並行法

交差配列法

表象

両義性



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2000/ 3/ 9  両義性UP
2000/ 1/28  交差配列法(カイアズマス)、表象UP
1999/11/24  並行法UP


 詩篇は詩歌という名称で旧約聖書の一部をなしています。また一般には、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道の書、またソロモンの雅歌の5つの文学書と呼び、詩歌的色彩の濃いものとしてまとまって扱っていますが、だからといって旧約聖書の他の部分に詩的表現や、文学的表現が存在していないと考えるのは早計です。例えば、出エジプト5章のモーセの歌、士師記5章のデボラとバラクの歌にも詩歌は含まれています。また予言では、特にイザヤに、内容、形式共に詩歌としての特質が見出されます。

 しかし、こうしたヘブル文学に対する詩歌という呼称は誤解を招きやすく、西洋で言う詩歌と押韻、つまり詩歌で、句や行の始めまたは終わりの、定まった位置においてくり返す、同じ種類の音の有無の点で全く異なっているからです。従って、詩篇を実際にひもとく前に、古代イスラエル人の表現形式についてある程度の基本的な知識を持っておくとかなり理解しやすくなります。中でも注目したい特色は、並行法、交差配列法、表象、両義性の4つです。






並行法


 聖書の詩歌が、現在の人々のものと比較して際立った違いを見せているのは、並行法という表現形式の存在です。つまり、第2行目が第1行目の思想を反復して、対となります。例をあげると、


言ったことで、行なわないことがあろうか。
語ったことで、しとげないことがあろうか。(民数記23章19節)


これに類するものは、単なる繰り返しから強調、対象まで様々です。


わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、
あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。(イザヤ書55章8節)



 この並行法(parallelism)という名称は、1745年のローズ司教の講和によって初めて紹介されたものですが、その中で、この講和は複雑な韻律や特殊な語彙(ごい)、つまり特殊な言語体系に依存する詩歌とは異なっていて、詩歌の意味に基礎を置いているので、どの語に翻訳されていても、それが音節数などにとらわれずに自由な言語形式で書かれた文章であるならば、意味の損失が驚異的に少なくなっていることに、聖文の高等さがうかがえます。ローズ司教はこの並行法は3種類に大別しています。


同義的並行法


第1行で言われたことが第2行で別の言葉で置き換えられて、その2行が対句になっているもの。
天に座するものは笑い
主は彼らをあざけられるであろう。(詩篇2篇4節)


反語的並行法


第1行の思想の逆の意味を第2行で繰り返すことにより、第1行の思想を強調するもの。
若きししは乏しくなって飢えることがある。
しかし主を求める者は良き物に欠けることがない。(詩篇34篇10節)


総合的並行法


第2行が第1行を補足または統一統合していくもの。
このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。(詩篇1篇3節)


 ヘブル詩のこの基本型式は、人に喜びをあたえる言葉が耳ざわりのいい感じで伝えられるようになっています。また、ローズ司教の時代以降も交差並行法など、基本型式をしたものも数多く発見されています(詩篇30篇8〜10節、137篇5〜6節)。交差並行法とは4行連句で、第1行が第4行を、第2行が第3行と並行になったものです。






交差配列法(カイアズマス)


 並行法のCでとりあげた方法は、交差並行法と言い、カイアズマス(CHIASMUS)とも呼ばれます。これはギリシャ語のchi(これはXに対応)から取ったもので、並行する行がちょうどXの形になるところからこの名で呼ばれています。詩篇124篇7節を例をあげて見ると、


Our soul is escaped われらの魂は逃れる
as a bird 鳥のように
The snare is broken, わなは破られ
Out of the snare of わなを逃れて
the fowlers 野鳥の(わなを)
And we are escaped われらは逃れる


 カイアズマスにはじめて注目したのはドイツとイギリスの先駆者的神学者で、19世紀のことです。しかしこの原則が世の人々の目に留まるまでには、1930年代の熱烈な解説者である、ニルス・ルンドの登場を待たなければなりませんでした。しかし今日では、この技法に関する論文はよく見られているようです。では、何が注目に値するのでしょうか。聖書を探求する上で最良の方法は、カイアズマスの例を丹念に検討してみることです。詩篇3篇7〜8節を取り上げてみましょう。以下はヘブル語からの直訳です。


Seve me, O my god,for thou has smitten all my enemies on the cheek-bone
The teeth of the wicked thou has broken to Jehovah, the salvation


