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深刻な罪


 イスラエルエホバとの関係から絶えず逸脱したことで最も顕著なものが、「偶像崇拝」です。旧約聖書の歴史は、イスラエルが偽りの神々にそれていった事、神がそれに対して警告した事、イスラエルが悔い改めないとどのようになってしまうかということを、預言者が警告した事の記載で満ちています。偶像崇拝には幾つかの疑問が湧きます。偶像崇拝のどこがそんなに悪いために、神はそれを行う者をあれほど厳しく罰したのでしょうか。何故神はヨシュアの時代イスラエル人に、ヘテ人アモリ人カナン人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人を全部滅ぼすように命じたのでしょうか。何故「息のある者をひとりも生かしておいてはならない(申命記20章16節)」と命じたのでしょうか。

 彼らはまた、すべての彫像を壊して、指定された一部の所有物を除いてすべて焼くように命じられています(申命記7章24〜26節、12章2〜3節)。どうしてこのような措置が求められたのでしょうか。アカンが禁じられた物を盗んだとき、なぜ神はイスラエル全体にあのように厳しく当たったのでしょうか(ヨシュア7章)。実際になぜ人類は戒めによって、唯一真実の神を拝むように厳格に制限されているのでしょうか。

おそらく本当の質問は、


何故人は真実の神以外のものを拝みたくなるのだろうか


という問いになってしまうでしょう。

 サウルが神の哀願を受けられなくなった後、ダビデがイスラエルの王位に就いて、将来王の王が生まれることになる王家を確立するように油を塗られました。恐らくイスラエルの王の中で、ダビデ以上に偶像崇拝の傾向や慣習に縁のなかった王は、他にいなかったことでしょう。ダビデの在世当時からそれ以降ずっと、旧約聖書の著者たちは、諸王のエホバに対する忠誠を測るに当たって、ダビデを傑出した標準として用いてきました。ダビデがこのように用いられているということは、一人の王が何か背いても、少々の偶像崇拝であれば容易に赦されるように見えてしまいます。

 偶像崇拝はモーセの律法に対する最も極悪な罪とされてきました。そしてこのモーセの律法は、この罪に当たる行為を非常に具体的に定義し、厳しい罰を科して次の事が禁じられています。見知らぬ神の像を造ること、そのような像の前にひれ伏すこと、あるいは太陽や月のように像はなくても拝まれている自然物の前にひれ伏すこと(申命記4章19節)、祭壇、像、アシラの木像、または偶像を立てること(出エジプト34章13節)、像を作る金銀を所有して家の中に置くこと(申命記7章25〜26節)、偶像に犠牲を捧げること、特に人を犠牲に捧げること、人が偶像にささげた犠牲を食べること、見知らぬ神の名によって預言すること、偶像崇拝に用いられている儀式を採用して神の礼拝に転用することが禁じられました。

 罰については、律法は個人が偶像崇拝を行った場合、その人は石で撃ち殺さなければならない(申命記17章2〜5節)、町がこの罪を犯すなら、そこの住民と家畜を殺して、分捕り物も町とともに焼かなければならないと命じています(申命記13章12〜18節)。






崇拝の対象


 十戒の最初の2つの戒めは、偶像崇拝の罪を禁じています。こうしては、触知し得るかし得ないかは問わず、礼拝の対象として偽りの神々を持つことが誤っていて、それが罪であることを宣言しました。しかしこの戒めは、神殿、幕屋、礼拝堂、あるいはその中の装飾については除外されています。十戒を与えた神は、契約の箱を刻んだケルビムで飾るように指示しており、単にケルビムを芸術品としてそこに置くことは、偶像崇拝ではありませんでした。像を造ることが偶像崇拝となるのは、彫像が礼拝や服従の対象となるか、礼拝の不可欠な一部となる場合です。

