヤおよびエベレキヤの子ゼカリヤを立てた。
3節 わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって男の子を産んだ。その時、主はわたしに言われた、「その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。
4節 それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである」。


 これは聖書中に登場する最も長い固有名詞です。ヘブライ語では、この名前はユダに対する警告のメッセージの意味があり、それは「すみやかな分捕り品や急速な戦利品」という意味です。神はこの預言者に、新しく生まれた男の子にこの名前をつけよと命じています。この息子とシャル・ヤシュブには、イザヤの言葉を劇的に伝えるために、このような預言的な名前がつけられました。(第7章3節第8章18節




第8章14節

14節 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。


 メシヤは聖典の中で「石(詩篇118章22節)」、あるいは「岩(創世記49章24節、申命記32章4節、サムエル上2章2節)」と呼ばれることがあります。預言者がここでそのような表現を用いたのは、メシヤであるイエスがイスラエルやユダの不信仰の者にとって、妨げとなりつまずきとなって拒まれることを表すためです。新約聖書の記録者たちもこの聖句を引用して、大部分のユダヤ人が救い主を拒んだことについて書いています(ローマ人への手紙第9章33節、第1ペテロ2章8節)。




第8章18節

18節 見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。


 イザヤという名前は「エホバは救いたもう」という意味です。記録にあるふたりの息子の、シャル・ヤシュブとマヘル・シャラル・ハシ・バズもやはり、ユダの民に対するメッセージを含む名前がつけられています(イザヤ7章3節8章1〜4節)。イザヤとその息子たちに会ったり、その名前を聞いたりする者は、その名前を通じて特別なメッセージが与えられました。それは民を警告するしるしであり、証でもあります。




第8章19節

19節 人々があなたがたにむかって 「さえずるように、ささやくように語る巫女および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。


 「巫女」という言葉は、古い時代に使われたヘブライ語の意味を正確に伝えていないと考えられています。ヘブライ語の「od」という語は、「皮の瓶または袋」という意味です。この道具「皮の瓶または袋」は魔術に携わる人が使うもので、その魔術とは死者と語りあえるふりをして人を欺く技術です。それは高度な腹話術のようなものであり、「先立った霊たち」の言葉やメッセージがその袋や穴から伝えられるというものです。中世に使用された魔導書(グリモア)には、悪魔や死霊を呼び出して未来や隠れた事を教えてもらうといった魔術が記されていましたが、そのグリモアもほとんどはまやかし物で、ここで言われているように魔術師が使う数多くの魔法は役に立たないものです。

 何か小鳥のようにさえずったり、ささやいたりするというのは、先立った霊たちを呼び出したり、いかにもそれらしく言葉を伝えたりする目的で行われるものです。イスラエルユダに対して、そうしたものに惑わされてはならないと警告を与えてきました(レビ記19章31節、20章27節、申命記18章10〜11節)。教会指導者はこうした古代の慣行に注解を加えて、今日でも通用する次のような警告を与えています。

 「どのようなものであれ、主が与えられた指示に反する方法で情報を求めることは、罪である。主は、イスラエルが受け継ぎの地にいるとき、明確な指示を与えられた。それは、啓示を求める対象は主であって、当時まだその地を占領していた異邦人の国々にはびこっている方法を使って記ならないというものであった。『聖書」全体を通じ、『新約聖書』でも、主とその預言者たちは、民の心が主から『巫女』に向いたときにはいつでも遺憾の意を表している。」





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