 英語の文法のわかる方なら、なんてぎくしゃくした節であるかおわかりになることでしょう。しかしよく見ていくと、ちょっと見ただけでは見分けのつかない、ひとつの形が現れてきます。つまり、語が特定の順序に従って同じ意味の語が逆の順序で繰り返されています。以下のように書くとわかりやすいでしょう。


a Save me わたしをお救いください
b O my God わが神よ
c for thou has smiiten あなたは打ちました
d all my enemies わたしのすべての敵を
e on the cheek-bone ほおを
e the teeth 歯は
d of the wicked 悪しき者の
c thou has broken あなたは折られました
b to Jehovah 主のものです
a the salvation 救いは


 こうして見ると、同義語の繰り返しが単なる偶然ではないことがわかります。これは、詩篇の作者の思想の流れが、逆の順序で繰り返されています。このようにして聖書研究者たちは、同じパターンに従った例を随所に見つけますが、このカイアズマスの発見が近代における他のいかなる発見にも増して聖書文学に深い洞察を与えたと言っても過言ではないでしょう。カイアズマスの中でも、創世記7章21〜23節などは比較的わかりやすくなっています。これらも前回同様ヘブル語からの直訳です。


There died on the earth 地の上のものは死んだ
b all birds すべての鳥
c cattle, 家畜
d beasts and creeping things 獣と這うもの
e man
f all life すべての生き物
g died 死んだ
g and was destroyed そして滅ぼされた
f Every living thing すべての生ける物
e both man, 人の
d creeping things, 這うもの
c cattle, 家畜
b birds,
a were destroyed from the earth みな地からぬぐい去られた


 他のカイアズマスはもっと複雑なものがあります。
 次に、カイアズマスが単純な繰り返しだけに終わっていないことを言っておきましょう。 つまり、繰り返しによる強化が加わって、後半をもって初めて完結となります。 従って、ちょうど中間の所を境目にして流れが変わり、より大きく力強い、強化された概念が後半に登場するわけです。 カイアズマスは短い句に限定されず、長い句に秩序と強調と統一性を与えるためにも用いられます。 詩篇58篇がその例です。ここでは構造を見る上で英語だけを載せています。


a Do ye indeed O God speak righteuosness ?
Do ye judge uprightly , O ye sons of man ?
b Nay in the heart ye work wickedness ,
Ye weight out the violense of your hands in the earth
c The wicked are estranged from the womb....
d Their poison is like the poison of a serpent....
e O God break their teeth in the their mouth ;
e the great teeth of the young lions break out O Jehovah
d They shall melt away like waters , like a snail will melt as it gose along...
c Abortions of a women that have not beheld the sun...
b The righteous shall rejoice when he seeth the vengeance ;
he shall wash his feet in the blood of wicked.
a And men shall say , there is a reward for righteousness .
Surely there is a God that judgeth the earth


 前半の斜字体と後半の斜字体を比較してみると、交差形式がとられており、またこの対称により思想が強化されているのがわかります。この語は、カイアズマスによって調和と統一が保たれて、しかも華麗なものとなっています。すべての句が対になっていて、いかなる思想も均衡のとれない状態のまま放置されていることはありません。それどころか、ひとつの思想がひとつの点から次の点へとなめらかに移行して、また元に戻っています。古代イスラエル人にとってこれは美しいものであって、詩として完成に近いものでもあり、かつ霊感に満ちたものといえます。

 この詩篇58篇の構造を眺めていてもうひとつ気づくのは、カイアズマスの分岐点の重要性です。
 分岐点、つまりこの詩の中心に据えられた祈りがいかに鮮明に浮き彫りにされているかを注目してください。祈りがこの詩の中心に据えられたのは、主への祈りに万物をくつがえす力があることを示すためです。祈りの後で悪しき者の力は消えてなくなり、それに対して正しい者には報いがあります。言うまでもないことですが、カイアズマスの発見は聖書研究者に数々の課題を残しました。

  まず聖書の本質についても再考を促しており、文法上で不明瞭なだった多くの箇所か明らかになって、まだ統制がとれてないとされていた箇所も見直されるようになってきたようです。 ここで大事なのは、再び聖書を研究するにあたり、異文化の文学を判断する際には嗜好、あるいは願望を持ってはいけないということです。 カイアズマスがヘブル文学独特のものであり広くゆきわたっている以上、聖書を研究する時にはそれらを考慮にいれて古代イスラエルの文学作品を吟味するとよいでしょう。






