イザヤ書 第1〜3章研究解読



第1章1節 第1章4節 第1章8節 第1章9節 第1章10〜15節
第2章 第2章13節 第2章16節 第2章22節
第3章1〜8節 第3章9節



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2006/ 9/11  第1章1節 追加・改定
2004/ 4/12  第2章13節、第2章、第2章22節、第3章9節、第3章1〜8節 UP
2004/ 4/10  第2章16節 UP
2001/ 5/ 9  第1章8節、9節、10〜15節 UP
2001/ 5/ 8  序文、第1章4節 UP
1999/ 7/ 2  第1章1節 UP


 エホバイスラエルの民の子として、エジプトと荒れ野で養い育てました。ところが、彼らは約束の地で成人すると、神に背をむけてしまいます。民の苦難は、癒されることのない傷や生傷にたとえることができます。イスラエルの民が完全に反逆したことは、頭や心、そして足の裏から頭までと書かれていることからも明らかに分かります。言い換えれば、霊の癌がイスラエルの全身を冒しており、イスラエルの国家には、霊的に健全な要素はほとんど残っておらず、そのために国土が完全に荒れ廃れてしまいました。


「イスラエルが起こした反逆が、最も重い罪を犯したことの証明であると言えるでしょう。」




第1章1節

1節 アモツの子イザヤがユダの王ウジヤヨタムアハズヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。


 ウジヤアザリヤ・BC792年頃)からヒゼキヤ(BC688年頃)の代、資料によって多少の違いはあるものの、この間約104年の内にイザヤは預言者として活動しました。イザヤの受けた啓示(幻)には、イザヤが生きていた時代の様々な問題や将来の出来事を洞察する偉大な予言を見る事ができます。この節に登場する王については、その王や民の時代、そして預言者イザヤの働きと一緒に、イザヤの世界に記述してあります。




第1章4節

4節 ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。


 「イスラエルの聖者」という救い主を表すこの聖なる称号は、預言者イザヤを通じて啓示されたものでしょう。なぜならこの称号が使用された最初の記録がイザヤ書だからです。イザヤ書にはこの称号が30回登場しますが、エレミヤ書では2回、エゼキエル書では1回、そして詩篇では3回しか見られてません旧約聖書ではほかにどこにも使われおらず、ただ1回だけ列王紀下19章22節に出てきますがこれはイザヤの言葉です。真鍮版の預言者リーハイやニーファイ、ヤコブは、この表現を39回使っていますが、そのうちイザヤ書から引用したものはわずか4回しかありません。




第1章8節

8節 シオンの娘はぶどう畑の仮小屋のように、きゅうり畑番小屋のように、包囲された町のように、ただひとり残った。


 この地方では、ぶとうやきゅうりの収穫の時期が近づくと、小さな仮小屋が作られ、畑の持ち主や召し使いが、作物を盗難や動物から守るために見張るために使っていました。一般的に、こうした小屋は造りも粗雑で、建てるのも早く、そして収穫が終わればそのまま見捨てられて荒廃し、収穫の遺物となって取り残されます。イザヤはエルサレムもこの仮小屋のようになると預言しました。かつては誇りに満ちて有益な存在であったものが、今では霊的な怠慢のゆえに見捨てられ、荒涼とした廃墟のような所となってしまいました。




第1章9節

9節 もし万軍の主が、われわれに少しの生存者を残されなかったなら、われわれはソドムのようになり、またゴモラと同じようになったであろう。


 ユダの血統が将来に備えて残されるということが、この預言の中に約束されています。パウロは、これと同じ意味でこの聖句を利用しました。(ローマ9章29節、イザヤ10章22節)




第1章10〜15節

10節 あなたがたソドムのつかさたちよ、主の言葉を聞け。あなたがたゴモラの民よ、われわれの神の教えに耳を傾けよ。
11節 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの利益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。
12節 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒らすことを求めたか。
13節 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香はわたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること−わたしは不義と聖会とに耐えられない。
14節 あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。
15節 あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈りをささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。


 この聖句の中で、神はモーセの律法、特に律法の実践と儀式を否定しているわけではありません。ここで責められているのは、モーセの律法に従った捧げ物や祭式を偽善的に行っているという点です。当時イスラエルはこうした宗教活動を偽って行い、ただ外形的な要求を満たしていただけで、救い主に礼拝の心を向けるという真心からの目的を持って礼拝していませんでした。イスラエルの民を指して「ソドムとゴモラ」と呼んでいますが、これは、イスラエルの民の罪と腐敗がいかに深刻であったかを如実に示しています。




