イザヤの世界



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1999/ 9/13  イザヤの世界UP


 預言者イザヤの言葉の重要性については、聖典の他の書にも数多く述べられています。キリスト自身もイザヤの言葉を熱心に研究せよと言っているほどです。イザヤはどの時代に生きていたのか、誰と一緒にいたのか、時代的な環境や情勢がどうだったのか、旧約の預言者についてを伝えてくれる資料はほとんどありません。しかしイザヤが働いた時代については、一般的にかなりの資料が残されています。ある教会指導者は、イザヤ書における15の章はおもにイザヤの時代にその地方で実際に起きた出来事や、あるいは歴史的な出来事が書かれていると述べています。

 次の年表は、預言者イザヤの働きに関する出来事を要約して年代順にまとめたものです。列王紀と歴代志の2書の記術、及びイザヤ書の関連記事を整理して、ユダ王国のこの時代の出来事がまとめてあります。( )の中の年代はイスラエルの北王国の出来事を示しており、*印の付いている年代は、説明上一時的に時代がさかのぼることを示しています。

 イザヤはユダの 4人の王の治世下に政治家としての役割をもあわせ持つ預言者として仕えていました。この当時の歴史的な記録はおもに 3つの資料、列王紀下、歴代志下、イザヤ書からのものです。



1章1節 アモツの子イザヤがユダの王ウジヤヨタムアハズヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻


年代
(紀元前)


列王紀下
(イザヤ書)
参照聖句


歴代志下
参照聖句


出来事

792年 15章1〜4節 26章1〜4節 アザリヤ、すなわちウジヤ(これは一般的には即位後の名と考えられている)がユダの王となる。彼は24年にわたる父親との共同統制を含めて、52年間国を治めた。
768〜750年
26章5〜7節 ウジヤは預言者ゼカリヤ(旧約のゼカリヤ書を書いたゼカリヤではない)の助言を求める。ウジヤはぺリシテ人を征服して、脅威の的になっていた砂漠の民を打ち破る。
768〜750年
26章8〜15節 ユダが強大な軍事国家として確立します。エルサレムの防備が進み、軍備も整えられる。隣国の中にはこの強大な国家に対して貢ぎ物を治める国もあった。
750年
26章16〜21節 ウジヤは高慢になり、自分には神殿の儀式を執行する権限があると考えた。権能もなく神殿の儀式を執り行おうとしたため、神の裁きを招き、らい病になってしまう。息子のヨタムが一緒に10年間統治する。
750年

26章22節
聖書には、イザヤがウジヤの統治の歴史記録を書いたとあるが、その記録は現存していない。
740年* 15章7節 26章23節 ヨタムが単独の統治を開始する。(この続きは、列王紀下15章32〜35節、歴代志下27章1〜6節を参照)
(753年) 15章8〜12節
ゼカリヤが父ヤラベアム2世の後を継いで、イスラエル(北王国)を6ヶ月間治める。
(752年) 15章13〜15節
シャルムが1ヶ月間治め、その後イスラエルで暗殺される。
(752年) 15章16〜18節
北王国で、メヘナムによる罪悪と恐怖に満ちた統治が始まり、以後10年間にわたって続く。
743年 15章19〜21節
北王国がアッシリアの攻撃を受ける。テグラテピレセル3世(別名プル)からの貢ぎ物の要求に 応えるために、イスラエル王は自国の富める者から金銀を徴収した。ニムロデのテグラテピレセル3世に関する古代の歴史文書は、この聖典に書かれたこの出来事が歴史的な事実であったことを裏付けています。これには「サマリヤのメナヘム」により金銀が貢ぎ物として捧げられたという記述があります。
(742年) 15章22〜26節
ペカヒヤがイスラエルで2年間統治する。その後、後継者により暗殺される。
(740年) 15章27〜31節
レマリヤの息子のペカが北王国を統治する。この王はアッシリアに対向するためにシリアと同盟を組む。この連合はユダにとっても脅威となりました(この続きは列王紀下15章37節、16章5〜6節を参照)。最終的にはテグラテピレセル3世が北の地域を攻め落し多くの住民を捕虜としています。この軍事行動は、ホセアが北王国の王位に就く道を開く。イザヤは、神の国(ユダとイスラエル)にさらに加えられる脅威について警告した言葉の中で、この侵略に触れています(イザヤ書9章1節)。
740年 15章32〜35節 27章1〜6節 ヨタムが神殿の門を拡張して、ユダの国の防備をさらに固める。アンモン人はウジヤ王の時からの進貢を拒否しようとしましたが失敗する。
735年 15章36〜38節 27章7〜9節 イスラエル王ペカとシリヤ王レジンの連合軍が、ユダ制圧を目指してこの時代に進撃を開始する。
732年**
27章9節
28章1節
アハズが父王ヨタムの死去までの3年間を一緒に統治する。
735年 16章1〜4節 28章1〜4節 アハズの統治は宗教上の律法に相反するもので、偶像崇拝の慣行を取り入れ、自分の子供をいけにえの犠牲に捧げることさえ行なっています。