表象


 象徴と表象のページで説明したように、旧約文学の特徴は表象(シンボル)にあります。 得に詩歌には比喩と心象がふんだんに用いられています。頭韻、誇張法、直喩、隠喩、擬人法、換喩(転喩)など、ありとあらゆる修辞法が駆使されています。ある注解者はこのように語っています。

 「『東洋は東洋。西洋は西洋。ふたつが交わることはない。』とルドヤード・キプリングは言ったが、これは至言である。よく我々は聖書をイギリス人かアメリカ人の書物のように考え、その言葉を自分自身の生活環境や、物の考え方に基づいて解釈してしまうことがある。 しかし聖書は、東洋の書物である。 何世紀も前に東洋人がおもに東洋の人のために記したものである」

 ヘブル語の特質を表すものとして、心象表現ほど明確なものはほかにありません。天と地を貢物の下に据え、明けの明星からは音楽を、処女のあかりを必要としなくなった花婿からは光を盗みます。またその永遠の夏は消えることがなく、雪は決して汚れることはありません。 心象はたけり狂う海を沈め、雲や風の翼に乗ってかけまわります。 また黄金を豊かに、没薬を香り豊かに、乳香をさらに甘くします。 羊飼いが捧げた捧げ物は決して死を味わわず、その群れは緑の牧場に憩います。 刈り入れのパンは尽きることがなく、油は絶えず、ぶどう酒はいつも新しい。 人の息が続く限り、心象における永遠の言葉は心からの祈りをつづります。 心象の触れる糸は神の竪琴なのでしょう。

 ヘブル語のリズムは、この世という足かせに捕らえられた体が刻む、一様な鼓動ではありません。 魂に天の音楽を持つ者のみが感じる、霊の高まりの壮厳な躍動なのです。 それは韻律という次元を超越したより高い、新たな次元に昇ります。 神を礼拝する者が霊とまこととを持って礼拝する所です。その対象は至高者である天地の神であり、神や愛に飢え渇く者の泉である存在です。 そしてその偉大なテーマは、


生ける神との個人的な出会いといえるでしょう。






両義性


 ヘブル文学の中で難解なものとして挙げられるのが、「意味の両義性」です。つまり人物の心象の使用や事物の表現に際して、二重の意味を持つものが頻繁に使用されています。これは秘儀言語と似たものと言えます。


秘儀言語とは、特定の人のみに理解できるように意図された言葉です。


 例えばある人が、一つのグループの中のある人にしか解らない事を話したとすると、その言葉が「秘儀言語」となります。これと同じ技法が旧約聖書の中でよく用いられています。霊的に特に重要なメッセージが、明らかに世俗的な、もしくは霊的にあまり大切ではないと思われる文の中に置かれていたりします。しかし、霊的なことを第一に考える人や霊的感受性の強い人には、第二の、つまりより重要な意味のほうが明確に浮き出て見えます。イザヤは「バビロンの王」に対して「あざけりの歌」を書きました(イザヤ書14章4節)。 これはやがてイスラエルの第一の敵、そして後にはイスラエルを滅ぼす者となる帝国の統治者への、見事な批判となっています。

 この凋落の予言の中に次のような部分があります。

 「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった(イザヤ14章12節)。」

 大方の学者は、ヘブル語で「輝ける星」もしくは「明けの明星」の意味であるルシフェルが、バビロンの王の詩名であると考えています。それは、王とその重臣たちがよく「星」と呼ばれていたからです。その解釈の場合、イザヤ14章4〜22節は確かに筋が通ることになります。しかし、ルシフェルはサタンの名称であり、天から落ちたとは反逆と戦いの後に神のもとから追放されたことを意味します。またバビロンもこの世、つまりサタンの領土と解釈できます(黙示録17章5節)。

 ではイザヤ14章4〜22節を、ルシフェルサタンバビロンがこの世だとしてもう一度読んでみましょう。先と同様に筋の通ったもう一つの意味が明らかになってきます。では、どちらの解釈が正しいのでしょうか。


答えは、これがヘブル文学を解くひとつの鍵となりますが、両方が正しいのです。


 シオンについての予言も、この両義性の例です。シオンはエルサレム市の一般名称でしたが、ちょうどワシントンやモスクワがアメリカ合衆国やロシアを指すように、契約の民をも意味するようになりました。このシオンについては、古代イスラエルを指すとする学者が多いようです。それは確かに正しいのですが、古代だけではなく、これは近代のシオンをも意味しています。そうするとイザヤ2章1〜4節のような聖句の意味するところは更に深遠なものとなります。



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