エゼキエル書 第20〜24章研究解読



第20章3、31〜32節 第20章45〜48節
第21章3〜4節 第21章10、13節 第21章21節 第21章26〜27節
第23章
第24章15〜27節



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第20章3、31〜32節

3節 「人の子よ、イスラエルの長老たちに告げて言え。主なる神はこう言われる、あなたがたがわたしのもとに来たのは、わたしに何か尋ねるためであるか。主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしはあなたがたの尋ねに答えない。
31節 あなたがたは、その供え物をささげ、その子供に火の中を通らせて、今日まですべての偶像をもって、その身を汚すのである。イスラエルの家よ、わたしは、なおあなたがたに尋ねられるべきであろうか。わたしは生きている。わたしは決してあなたがたに尋ねられるはずはないと、主なる神は言われる。
32節 あなたがたの心にあること、すなわち『われわれは異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない。


 この部分は、イスラエルの長老たちが神の言葉を尋ねにエゼキエルのもとへ来ても、答えが得られなかった(3節)理由が20章に記されています。神はエゼキエルに、神自身がイスラエルと交わした聖約や与えてきた祝福、民がこれまでどのように背いてきたかを思い起こさせるように言いました。そして、先祖たちと全く同じような彼らの現在の背教状態に気づかせるように命じています(31〜32節)。もし長老たちが本当に神の言葉を求めていれば、すでに預言者たちから聞いていることに従っていたはずであって、彼らの行為はただ神を欺くだけのものでした。


神はすでに与えられているものを拒む人々には、それ以上与えられることをしない


ということを示しています。




第20章45〜48節

45節 主の言葉がまたわたしに臨んだ、
46節 「人の子よ、顔を南に向け、南に向かって語り、ネゲブの森の地に対して預言せよ。
47節 すなわちネゲブの森に言え、主の言葉を聞け、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたの青木と、すべての枯れ木を焼き滅ぼし、その燃える炎は消されることがなく、南から北まで、すべての地のおもては、これがために焼ける。
48節 すべて肉なる者は、主なるわたしがこれを焼いたことを見る。その火は消されない」。


 南の森とは、ユダ南王国内のネゲブ、現在のイスラエル南方に位置する地域を表す比喩表現であり、森は住民または大勢の人々、木は個々の人を示すたとえとなっています。青木は義人、枯れ木は不信心な人(ルカ23章31節)、神の燃やす火は戦火の比喩です。消すことのできないすさまじい火の勢いを見て、全ての人は神が火をつけたこと、裁きとして火が送られたことを知り、その火は目的を達するまで決して消えることがないという預言内容です。神はさらに次の章で、ユダに下る天罰の戦いの恐ろしさを述べています(21章1〜17節、21章10、13節)。またこの部分には、


義人はすべての裁きから逃れられるわけではないことを示しています


 第21章3〜4節の説明には、それに対する答えが記してあります。




第21章3〜4節

3節 イスラエルの地に言え。主はこう言われる、見よ、わたしはあなたを攻め、わたしのつるぎをさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪しき者も断ってしまう。
4節 わたしがあなたがたのうちから、正しい者も悪しき者をも断つゆえに、わたしのつるぎはさやから抜け出て、南から北までのすべての肉なる者を攻める。


 義にかなった人々が悪人の中に住んでいるとき、その隣人の不義の結果である苦しみを義人たちも経験する場合があります。時には、罪のない人が罪人の悪事のために苦難を強いられ、事情を知らない人から見ると、あたかもその人も悪人であったかのように見られてしまうことがあります。近代の預言者再臨前の裁きについて語った中で、義人に及ぶ苦難について次のように述べました。


「悪人が苦しむ一方、聖徒はすべての裁きを免れるというのは間違った考えである


 なぜならば肉なるすべての者は苦しみの下におり、『義人はほとんど逃れ得ない』。それでも聖徒たちの多くは逃れるであろう。正しい者は信仰によって生きるからである。しかし多くの義人が肉の弱さのために病などのえじきとなるであろう。しかし、彼らは神の王国に救われる。だから、