 触知、あるいは感知し得ない偽りの神々を拝むことも、刻まれた像を拝むのと同様に、悪いことであり危険であることを理解する必要があります。ある偽りの神は、自然と関連しているか、自然そのもの、言い換えると自然に観察される法則や力を崇拝の対象とするものとなっています。自然に関連した神々の偶像崇拝には、様々な動物、植物、天候、火山、太陽、月、惑星などを対象とするものが含まれます。例えば旧約聖書のバアルは自然の神となっていて、雨と土の肥沃と関連しており、また太陽の神としても崇拝されていました。バアルにまつわる神話によれば、イスラエルの北方のどこかに実在する人であり、あらゆる英雄的な、しかし罪深い働きをしていたと考えられています。

 バアルは死の神モトに殺されましたが、後に生き返ったとも考えられていて、この逸話は、中東におけるある大干ばつと後の復興を説明するものと考えられています。旧約聖書において、偶像崇拝は、具体的な彫像を拝むことを差していますが、本当の偶像崇拝は、彫像にひれ伏して怒る偶像をなだめることを遥かに超えることです。人が他の人、国家、同盟、財宝、宝石、軍隊、軍備、その作戦に全幅の信頼を寄せるとき、それはエホバに対する信頼の欠如を示すものであるから、偶像崇拝の一様式となる、と神はあらゆる時代に明らかにしてきました。それは、偶像崇拝に全く染まらないためには、


真実の神に完全に頼らなくてはならないことを意味しています


 太陽と月は、すべてを貫く力の外的な象徴として、早い時期に選ばれていました。天体を拝むことは最も古いのみならず、偶像崇拝の最も普遍的なものであって、カルデヤの平原から始まり、エジプトギリシャ、スキタイ、メキシコ、セイロンにまで広がりました(申命記4章19節、17章3節、ヨブ記31章20〜28節)。王国の時代が続くと、惑星や12宮のしるしが、太陽と月に次いで広く崇拝されるようになります(列王下23章5節)。純粋な英雄崇拝は、セム族の間に痕跡はありませんが、樹木に対する異様な畏敬はへブル人の歴史の中に幾つか見られます。

 アブラハムべエルシバで記念の木を植えたこと(創世記21章33節)や、ヤコブがテレビンと呼ばれる樫の木の下で祭壇を築いたこと(創世記35章4節)は、族長崇拝と深い関わりがありました。山や高い所は、偶像に犠牲を捧げて香をたく場所として選ばれており(列王上11章7節、14章23節)、また奥まった庭園や深い森は、偶像崇拝者が引かれて集まる場所となっています(列王下16章4節、イザヤ1章29節、ホセア4章13節)。天体現象は家の屋上で崇拝されていました(列王下23章12節、エレミヤ33章29節、ゼパニヤ1章5節)。

 現代の偶像崇拝の対象となるものは、古代のものほど粗野ではありませんが、それでも偶像には違いなく、


どんな名誉や富、快楽であっても神と正義以上に求めるなら、それは偶像崇拝の対象となります







偽りの神々


 旧約聖書には幾つかの偽りの神々が記されています。その内の一部は、後のギリシャ神話に登場するものまであり、名を変えて様々な神々となりました。


アシタロテ

 この神は、シドン人(フェニキア人)の女神の名前で(列王上11章5、33節)、ペリシテ人の女神でもあります(サムエル上31章10節)。この女神は士師の時代にイスラエルに持ち込まれており(士師記2章13節、サムエル上7章4節)、ソロモン王自身がこれを褒め称えて背教に走り(列王上11章5節)、ようやくヨシヤ王によって退けられました(列王下23章13節)。この女神は、しばしば「バアル」と並んでバアルと対等の位置を占める女神として挙げられています(士師記2章13節)。また列王下23章4節には、「・・・バアルとアシラと天の万象とのために・・・」の、「天の万象」という言葉がアシタロテを指しているとされることから、この女神が彗星やその他の天体の1つであったと考えられています。