735〜720年

16章5〜6節 28章5〜15節 イスラエル(エフライム)は、シリアの連合軍がユダとエルサレムを攻撃したが、征服は失敗してしまうい。しかし、多少の領土は獲得した。
735〜720年 イザヤ書
7章1〜6節

イザヤは主の命を受けてアハズ王のもとへ赴いて、イスラエルとシリアの過去の関係から判断して、アッシリアとは国防を目的とした、いかなる政治同盟も結んではならないと警告する。
735〜720年 イザヤ書
7章6〜9節
8章9〜18節

同年イザヤは、国は目前に迫った征服の危機を免れると予言する。さらに、エフライム(イスラエル)は国家としては滅ぼされるであろうと警告する。
735〜720年 イザヤ書
7章10〜16節
9章6〜7節

予言者イザヤは、ユダが前世で予任された努めを果たすためにメシヤの家としてその子孫が残されると証する。
735〜720年 イザヤ書
7章17〜25節
8章1〜8節

9章8〜12節

イザヤ、ユダはアッシリアによって踏みにじられるが、イスラエルやシリアの人々のように滅ぼされることはないと予言する。また、シリヤとダマスコの没落(イザヤ書17章1〜4節参照)、さらにはイスラエル(サマリヤとエフライム。28章1〜4節参照)の民の没落も予言する。
735〜720年 イザヤ書
10章5〜19節

イザヤ、アッシリアによってサマリヤが滅ぼされるだけでなく、後にエルサレムとあらゆる邪悪な者たちも滅びるちと予言する。さらにまた、アッシリアの滅亡も示される。
735〜720年 16章7節 28章16節
アハズは予言者イザヤの助言を拒み、アッシリアと同盟を結ぼうとする。
735〜720年
28章17〜19節 ユダはその指導力の弱さのため、隣国のエドムとペリシテの攻撃を受ける。その結果幾つかの町と国土の一部を失う。
735〜720年 16章8〜9節 28章20〜21節 アッシリアからの援助を確約するため、アハズ王が神殿と王の倉庫から宝物を取り出して貢ぎ物として差し出す。富める者には財の提出を強要した。古代アッシリアの文書にも、このアハズ王の貢ぎ物に関する記録がある(D・ウィンストン・トーマス著「旧約時代の文書」55〜56p参照)。
しかし、ユダの敵の来襲に対してアッシリアからの救援は全くなかった。
735〜720年 16章10〜16節
アハズ王が征服直後のダマスコの町へテグラテピレセル3世を訪問する。ダマスコで王座に似た異教徒の祭壇を見たアハズは、それに従って同じ物をエルサレムの神殿の中にも建てるように命じた。
735〜720年
28章22〜23節 アハズ王がダマスコの神々に犠牲を捧げる。
735〜720年 16章17〜20節 28章24〜26節 アハズ王が神殿の器物の一部を破損ないしは改造して、神殿を閉鎖する。また、国中に罪深い偶像礼拝のための場所を設けた。
(732年) 15章30〜31節
17章1〜2節