第2章

1節 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。
6節 あなたはあなたの民ヤコブの家を捨てられた。これは彼らが東の国からの占い師をもって満たし、ペリシテびとのように占い者となり、外国人と同盟を結んだからである。
7節 彼らの国には金銀が満ち、その財宝は限りない。また彼らの国には馬が満ち、その戦車も限りない。
8節 また彼らの国には偶像が満ち、彼らはその手のわざを拝み、その指で作ったものを拝む。
9節 こうして人はかがめられ、人々は低くされる。どうか彼らをおゆるしにならぬように。


 イザヤ書第2章は、基本的な霊性にかかわる問題を要約したものです。この問題は、イザヤの時代にイスラエルが抱えた問題でもあり、再臨の前である現在の人々の中で再度起こる問題でもあります。ここの部分は、イザヤの両義性を示す優れた例の1つとなっています。イザヤの預言は1節にあるように、「ユダとエルサレム」について言われたものですが、


終わりの日やイエスの再臨とも関係があることは明らかです


6節
 「彼らが東の国からの占い師をもって満たし」とは言い換えると、彼らが権勢と支持を求めて、様々な宗教哲学やアッシリアの神々、その他の異邦人の国々に目を向けたことを指しています。現在では、人々は知恵と導きとを得るために、人の作った色々な宗教や哲学に目を向けてはいますが、福音には目もくれずにいます。また「占い師」とは、将来が予言できると主張した偽預言者のことを指しています。真の預言者はほとんど無視され、人々はあらゆる種類のえせ宗教家やカウンセラーの導きに頼っています。「外国人と同盟を結んだ」の意味は、「外国人の子らと手を結ぶ」ことであると考えられています。古代のイスラエルはあらゆる邪悪を行うに当たって、異邦人の国々と手を結んできました。現代の社会も、神に頼らずに世の様々な影響と手を組んでいます。


7節
 「金銀が満ち」は、民衆が豊かになり物質主義的になるということです。この時代には人々の心は物に執着していますが、終わりの日にも、再び物質主義的な考え方が広まることを言っています。「馬が満ち、その戦車も限りない」の馬は、戦争の象徴であり、戦車も同様の意味を持っています。確かに現代は戦争や戦争のうわさを1日中聞けてしまうほど、悪い状態に陥っています。


8節
 当時この国は偶像礼拝で満ちていましたが、現代も人々はなお偽りの神々に心を向けています。しかしその神々はもはや木や石で作られたものではなく、金銭、不動産、名誉、権力、見栄、快楽などに代わっています。


9節
 イザヤ第2章は真鍮版にも載せられているので、比較することができます。この9節にあたる部分には、「地位の低いものは身をかがめず、地位の高いものはへりくだらない」(第2ニーファイ12章9節)と記されてあります。真鍮版と聖書に書かれてあるものには相違が見られますが、イザヤはここでは偶像礼拝のことを重ねて言っているのではなく、人々が本当の神を礼拝しなくなる日が来ることを言っていることが分かります。この終わりの日の過ちが最大の罪であって、神とって最大の関心事となります。古代のイスラエルはその罪のために、その身に神の裁きを招きました。そして、同じ原因で、終わりの日の人々は同じようにその身に悲しみと問題を招いてしまいます。

 真鍮版にはこのほかにも聖書に書かれてあるイザヤ書との相違がありますが、それらはイザヤの言おうとしていることをより明確に表しています。イザヤ2章10節、12〜14章、16,19,21章は、真鍮版第2ニーファイ12章10節、12〜14章、16,19,21章に対応しています。




第2章13節

13節 またレバノンの高くそびえるすべての香柏、バシャンのすべてのかしの木、


 香柏やかしの木は、古代の中東では最も高く伸びて人目を引く木でした。それゆえにこうした木は、偉大な美しさを持つ国がやがて滅ぼされることの象徴であるばかりでなく、世の人々の高慢と驕りの象徴でもありました。



第2章16節

16節 タルシシのすべての船、すべての麗しい船舶に臨む。


 この時代の人々の高慢さは神の目に悪く見えたので、船を使った貿易なども衰退することをこの節で述べています。このような貿易は、ウジヤ(アザリヤ)王とその子ヨタム王の治世中に始められ、繁栄していました。この16節は真鍮版の記録の正確さを表しており、イザヤの言葉はここから取られたものです。16節に当たる真鍮版第2ニーファイ12章16節には、ヘブライ語版にはない表現が加えられていて、古代の七十人訳は真鍮版に加えられている表現との一致が見られます。


