イザヤ書 第10〜12章研究解読



第11章1節



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2004/ 6/12  第11章1節 UP



第11章1節

1節 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、


 この部分は多くの教会指導者が見解を述べているところです。エッサイの株から出る芽とは、


キリストのしもべの一人のことを指しており、その株から出てくる幾つかの芽の一つはヨセフの子孫エフライムに、一つはエッサイの子孫にイスラエルを集合させる大きな力を授けられる人々


を指しています。ある教会指導者はエフライムの部族の役割について述べています。

 「今日神権を保有しているのは、エフライムである。主が聖約を交わし、永遠の福音を余す所なく明らかにされたのは、エフライムに対してであった。現在神殿を建築し、聖者と死者のために儀式を行っているのは、エフライムである。『行方の知れない部族』がイザヤやエレミヤを通して与えられた約束を成就してシオンに来る時が来る。それはきわめてすばらしい光景であり、驚くべきことであろう。しかし、彼らはイスラエルの『長子』であるエフライムから至上の祝福を受けなければならない。』

 また他の教会指導者は、エフライムの業を行っているジョセフ・スミスが果たす役割について次のように述べました。

 「わたしたちが探し求めているのはイスラエルの家である。それが東西南北いずれの方角から来るものであるか、そんなことはかまわない。中国からでも、ロシアからでも、イギリス、カリフォルニア、北アメリカ、南アメリカ、どこからでもかまわない。父祖ヤコブがその両手を置いたのは、あの若者の頭上であって、あの若者がイスラエルの家に救いをもたらすのである。『モルモン書』はエフライムのもとにやって来た。ジョセフ・スミスは純粋のエフライムだからである。そして、『モルモン書』の内容がジョセフ・スミスに明らかにされた。ジョセフは生涯、福音を信ずる者を探し出すことをその仕事とした。」

 若枝について分析した教会指導者は次のように記しています。

 「メシヤに関する預言の多くは、最初の降臨のときにもまた再臨のときにも成就するものである。よって、ここでその預言を検討してみる必要もあり、また、ダビデに連なるメシヤについての言葉も、それが主の再臨にどう当てはまるのかということを見ていかなければならない。キリストはダビデの子孫である。また母マリヤを通じて偉大な王の血統を受け継ぐ者でもある。さらに、エッサイの株とも若枝とも呼ばれる。これはダビデの若い枝という意味である。こうした表現で表されるメシヤに関する預言は、やがて主がダビデの王座に就かれたときに行使される権勢や統治とかかわりがある。また地上への再臨ときわめて密接な関係があるのである。エッサイはダビデの父であった。イザヤはエッサイの株について語っている。

 同時にこの株は、古代のその賢人の根から生えてくる若枝であるとも言っている。イザヤはさらに続けて、主の霊がその上にとどまること、力強い裁きを行い、国を撃ち悪しき者を殺すこと、その日には小羊とししがともに伏すことなどを預言した。これは皆、再臨とそれによって始まる福千年とにかかわりを持っている(イザヤ11章)。エッサイの株とはだれかという点について、啓示された御言葉では次のように言われている。『それはキリストである(教義と聖約113章1〜2節)』。これはまた、若枝というのがキリストを指しているという意味でもある。その点についてほかの関連聖句を見てみよう。

 エレミヤの口を通じ、主は、御自分の選ばれたイスラエルが、古代に散乱し、末日には集合することを預言しておられる。イスラエルが『追いやったすべての地から』集められた後、また使徒1章6節で古代の使徒たちが望んだようにイスラエルに王国が回復された後で、この出来事は成就することになる。当然それはまだ将来のことであり、福千年中のことである。

 『主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起こす日が来る。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義」ととなえられる。(エレミヤ第23章5節)』

 つまり、福千年の間に自ら地上で統治される王は、ダビデの枝から生まれ出る枝であるということになる。彼は全地にわたって公平と正義とを行うが、それはこの王が主エホバすなわちわたしたちがキリストと呼ぶその御方だからである。ゼカリヤを通じて主は同じように語っておられる。

 『万軍の主は、こう仰せられる。・・・わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。・・・そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。〔これは、邪悪なものは滅ぼされ、平和と義の福千年が始まるということである。〕 万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである。(ゼカリヤ第3章7〜10節)』

 主はまた次のように言っておられる。

 『見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を立てる。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。(ゼカリヤ第6章12〜23節)。』

 ダビデの枝がキリストを指していることは、これで完全に明らかである。それではこれから、キリストがダビデ、あるいは新しいダビデ、永遠のダビデと呼ばれていることを見ていこう。主は、昔の先祖の王座に座して永遠に治められるようになるからである。

 『万軍の主は仰せられる、その日』、つまり集合の行われる偉大な福千年の時代のことであるが、『彼らはその神、主と、わたしが彼らのために立てるその王ダビデに仕える。(エレミヤ第30章8〜9節)』。『その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの新しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は「主はわれわれの正義」ととなえられる。』 これはつまり、その町もその王にちなんで呼ばれるということである。『主はこう仰せられる、イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。・・・もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、しもべダビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えられない。(エレミヤ第33章15〜21節)』

 ダビデは、わたしたちの主が生まれる数世紀も前に、この世の王座から落ちた。また、地の隅々にまだ散らされていなかったイスラエルも、ローマの鉄のくびきに捕らわれた。しかし、約束は依然として残っている。永遠の王座はそれにふさわしい時が来たとき回復され、新しいダビデがそこに座する。そしてとこしえに統治されるのである。・・・

 エゼキエルを通じ、主はこの牧者についてつぎのように言っておられる。

 『わたしはわが群れを助けて・・・わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる』。そしてその日が来ると、『わたしは彼らと平和の契約を結び』と主は言われるは、彼らが再び完全なる永遠の福音にあずかるという意味である。そのときには『これは祝福の雨となる』。イスラエルは皆安らかに住み、主がその神であられることを知るのである(エゼキエル第34章22〜31節)。

 エゼキエルを通じ、主はまた『モルモン書』の出現についても語っておられる。『モルモン書』は、主の手のうちにあってイスラエルの集合のための道具となるのである。集合のその日について、主は次のように言われた。『その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王とな〔る〕』。その日には、主は民をバプテスマによって『清め』、それによって『彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる。わがしもべダビデは彼らの王となる。彼らすべての者のために、ひとりの牧者立つ。彼らはわがおきてに歩み、わだ定めを守って行う。彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む。これはあなたがたの先祖の住んだ所である。そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永遠に住み、わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となる。』

 さらに主は、ここで重ねて、集められた民は永遠の福音のあらゆる祝福にあずかり、(ゼカリヤ書にあるように)彼らの中に永遠の聖所、つまり神殿を置かれると言われている。そしてイスラエルは皆、主が彼らの神であられることを知るのである(エゼキエル第37章15〜28節)。キリストの第二のダビデが降臨し、第一のダビデの王座に着いて統治される日は、いかに栄光に満ちた日になることであろうか。そのときには、あらゆる人が安らかに住み、全地にわたって神殿が点在し、福音の聖約が力強くしかも確実に全地に及ぶのである。」



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