ホセアがアッシリアにより、イスラエルの王として即位する。カラ、すなわちニムロデで発見されたアッシリア王の歴史記録には、ホセアはアッシリアに隷属する王でしかなかったことが記録されている(プリチャード「中東古代文書」283〜284p参照)。
(725年) 17章3〜4節
シャルマネセル5世が紀元前727年にアッシリアの王になり、同時期にホセア王がアッシリアに対して反乱を起こす。ホセア王はこの支配者交代の時期を利用して、それまでの進貢をやめて、エジプトからの援助を仰ごうと画策し、エジプトに使者が派遣された。この王は一般にはエジプトを征服したエチオピア人であり、第24王朝の創始者としてエジプトを支配した人物であると考えられている(トーマス「旧約時代の文書p63、アラン・ガードナー「ファラオたちのエジプト」p450参照)。
(724〜721年) 17章5節
イスラエルの地とその首都サマリヤが3年間包囲される。この期間の終わり頃、サルゴン2世がアッシリアの支配者となる。
(722年)*** 17章6〜17節
サルゴン2世の指揮の下で、サマリヤが最終的に陥落する。イスラエルの民はサルゴンによって捕らえられて捕虜となり、アッシリアへ送られた。これがサルゴンの統括の下の出来事であったかどうか疑問視する人もおり、しかしながらこのサルゴン宮殿の銘文には、「サマリヤの征服者」としてその名が刻まれている(プリチャード「中東古代文書」p284)。こうした古代の文書には同様に、北の十部族の住民も捕らわれて連れて行かれたと記録されている。後にこの大集団はこの境遇から逃れるが、聖書の記録からも消えてしまう。そのため、イスラエルの「失われた部族」と呼ばれるようになる。

721年

17章18〜19節
このアッシリアによる大規模な破壊の後、唯一生き残った国家はユダだけとなってしまう。
(721年) 17章24節
アッシリアは征服して人口の少なくなったイスラエル、特に首都であったサマリヤ地域に再び人々を定住させ始める。サルゴンの宮殿の壁面には、メソポタミヤ地域から移住させた人々の住む地域をアッシリアの新しい属領にしたという銘国文がある。
(720年) 17章25〜41節
新しく移住した人々がそこで多くの問題を経験する。彼らは因習に従ったために、「その地の神」を知らずにいた(列王紀下17章26節)。そこで最終的にはアッシリアは捕らえていた人々の中からレビ人と祭司たちをイスラエルの地に派遣し、新しい住民たちにその神について教えさせた。そのため、彼らは神を礼拝するとともに、自分たちが移住に際して持ち込んだ神々も礼拝した。その後、この定住者たちはおもにエホバを礼拝するようになり、祭司たちの家族と異族間結婚をするようになった。やがて彼らはサマリヤ人と呼ばれるようになった(エズラ記4章1〜3節)。
(720年) イザヤ書
19章1〜15節
20章1〜6節

