イザヤ書 第44〜47章研究解読



第44章6節
第44章21節〜第45章14節
第47章



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第44章6節
6節 主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。
わたしのほかに神はない。


 旧約聖書中において、は自分の名を固有名として名乗っている部分はほとんどありません。代表的なのは、このイザヤ44章6節の他に出エジプト記3章14節に見られるものです。


神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしは有るというかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』 と。」


 そして、神の独り子、長子、救い主等と様々な呼び名で新約聖書に記されているイエス・キリストは、パトモス島に幽閉されたヨハネに訪れ、黙示録22章13節において次のように自分を表現しています。


わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。


 それでは、旧約の神と新約のイエス・キリストの発言を並べてみましょう。


旧約聖書
(エホバ※)
出エジプト記
第3章14節
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしは有るというかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』 と。」
イザヤ書
第44章6節
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
新約聖書
(イエス・キリスト)
ヨハネによる福音書
第6章58節
イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
ヨハネの黙示録
第22章13節
わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。
※旧約の神は一般的に「エホバ」と呼ばれているが、日本聖書協会1955年改訳版にはエホバと明確に記されている個所は存在していない。


 ご覧のように、これらの発言の類似もしくは一致性は、


旧約の神エホバとイエス・キリストは同一人物であることを明確に表している証拠です。


 これらを年頭に入れた場合、解り難い旧約聖書と新約聖書の繋がりはより明確さを増して、難解な聖句と言われるものも理解への道が開けてきます。(出エジプト記3章14節、ヨハネ第8章56〜59節使徒行伝第4章12節ヨハネの黙示録第1章8節第22章13節旧約聖書の神は誰か


 「わたしのほかに神はない」と言及している個所にも、現在は様々な誤解が発生しています。ここで旧約の神が述べている対象はイザヤであり、イスラエル、そして周辺諸国に対して発している言葉です。この時神は、神と称されるも実体がなく人を救うこともできない偶像は神にあらずと言っています。この言葉の真意は、救い主とはただ独りであって、聖霊でも御父でもない、独り子イエス・キリストのみであることを指しています。状況によってこれらの言葉を御父自らが述べることもありますが、人の救い関することの全権はイエスに委ねられているので、大抵の場合御父の言葉には「救い主は独り子である」と補足の言葉がついています。新約聖書において、パウロは次のように述べました。

〜神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。〜この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである(使徒行伝4章10〜12節)」。

 この部分も上記のように旧約の神=イエス・キリストである証拠の1つです。




第44章21〜第45章14節

44章21節 ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。
44章28節 またクロスについては、『彼はわが牧者、わが目的をことごとくなし遂げる』と言い、エルサレムについては、『ふたたび建てられる』と言い、神殿については、『あなたの基がすえられる』と言う」。
45章1節 わたしはわが受膏者クロスの右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、と言われる主はその受膏者クロスにこう言われる、
45章2節 「わたしはあなたの前に行って、もろもろの山を平らにし、青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り、
45章3節 あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
45章13節 わたしは義をもってクロスを起こした。わたしは彼のすべての道をまっすぐにしよう。彼はわが町を建て、わが捕囚の価のためでなく、また報いのためでもなく解き放つ」と万軍の主は言われる。


 イザヤ書は「預言書」であると定義されるように、多くの預言を含んでいます。第44章21節から始まるこの部分も、預言として表されたものです。イザヤが預言をしていた時点では、バビロンはまだ大きな勢力を持つに至っていませんでした。ユダヤ人が捕らわれとなったのはこの時期からさらに100年後のことです。また、この部分を持って「イザヤ書は数人の手によるものである」とする考えがありますが、これはイザヤ書の性質をよく理解していないからであると言えます。イザヤ書は預言書である為、この時期からの未来の事柄を記しているものです。

 イザヤは、やがてユダが滅ぼされてバビロンの手に落ちることを、数々の預言として記録した上で、ユダの帰還に関する神の計画を明らかにし、記録として残しました。それは、ユダはクロスという名の王の下に故国に帰還する、というものです。当然ながらイザヤがクロスという名前を挙げた時点では、クロスはまだこの世に生まれていません。聖書学者シドニー・B・スペリーはこの部分に関して次のように述べています。

 「数多くの注解者たちは、イザヤが実名を挙げるほどはっきりとクロスのことを予見できたものかどうか、疑問を差し挟んでいる。そのため一般的には、イザヤ書のこの個所はバビロンの捕囚の間か、クロスがイスラエルを援助した後で、・・・つまり、この事件の後で、誰かが書き加えたものと考えている。ところが、

