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2004/ 3/27  序文追加
2000/ 6/23  序文追加


流浪の民の帰還


エズラ記の中のエズラは、旧約聖書中の祭司であり、学者です。

 一部のユダヤ人バビロンでの補囚の境遇からエルサレムへ連れ戻しました。紀元前458年に、エズラはペルシャの王アルタシャスタから、自ら希望するユダヤ人を補囚の境遇からエルサレムへ連れ帰る許しを得ました(エズラ記7章12〜26節)。エズラの時代より以前は、「律法」と呼ばれる文書化された聖典の朗読は、ほぼ祭司が掌握してましたが、エズラの助けによってどのユダヤ人も聖文を手にすることができるようになっています。

 「律法の書」の公開朗読は最終的にはユダヤ国民の生活の中心となりました。エズラの最も偉大な教えは、心の準備をして神の律法を調べそれを行い、またそれを人に教えるという彼自身の模範的態度がその教えといえるでしょう。

 第1〜6章には、紀元前537年のクロス王の勅令とゼルバベルの下に行われたユダヤ人の帰還など、エズラがエルサレムに到着する60年から80年前に起きた出来事が記録されています。
 第7〜10章には、エズラのエルサレムへの帰還の様子が描かれています。エズラは同行した民と共に守りを求めて断食をして祈っていました。彼らはエルサレムで、以前にゼルバベルに率いられて帰ったいたユダヤ人男性の多くが聖約外の結婚をし、自らを汚しており、エズラは彼らのために祈り、妻を離縁することを誓わせました。エズラの生涯については、ネヘミヤ記に記されています。



 聖書の各所の配列は年代順ではありません。大体は、歴史書であるか預言書であるかによって置かれる場所が決められています。エズラ記とネヘミヤ記は、本来なら歴代志を含む編さんの一部でした。歴代志下36章22〜33節とエズラ記1章1〜3節は、ほぼ同一です。エズラ記とネヘミヤ記は、実際には旧約聖書の歴史書の最後の2書に相当しています。同時代の預言者ではゼカリヤハガイがいて、マラキは、エズラ、ネヘミヤの時代と、新約聖書の始まる時代の間にイスラエルで働いたことが知られている唯一の預言者です。

 エズラ記とネヘミヤ記には、エルサレムへの最初の帰還からネヘミヤが2度目のユダ総督就任を終えた時(紀元前538〜400年)までの出来事が述べられています。エステル記の王妃エステルがペルシャにいたのは、エルサレムにおける神殿再建からエズラの帰還(エズラ記7章1節)までの間の時期です。

 神はユダヤ人の帰国を可能にするために、ある人を予任しています。その人はイスラエルの家の人ではありませんが、それでも神は彼を生まれる前からイスラエルを祝福するために選らんでいたと考えられます。その人とは、クロス大王として歴史に知られている人でした。イザヤ書44章48節と45章1節にはクロス王のことが書かれてあります。彼が聖書を読んでいて、そこに自分の名前が記されてあるのを見た時に、どのような思いがあったのでしょうか。そこには、彼が誰かのために大きな事をするということが書かれてありました。彼にとってその事は非常に感慨深い出来事だったことでしょう。




 聖書で最も頻繁に繰り返されている教えの1つは、エズラが明確にしているとおり、神はイスラエルの選ばれた民だけではなく、全世界の国々のことに積極的に関わっているということです。エズラ記とネヘミヤ記に記されたイスラエルの窮状は、通常ではあり得ないと考え勝ちです。彼らは強国に周りを囲まれ、しかも自らは束縛された小さい国の民でしかなく、そのような民がどのように存続していけるかは彼らにとっていつも悩みの種でした。打開策は、将来の計画を待ち、現在見守っている至高の神の聖なる介入しかありません。ユダヤ史のこの時期は、地上の巨人となるべきこの国民の衰退期です。国家に言われることは人にも当てはまり、自分が窮地に陥ったときにどれだけ神に信頼し、心静かにすることが重要であるということを考える必要があるでしょう。ある教会指導者は次のように話しています。

 「摂理者の(いわゆる)不思議な見えざる手は、神の業のすべてに現れている。ここにおいでの皆さんのうち、今朝くしけずった髪の毛のように小さくささいなことにも主が気づいておいでのことを、しばしの間でもだれが自覚できるであろう。だがそうである。髪の毛一筋さえ、天父に知られずして地に落ちることはない。


イエスは古代の使徒たちに彼らを案じる御自分の心を悟らせるために最も小さいことさえ主の目を逃れられないことを教えようと、いちばんつまらないと見なされているものを選ばれた


 主はこう言っておられる。

 『からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている』。

 この神がいかにして地上の国々を支配、統御し、個々の人の行く末を決められるかを、我々は知りうるだろうか。我々がもしまだこの教訓を学んでいないならば、それは眼前にあり、そこから学ぶべきである。貧困、病、苦痛、欠乏、落胆、喪失、苦難、または死さえも我々を神の業から毛ほども動かすものではなく、永遠の命の原則から離すものでもないことを、我々がまだ学んでいないなら、それを学ぶべきである。このより物事を救いの光明の中で処するべきことを、もし学んでいないなら、我々はそれを学ぶべきである。金銀の山を持ち、貴重な品々を蓄積し、自然を意のままにし、千の丘の家畜を動かせたとしても、もしその少しを地上の神の王国の建設にささげるべきことを知らなかったなら、我々はそれを学ぶべきである。」

 エズラが、移民をユダへ連れて行く許可をペルシャの君主に願うと、「その神、主の手が彼の上にあったので、その求めることを王はことごとく許した(エズラ7章6節)」、ので 「エズラは心をこめて主の律法を調べ、これを行い、かつイスラエルのうちに定めとおきてとを教えた(エズラ7章10節)」。とあります。これはエズラが神の手にある霊感を受けて優れた器となったことを示しています。エズラは移民とともに、高額な金銀、貴重品を携えて行きますが、護衛の大軍がなければ強盗団の横行する道筋を安全に通行することはできません。エズラが王に護衛を要求できなかったジレンマを、聖書学者アダム・クラーク次のように述べています。

 「彼は自分の礼拝の対象である神を、この上なく力強く、忠実に従う者たちに厚い愛情持った御方と心に描いていた。だからエホバの神殿を再建し、礼拝を再開するというのが明らかなときに、自分の告白と矛盾して、道中の護衛に王の兵士を頼むわけにはいかなかった。それで、敵のえじきにならないで済むため主の護衛が得られるように、断食と祈りによって主に願うことが必要だと思った。そうして彼らの告白した宗教を、異教徒たちは偽りで無益だと見なすのである。この義人が、自分の身の安全よりも神の栄光を強く望んでいたことが分かる。」

 エズラ8章21〜23、31節と箴言3章5〜6節を読んで心に留めておけば、何か難しい場面に遭遇したときに最適な行動をとることができるでしょう。



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