 この女神に対する崇拝の最も顕著な部分は、淫らな乱飲乱舞の酒宴です。この光景を直接カルタゴで目撃したアウグスティヌスは、非常に憤慨して記載しています。「・・・アシタロテの女祭司は、女装した宦官と遊女(ホセア4章14節)で、・・・彼らはインドのバヤデレスのように、自らを汚してこの女神の神殿を飾ろうとした。」

 多くの異なった名前を持つ神でもあり、アスタルテ、アシェラー、アタルガティスとも呼ばれます。セム人の豊饒の女神とされ、バビロニアでは「イシュタル」、ギリシアでは「アフロディテ(ビーナス)」と同一視されています。髪の毛を強調する像があることや、天体を意識した記述から、決まった公転をする惑星ではなくて彗星のような尾を2本出したりする大きな天体であることが推測されます。


バアル

 アシタロテが最高の女神であるのに対して、バアルフェニキアカナンの国々の最高の男神となっています。ある人はバアルは太陽に相当し、アシタロテは月、またある人はバアルは木星(ジュピター)で、アシタロテは金星(ビーナス)であったと考えるようです。バアルの崇拝は古代からからあり、モーセの時代にモアブ人とミデアン人の間に広く浸透しており(民数記22章41節)、彼らを通じてイスラエル人の間に広まりました(民数記25章3〜18節、申命記4章3節)。また列王の時代には、宮廷と10部族の宗教となりますが(列王上16章31〜33節、18章19、22節)、それが撤廃されることはありませんでした(列王下17章16節)。ユダ王国においてはバアルのために神殿が建てられ(列王下16章32節)、盛大な儀式を伴なって崇拝されています(列王上18章19、26〜28節、列王下10章22節)。

 この崇拝が古代ユダヤ人を引き付けたのは、その淫らな性格にあり、この宗教はフェニキアの植民地にも見られました。古代の英国諸島の宗教は、この古代のバアル宗教に酷似しており、バアルを引き継いだものと考えられられています。バビロニアのベル(イザヤ46章1節)、あるいはベルスは多少の形を変えたものであっても、本質的にはバアルと同一であると言えます。複数形の「バアリム」という語がしばしば見受けられていますが、恐らく幾つもの合成語になって、崇拝されていたと考えられます。


バアル−ベリテ
(契約のバアル)
崇拝する者と契約する神。(士師記8章33節、9章4節)
バアル−ゼブブ
(はえの主)
エクロンで崇拝された(列王下1章2〜3節、16節)。
バアル−ハナン エドムの初期の王の名前(創世記36章38〜39節、歴代上1章49〜50節)。
ダビデのオリーブの木といちじく桑の木をつかさどったダビデの役人の名前(歴代上27章28節)。
バアル−ペオル
(開いた主)
「開いた主」とは、他の者も一緒に拝めるという意味。民数記25章に、淫らな行為を行っていた記述があります。


ダゴン

 旧約聖書においてダゴンは、サムソンの時代にガザや(士師記16章21〜23節)アシドドといったペリシテ人の地に神殿があり、サウルダビデの時代ではベテシャンで(サムエル上5章2〜7節、31章10節、歴代上10章10節)崇拝されたペリシテ人の第1の神です。この神の名前の本当の起源は古代に失われており、的確な性格も確定されていないのが現状です。挿絵などにも書かれるように、ダゴンは魚の神であると考えられていますが実際それには何の根拠もありません。ただダゴンとヘブライ語の「ダグ(魚)」が外見上似ていることに影響されたものにすぎないようです。また「ダグ」と「アオン(偶像)」というヘブライ語をあわせたものが語源とする説もあります。

 アルヴドやアスカロンで出土した硬貨に描かれている尾の付いた魚の神は、アタルギティスと関連があり、ダゴンとは何ら定まった関係がありません。ヘブライ語の「ダガン(穀物)」は、ダゴンまたはダガンの神名に由来していると考えられているので、ダゴンは植物あるいは穀物の神という可能性が出てきます。