非常に興味深いことに、ユダヤの歴史家であるヨセフスはこれをイザヤの言葉として受け入れ、しかもこの預言者の預言を確認するクロスの書簡まで引用しているのである。

ヨセフスの記録の一部を引用しておこう。

はキュロス(クロス)の心を動かし、全アジア〔の諸民族〕宛に次の文書をしたためさせた。

「キュロス(クロス)王は宣言する。大いなる神は予を人の住む世界の王に任命されたが、予はこの方こそイスラエール(イスラエル)人の民族の拝する〔神〕であることを確信している。この方は預言者たちを介してあらかじめ予の名をあげ、予がユーダイア(ユダヤ)の地方にあるエルサレムに神の神殿を建てると告げられたからである。」

 キュロス(クロス)は、ヘーサイアス(イザヤ)が210年前に残した預言の書を読んでこれらのことを知ったが、この預言者は神が彼に秘かに告げられたこと、すなわち、「わたしが多くの偉大な民族の主に任命するキュロス(クロス)は、わが民を彼らの土地に帰らせ、わたしの神殿を建てさせる。これはわたしの意思である」と告げたことを〔その書物で〕語っていたのである。ヘーサイアス(イザヤ)は、これらのことを神殿が破壊される140年前に預言した。ヘーサイアス(イザヤ)の預言を読んだキュロス(クロス)は、神の力に驚嘆し〔そこに〕書かれたことをぜひ自分の力で実現させたいという思いにかられた。

 そこで王は、バビュローン(バビロン)に在住するもっとも著名なユダヤ人たちを招集し、彼らに、祖国への帰還と、エルサレムの都や神の神殿の再建を許可すると伝えた。「それは」と王は言った。「神がおまえたちの同盟者だからである。予はおまえたちの土地の近隣にいる予の知事や総督たちに書簡をおくり、神殿の再建に必要な金銀や犠牲のための家畜をおまえたちに供出させよう。」』 「ユダヤ古代史 VI-i-(2)山本書店刊」 「シドニー・B・スペリー,The Voice of Israel's Prophets『イスラエルの預言者の声』pp.107-108」




第47章


 この章には旧約聖書のほかの聖句と同様に、サタンが絶え間なく続けた偽りによって、どれほどその目的を達成したかということが書かれています。初めの時からルシフェルは次のように思っていました。「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。(イザヤ14章13〜14節)」 シオンがキリストから霊的に生まれてきたものであると同様に、バビロンもルシフェルから生まれた悪の子であると言えます。このルシフェルは、後に堕落してサタンとなり、また「あらゆる偽りの父(モーセ4章4節)」となっています。下の表は、この世のバビロン(悪)がいかにして人を支配しようとしてきたかについて書かれています。


カルデヤのバビロン 霊的な罪悪のバビロン
47章5節
「もろもろの国の女王」と呼ばれた。
この世が美しい女性に引かれるように、人も見せかけの輝かしさや霊のバビロンの力に引かれる。
47章6節
聖約の民であるイスラエルにまったく憐れみを施さず、むしろ大きな苦悩をもたらした。
バビロンの悪事は、安楽で一見魅力的に見えるが、それを行う者を奴隷とするのである。
47章7節
不滅であると大言壮語しているが、最後に自分を滅ぼす裁きについては全く考えていない。
霊のバビロンは盲目のまま、世界に大恐慌を起そうとしているが、自分の行動が自己破壊的な性質を持っていることに気づいていない。
47章8節
快楽は、人生の夢を実現するときに得られる単なる副産物ではなく、人生の目的そのものであると宣言した。
世のバビロンが勝利を収めるのは、人が肉欲をその崇拝の対象とする時である。バビロンは偽りの神となり、この忌まわしい教えは、イスラエルの聖者である神の力を否定し、人々に「神は存在しない」、また「地獄はない」と言う。こうして悪魔は逃げることの出来ない鎖(快楽)で人を縛りつける。
47章10節
バビロンはその邪悪な力によって、人を意のままに従わせてしまう。
世のバビロンは、邪悪な聖約と行いとを通じて、ひそかに利得を約束し、暗黒の君への服従を誓わせようとしている。
47章10節
さきの「もろもろの国の女王」が強大になったため、その国の支配者たちは傲慢にも、自分が知識と知恵の中心にいると考えるようになり、神でなく王に対してひざまづくよう人民に強制した(ダニエル3章1〜6節、6章1〜7節)。
世のバビロンは全ての知識を掌握しているふりをし、人々にその力を認めるよう命じる。人が一度このおぞましい教えを受け入れると、ほかの人たちが知らないことまで知っていると思い始めるようになり、自らが神になろうとし、自分には生命与奪の権限があるとさえ考える。



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