真鍮版 海のすべての船
欽定訳
七十人訳 海のあらゆる船
真鍮版 タルシシのすべての船
欽定訳 タルシシのすべての船
七十人訳
真鍮版 すべての好ましい景色
欽定訳 すべての好ましい景色
七十人訳 すべての美しい船の眺めに


 真鍮版から分かることは、この節の原典には3つの文節が含まれており、しかもその3つの文節とも”and upon all”で始まっていることです。おそらく平凡な偶然によってヘブライ語版の原典では最初の1文節が欠落しましたが、七十人訳では欠落しませんでした。ところが七十人訳では2番目の文節が欠落し、3番目の文節は原形を損なったようです。真鍮版には3つの文節ともに欠落がありません。学者の中には真鍮版の翻訳者が、七十人訳から最初の文節を引き写したものと考える人もいます。真鍮版の翻訳者はギリシャ語がわかりませんでしたが、翻訳作業をしていた1829年から1830年にかけて、七十人訳の写しを入手したという証拠はありません。ここで言えることは、欽定訳にしろ七十人訳にしろ、真鍮版の記載のほうが2つの訳より情報が多いということです。




第2章22節

22節 あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。


 この表現は、人にのみ頼ることの弱さについての警告となっています。「やめよ」と記されていることの意味は、ただ単にやめることについての行動の制限の表現だけではなく、それを行ってしまった場合は罪とみなされてのろいが下るということを指しています。つまり、


不完全な人の勧告に従うより、聖霊によって与えられる勧告に従ったときの結果のほうが遥かに良い


 ことを意味しています。神はこのように言いました。

 「異邦人は災いである。わたしが日々腕を伸べているにもかかわらず、彼らはわたしを拒むからである。それでも、彼らが悔い改めてわたしのもとに来るならば、わたしは彼らを憐れもう。わたしは終日、腕を伸べているからである。」




第3章1〜8節

1節 見よ、主、万軍の主はエルサレムとユダからささえとなり、頼みとなるもの ― すべてささえとなるパン、すべてささえとなる水 ― を取り去られる。
2節 すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、
3節 五十人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なまじない師を取り去られる。
6節 その時、人はその父の家で、兄弟をつかまえて言う、「あなたは外套をもっている、わたしたちのつかさびとになって、この荒れ跡をあなたの手で治めてください」と。
8節 これは彼らの言葉と行いとが主にそむき、その栄光の目をおかしたので、エルサレムはつまずき、ユダは倒れたからである。


 預言者イザヤは、当時の著名な役人や尊敬されている人々などを代表として挙げて、やがてユダとエルサレムに滅亡の時が来ることを告げました。著名な人物とは、政治、軍事、教育、宗教の指導者を指しています。この人々がいなくなると、この国は若い傀儡による独裁政治となり、最終的には支配者一族の中で最後の権力闘争が起こって無政府状態に突入してしまいます。その後民は指導者を求めますが、上品な衣服を着て他人とは違っているからということだけを根拠に支配者を選ぼうとします。しかし、同族の指導者でさえ助けを拒んでしまいます。真鍮版の原版は現在の聖書の原版よりも古いですが、多くの翻訳を経てはいないので6節の意味が分かりやすく記されています。民は支配者に、破滅を防ぐようにと嘆願するようになります。




第3章9節

9節 彼らの不公平は彼らにむかって不利なあかしをし、ソドムのようにその罪をあらわして隠さない。わざわいなるかな、彼らはみずから悪の報いをうけた。


 人はそれぞれに、自分の思いや態度がいかなるものかを周囲に示しています。その状態が良いにしろ悪いにしろ、それがその人の本当の姿となって表れます。うれしければうれしい、悲しければ悲しい、楽しければ楽しい態度や表情が体に表れます。イザヤは、


不従順な者は自分の行動によって、他人の目から自分の罪の結果を隠すことはできないと警告しています


 この原則について教会指導者は次のように述べました。

 「この世で生活している人はだれでも皆、良きにつけ悪しきにつけ、周囲に影響を与えている。言葉や行いだけでなく、ひととなりすべてが人々に影響を与えるのである。人はだれでも、自分のほんとうのひととなりを放射している。・・・わたしたちの周囲にいる人々に影響を与えているものは、ありのままのわたしたちである。それはおのずから放射されていく。一個人としてわたしたちはもっと気高い考えを持つ必要がある。低俗な考え方や欲求を助長するようなことがあってはならない。そのような考えを持てば、それは自然と現れるからである。気高い考えを持ち、気高い望みをはぐくむようにすれば、人に会うときに、とりわけ人と交わるときに、それが放射される。」



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