アッシリアの文書によれば、周辺の属領や新しく征服したサマリヤにおいて、かなりの数の反乱が断続的に起こったことが記録されている。このため、ガザとダマスコ再びアッシリア領として編入された(プリチャード「中東古代文書p285)。アッシリアの属国の内、こうした反乱を起こした国はエジプトに援助を求めた。このような事体に直面して、イザヤは不実なエジプトとは組んではならないとユダに向かって警告した。イザヤは更に、当時異国(エチオピア)の支配者たちに統治され、弱体化したエジプトはアッシリアに打ち破られてしまうと警告した。バビロンも別の方向からの反乱を企てていたために、アッシリアはこれまでイスラエルの地に向けていた関心と配慮とを変更する必要が出てきた(ジョン・ブライト「イスラエルの歴史p263)。
715年 18章1〜6節 31章1節
32章12節
ヒゼキヤがその父アハズの後を継いで王となる。ヒゼキヤは父の持ち込んだ偶像崇拝の習慣を自分の国から一掃しようと努めた。モーセの時代から伝えられてきた神聖な青銅のへび(民数記21章8〜9節)でさえも、間違った礼拝の対象となっていた。そのためヒゼキヤはこれを打ち砕いた。
715〜701年
29章1〜11節 ヒゼキヤは神殿を再開し、レビ人たちにそこで儀式を執り行う準備をするように命じる。
715〜701年
29章12〜19節 レビ人が宮を清めて、元の状態に戻した。
715〜701年
29章20〜36節 真実の信仰と犠牲の捧げ物とがユダの国に再び確立される。
715〜701年
30章1〜12節 過越の祭りを再開するにあたり、ヒゼキヤはイスラエルとユダの全地に使者を送り、エルサレムに招いた。しかし、どの国にもこの呼びかけを嘲笑い、無視する者が多かった。
715〜701年
30章13〜27節 招きにこたえた信仰深い人々が、ユダでこの神聖な祭りが再開されたことを祝って喜ぶ。
715〜701年
31章1節 礼拝に参加した人々が、偽りの宗教を国内から排除しようと努力を続ける。
715〜701年
31章2〜10節 神殿組織が出来上がり、継続してその努めを果たすことになる。祭司の職にある人々の生活を支えるために什分の一が納められた。
715〜701年
31章11〜21節 実務面を処理する組織が作られ、血統と生得権によりレビ人の諸権利が定められる。
705年 18章7節
サルゴンの戦士が引き金になってアッシリア帝国の全土に反乱が起こる。ヒゼキヤ王は父の代からの進貢を拒み、エジプトと同盟を組んで援助を得ようと考えた。しかし、イザヤはエジプトからの援助を期待すること自体が愚かなことであると警告していた(30章1〜7節、31章1〜3節)。
(722年)*** 18章9〜12節
イザヤは北のイスラエルとサマリヤがシャルマネセル5世とサルゴン2世の手で滅ぼされることになると、何度も繰り返して記録している。これはアッシリアの強大さを思い出させるためである。
701年 18章13〜16節
サルゴンあとを継いだセナケリブがユダとぺリシテの領地に攻め入り、強制的な進貢に合意させる。この王の侵略の記録には、56の町ないしは砦、および数多くの村を攻め落したと書かれている。エルサレムにいたヒゼキヤが長期にわたって包囲されたことについては、次のように書かれている。「私は王自身も・・・かごの中の鳥のように閉じ込めた。(プリチャード「中東古代文書」p288)」 アッシリアは、エルサレム南西40`の地点にすでに占領したラキシに作戦本部を置いた。この包囲作戦に苦しんだヒゼキヤは貢ぎ物を送った。その大部分が神殿にあったものであって、こうして和平工作が進められた。このような貢ぎ物を受け取ったことを確認する記事が同様に古代の文書にも記録されている。(中東古代文書p288)
701年
32章1〜8節 こうして貢ぎ物を送ったにもかかわらず、包囲は続いた。そのためヒゼキヤは町の砦を強化し、水を確保するために一大事業を開始した。トンネル(水道)の工事が行なわれ、町の中まで安全に水を引き、貯水池に蓄えておくようにした。(列王紀下20章20節、歴代志下32章30節)。予言者イザヤは、エルサレムはやがて滅ぼされると警告するにあたって、ヒゼキヤがこうした準備をしたことについて触れている(イザヤ書22章8〜11)。 このトンネルは今現在も存在しており、シロアムあるいはヒゼキヤのトンネルという名前がつけられている。トンネルに刻まれた古代の銘文には、この建設のことが記録されており、おもにその事業にはヒゼキヤがかかわっていたことがわかっている(プリチャード「中東古代文書」p321)。
701年 18章17〜18節

イザヤ書
36章2〜3節
32章9〜10節 包囲が続いたため、アッシリアはセナケリブ王の代理を派遣して、エルサレムに降伏するように求めた。ヒゼキヤは交渉のために、自分の部下を町の城壁の外へ派遣した。
701年 18章19〜25節

イザヤ書
36章4〜10節
32章11〜12節 アッシリアの使者は、アッシリア軍に対抗できるかどうか民の力を試してみようと迫り、ユダがエジプトと同盟を結んだことを非難した。最後に、「ユダの神がユダを滅ぼすよう命じたのである」と、冒涜の言葉を口にした。
701年 18章26節

イザヤ書
36章11節

ヒゼキヤの代理人たちは、民に交渉の過程を悟られないように、ヘブル語ではなくシリア(アラム)語で交渉を進めることを要求する。
701年 18章27〜35節

イザヤ書
36章12〜20節
32章18〜19節 アッシリアの役人たちはこの要求を無視し、ユダの民の言葉で、ヒゼキヤ王や神を頼って解放してもらおうと願っても無駄であると叫んだ。また戦いがアッシリアの勝利に終わろうとしている今、ユダの神にどのような力があるのか見せてみよ、と威圧した。
701年 18章36〜37節

イザヤ書
36章21〜22節
32章16〜17節 ヒゼキヤから派遣された代理人たちは、口を開いてはならないと命じられていた。そのため、まったく何も答えずに帰って王に報告する。こうした口頭での要求に加えて、手紙も送られてきた。
701年 19章1〜5節

イザヤ書
37章1〜5節
32章20節 自分の代理人たちの報告を受けたヒゼキヤ王は、予言者イザヤのもとへ部下を遣わして助言と指示を求めた。
701年 19章6〜13節

