ハバクク書 研究解読



第1章1節 第1章2〜4節
第2章4節
第3章1〜3節 第3章4〜20節



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2000/ 8/ 2  第3章1〜3節、4〜20節 UP
2000/ 7/31  第2章4節 UP
2000/ 7/30  第1章1節第1章2〜4節 UP



第1章1節

1節 預言者ハバククが見た神の託宣。


 ハバククは、カルデヤ人が歴史に登場した後の人と見て間違いはないでしょう。多くの学者は、ハバクク書が書かれたのは、ネブカデネザルエジプトを破った紀元前605年のカルケミシの戦いから、597年の最初のユダヤ人国外追放までの間と考えています。その記録の内容から、彼はエルサレムに住んでいたと考えられています。書物から分かること以外に、ハバククについては何も知られていません。彼に関する伝承は伝説的な色合いが濃いものであり、信頼性に乏しいのが現状といわれています。しかしながら、ハバククは宗教の世界において最も高貴で、洞察に富む言葉を残した偉大な預言者として知られています。




第1章2〜4節

2節 主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞き入れて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。
3節 あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災いを見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起こっている。
4節 それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。


 いつの世の預言者も同じですが、ハバククはなぜが自分の祈りに応えてくれないのかを考えました。神を信じる人は誰でも、時に見捨てられたという思いを味わったことがあるでしょう。後のイエス・キリストもそうした孤独を一度ならず味わっています(マタイ27章46節)。エリス・T・ラスムッセンはハバククの抱いたジレンマを次のように語っています。

 「ハバククの苦悩が始まったのは、アッシリアによる北王国の征服と、バビロンによる残りのユダ族補囚の間、ユダヤ人の衰退期であったと思われる。同じ世紀のヒゼキヤの宗教改革や100年後の紀元前620年頃のヨシヤの改革はユダにしばしの正義を呼び戻したが、いつものことながら、正義の旗手がいなくなると、政治や道徳、宗教の腐敗がすぐに出現したのである。イスラエルが誓約した進行の規定や約束を緩和しようと望む自由主義者や自由思想家が誘発した宗教面での妥協は、「敬虔な者」、「忠実な者」に対する嘲笑や追害をもたらした。こうした状況下でエレミヤは悩んだが、ハバククが召された時も同じだったであろう。かくしてハバククは、不正、不当、略奪、暴力、紛争、各地の争いに対して声を上げる。正義の働きも法の執行も義人が悪人に囲まれていては果てしなく遅滞すると思われるからである。」

 ハバククの問い掛けはひとつの需要なことを示しています。それは、


神から多く与えられた者からは、神から多く求められ、与えられたものに対して罪を犯すものにはいっそう大きな罪の宣告を受ける


ということを示しています。

 聖書の原則として、人が啓示を求めて神の名を呼べば、神はその答えを人に与えることを教えています。そして神から与えられた言葉を人が守らなければ、その人は神に背く者となってしまいます。神の正義と裁きとは、その神の律法に付随する罰であると言えるでしょう。特に、神の恩恵にあずかっている聖徒は大きく祝福されています。しかし、彼らが神の律法を守らず、またすべて神の言葉に聞き従おうとしなければ、この世が彼らに勝つ、つまり世俗の悪に染まると警告されています。聖書の歴史を見るとよくわかりますが、神からの恩恵が大きければ大きいほど、堕落した時の有り様はひどいものとなっています。キリストはこのことに対しマタイ5章13〜16節で、塩のたとえで教えています。




第2章4節

4節 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。


 神はハバククの祈りに対して、4節を持って答えており、ある注解者はこのように記しています。

 「幾分あいまいだが、旧約聖書のすばらしい言葉の一つである。その本質的な意味はこうである。カルデヤ人とユダの民の間には道徳的、霊的な違いが存在する。富と力を誇り、他国との駆け引きに狡猾で傲慢なカルデヤ人は、永続性、不変性を唯一保証する道徳的、霊的な特性に欠けている。しかるに主の民は、未来を保証する正直や忠実、霊的な洞察力を持っているはずなのである。『義人はその信仰(より正確には忠実さ)によって生きる』という預言者の言葉は、永遠という観点から述べられたものなのである。」




第3章1〜3節

1節 シギヨテノの調べによる、預言者ハバククの祈。
2節 主よ、わたしはあなたのことを聞きました。主よ、わたしはあなたのみわざを見て恐れます。この年のうちにこれを新たにし、この年のうちにこれを知らせてください。怒る時にもあわれみを思いおこしてください。
3節 神はテマンからこられ、聖者はパランの山からこられた。その栄光は天をおおい、そのさんびは地に満ちた。


 「シギヨノテ」は弦楽器か、恐らく歌の伴奏に使われた音楽表現の一種と言われており、ハバククの祈りは、音楽に合わて神殿の中で使われたものと思われます。「セラ」は歌唱者や朗詠者に送る合図です。この語が詩の中で使われているということは、ハバククの祈りが曲に付随していたことの証拠となります。




第3章4〜20節

17節 いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。
18節 しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。
19節 主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。


 翻訳された英語からはうかがわれませんが、この章全体はすばらしいヘブライ詩となっています。ハバククは、モーセヨシュアの時代の出来事に幾度も言及していて、聖書の出来事を知っている人は、何のことを言っているかがわかることでしょう。この祈りの主題は、エホバが昔のようにイスラエルを支えることを意味しています。ハバククの信頼は神にあって揺るぐことがありませんでした。

 ハバククは神との対話という経験後、霊感を受けて神への賛美と信頼の歌を作りました。彼は神の力と栄光に畏怖を抱きつつ、自然をあまねく統べたその圧倒的な力を詩的に描き、あらゆる敵に打ち勝つ力について語っています。彼はこの書の中で自分を襲うかもしれない災難を挙げていますが、それでも18〜19節において力強く断言しています。


ハバククの教えが現代の聖徒にとって有益な刺激剤となっているのは、人生の浮き沈みを
ものともしない、神へのこの強い信仰のゆえであるからでしょう。



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