ケモシ、モレク

 ケモシとはモアブ人の神で、モレクと同一であるとも考えられています。モレクへの崇拝は、最も残酷な儀式を行う忌むべき偶像崇拝の一例です。名称は他にもあって、モロク、マルカム、ミルコム、バールメレク等があり、主にアンモン人の偶像となっています。モレクはその残酷な儀式に関係して、聖書に度々登場してきました(レビ記18章21節、20章2〜5節、列王上11章5,7,33節、列王下23章10、13節、アモス5章26節、ゼパニヤ1章5節、エレミヤ32章35節)。

 この偶像は加熱できるように中空にしてあり、雄牛の頭が付いて、生贄に捧げる小児を受け取るために手を伸ばしている、真鍮の立像の形をとっています。これを拝むことは必ずしも人身御供を含んではいませんが、このような人恐ろしい儀式が、この憎むべき神の宮の特徴です。聖書学者カイルとデリッチはモレクへの生贄を次のように報告しました。

 「アハズのときから小児たちはエルサレムにおけるベン・ヒンノムの谷で殺され、それから加熱した両腕の中に横たえられ焼かれていけにえとなった。」(列王下16章3節、17章17節、21章6節、23章10節、エレミヤ32章35節、エゼキエル16章20〜21節、20章31節、詩篇106篇37〜38節)

 多くの学者たちは、この恐ろしい偶像に小児たちを生贄とすることはアハズの時代よりずっと前に始まったと述べています。色々な生贄を捧げることは、恐らくこの制度に関連する極悪な行為の頂点です。そして、この邪悪な行為を目撃する場所であったトペテは、焼き殺される人々たちの悲鳴や苦痛の声を聞こえなくするために太鼓を盛んに叩き鳴らしたところからこのような名前を付けられたと言われています。この場所はヒンノムの谷と呼ばれていますが、それに関係がある恐ろしい連想は未来の苦痛を名付けかつ象徴するものとして採り上げられたトペテとゲヘナ(ヒンノムの谷)の2つに行き着きました。

 聖書の内容にそれほど深く精通していない人たちは、聖書の神は至るところで殺人を犯す非道の神とすることがあります。しかしその背景には、モレクのような極悪な儀式を行う宗教を滅ぼすということが多くあります。栄華を極めたソロモン王も、後の堕落によってこれらの邪教に染まっていきました(列王上11章1〜13節)。洪水によって滅ぼされた古代の人々にも、これと似たような出来事があったと考えることもできるでしょう。






魅力と儀式


 聖書を読む人の多くが、何故これ程までにイスラエル人は真実からそれて偶像崇拝に陥ったのかと不思議に感じてきたことでしょう。その理由には、普通の人は見えない霊的な現実を知覚することができないために、目立つ演出、盛観、行列を伴なうなどの目に見える外形の形に引かれることの他に、最も大きな魅力である淫らな歓楽とわいせつな遊興があります。単純で質素な礼拝儀式と律法がきわめて清純な心と生活を求める農耕民族にとって、この宗教はあらゆる肉欲的な欲情に訴えて、しかも富や流行、贅沢をも添えているので大きな誘惑となりました。

 偶像礼拝に用いられた一般的な儀式としては、香を焚くこと、エレミヤ7章8節の「粉をこね、パンを造』ることに代表される血のない犠牲、ホセア3章1節にある「干しぶどうの菓子」をささげること、列王記下18章26節の動物の犠牲、そして人間を家畜同様に殺してささげることが挙げられます。こうしたささげ物は、丘の上、屋根の上などの高い所か、森や谷間など人目に付かない所で行われたので、聖書中でよく「高き所」として記されています。中にはそのような場所で肉欲的なものを満足させる見苦しい行いもされていました。予言や占い(列王記下1章1節)、常軌の逸脱(ホセア4章12節)は、こうした偽りの宗教の多くに見られる特徴となっています。一般に儀式に携わる人の数は限定されておらず、どのような神への儀式でも男女双方が参加して、不道徳行為を行っていました。




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