イザヤ書
37章6〜13節

イザヤ、アッシリアの退去と、セナケリブの帰還後の死を予言する。アッシリアを代表して交渉していた役人が報告のために帰ると、主要部隊がラキシに程近いリブナで戦闘に従事していることを知らされる。さらにまた、アッシリアはエジプトのエチオピア王からの攻撃の脅威にもさらされていた。この結果、エルサレムの包囲軍に対す圧力も増大していた。
701年 19章14〜35節

イザヤ書
37章14〜36節
32章21節 ヒゼキヤはアッシリアからの手紙を受け取ると、敵の手から解放されるように祈りのうちに主に願う(列王紀下19章14〜19節、イザヤ書37章14〜20節)。主の答えは予言者を通して王に与えられる。その予言には、アッシリアが滅ぼされること、ユダがやがて祝福を受けて繁栄することが約束されていた。ヒゼキヤは予言者イザヤの指示に従い、ユダの民は主により敵の手から解放された。エルサレム周辺で陣を張っていたアッシリア軍は打ち殺され、数多くの犠牲者を出した。
701年 19章36〜37節

イザヤ書
37章37〜38節
32章21〜23節 生き残ったアッシリア人は包囲をあきらめ、故国に引き上げる。そこでセナケリブは暗殺され、イザヤの予言が成就した。この奇跡的な解放によって、近隣諸国からヒゼキヤと神に対して捧げ物、宝物が届けられた。
701年 20章1〜11節
イザヤ書38章
32章24節 ヒゼキヤ王が高慢になり、病気になって死ぬばかりとなる。予言者イザヤは死ぬと予言する。ヒゼキヤが主に嘆願すると、予言者イザヤがまだ追うの宮殿を出ないうちに霊感が下り、戻ってヒゼキヤにもう15年命が延ばされることになったと告げる。このとき王の病気の治療法もあわせて与えられた。予言者イザヤはヒゼキヤの病の回復が主の癒しによるものであることの証明として、ひとつのしるしが与えられると予言した。それは父アハズの作った日時計によって昼が長くなったことが示されるというものであった
701〜686年
32章25〜26節 しかしヒゼキヤには依然として、克服すべき高慢な心が残っていた。ヒゼキヤ王は自分の高慢と反逆心悲しみ、また命が延ばされたことに感謝の祈りを捧げた。やがて、ヒゼキヤハ十分に謙遜になり、ソノ統治の間中、主の恵みを賜った。
701〜686年
32章27〜30節 民も王も豊かに祝福を受け、繁栄してこの世の富みにも恵まれる。
701〜686年 20章12〜13節

イザヤ書
39章1〜2節
32章31節 メロダクバラダン(バビロンの王子で、自国ではマルダカパリデナと呼ばれた)は、かつてアッシリアの統治に対して、反旗を翻したが、この度はユダの王を見舞うために贈り物と共に友好の使者を派遣する。ヒゼキヤはその使者たちに自国の宝庫や武器庫をことことく見せた。
701〜686年 20章14〜19節

イザヤ書
39章3〜8節

その後予言者イザヤは、王国の富や武器を隠すことなく見せたことで激しく王を責めた。イザヤはまた、やがてバビロンによってユダが征服され滅ぼされるであろうと予言した。
701〜686年 20章20〜21節 32章20節
32〜33節
水道の建設は、ヒゼキヤ王の重要な功績のひとつとして記述されている。
697年*** 21章1〜2節 33章1〜2節 マナセが父と共に君臨する。マナセは明らかに父王の最後の11年間を一緒に統治した。
686年 21章3〜16節 33章3〜10節 父の死去に伴ない、マナセによる統治が開始されたが、彼は豊かな国を次第に背教と偶像崇拝の泥沼へと深く引きずりこんでいった。彼らが悪を行なったことは主がイスラエルの人々の前に滅ぼされた国々の民よりもはなはだしく、予言者たちは、神に反逆するこの国にはやがて裁きと完全な滅びとが待ち受けていると予言した。マナセは多くの罪のない者の血を流した。
679年
33章11〜17節 アッシリアの支配者でありセナケリブの息子のひとりエサルハドンが再びユダの地に侵攻を開始する。この度は、エルサレムを含む 21の町が貢ぎ物を納めることになった。アッシリアにこの敗北を喫し、罰を受けた後で、マナセは民の中で多少の改革を試みるが、見るべき成果はほとんどなかった。



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