あの人たちは罪を犯していたから病や死に倒れたのだなどというのは信仰にもとる考え方である。


 すべての肉なる者は死に定められているからである。また主は『自分が裁かれないように、人を裁くな』と言っておられる。」


 また同様のことについて、聖書学者クラークがエゼキエル21章4節についての注解の中で、その理由について次のような参考となる説明をしています。

 「そして、ネブカデネザルによって包囲され、食料がすべて食べ尽くされたとき、もはや町にパンはなく、義人は悪人とともに苦しんだはずである。なぜなら、パンのないとき、奇跡以外に彼らを生かすものはなかったからである。また一般的に死を喜ぶ人はいない。しかし、天国に早く来すぎたと不平を言う人はいないし、いようはずもない。さらに、もし神が悪人以外にだれも捕虜になることを許さなかったとしたら、模範を示し、悔い改めを説き、罪をとがめ、罪人に対して神の許しを伝える者が1人もなく、情況はまったく絶望的になっていたことであろう。


しかし神は憐れみにより、悪人が完全に見捨てられることのないように、救いの手がまったく届かないことのないように、多くの義人をも捕虜にされた


 それでエゼキエルやダニエル、またほかにも、預言者や義人たちが土地から切り離され、捕虜となって行った。このことにより、神の栄光と民の幸いがどれほど増し加えられたことか。


悪人とともに義人も断たれたことで、異教の地にさえ救いの種がまかれたのである


 わたしたちはこの点について、数多くの詩篇、エゼキエル書のすべて、ダニエルのすべての預言、シャデラクメシャクアベデネゴのすばらしい模範、またネブカデネザル(ダニエル3章28〜29節)、クロス(エズラ1章14節)、ダリウス(エズラ6章1〜15節)などがまことの神の宗教に行為をもって布告した勅令に対して、神に感謝しなければならない。」



第21章10、13節

10節 殺すためにといであり、いなずまのようにきらめくためにみがいてある。わたしたちは喜ぶことができるか。わが子よ、あなたはつえと、すべて木で作ったものとを軽んじた。
13節 これはためしにすることではない。もしあなたが、つえをあざけったら、どういうことになろうか」と主なる神は言われる。


 破壊力を意味するネブカデネザルの剣は、ユダに約束された勢力や権力(創世記49章9〜10節)を侮辱するものでした。その剣は、力を振るって他の国々ををなぎ倒したと同じように、ユダの王政を破壊しています。(第20章45〜48節




第21章21節

21節 バビロンの王は道の分れ目、二つの道のはじめに立って占いをし、矢をふり、テラピムに問い、肝を見る。


 偶像礼拝者が用いる占いの3つの方法は、何本かの矢を振り混ぜて、その中の1本を引いたり、倒れ方を見たりする方法と、いけにえの動物の内臓を調べる方法で、カード占いやお茶の葉占い、手相見と同じ愚かしい習慣です。ネブカデネザルがエルサレムを征服したのは、矢や偶像や肝臓が吉兆を示したためではなく、神がそれを許したためであると言われています。




第21章26〜27節

26節 主なる神はこう言われるねかぶり物を脱ぎ、冠を取り離せ。すべてのものは、そのままには残らない。卑しい者は高くされ、高い者は卑しくされる。
27節 ああ破滅、破滅、破滅、わたしはこれをこさせる。わたしが与える権威をもつ者が来る時まで、その跡形さえも残らない。


 この箇所は、ユダは倒れ、イスラエルとすべての肉なる者を治める権威を持った者であるイエス・キリストが来る時まで、ユダの王は地位を失うということが記されています(ミカ書4章7節、黙示録11章15節)。




第23章

4節 彼らの名は姉はアホラ、妹はアホリバである。彼らはわたしのものとなって、むすこ娘たちを産んだ。その本名はアホラはサマリヤ、アホリバはエルサレムである。


 エゼキエル23章は、10部族を表す「サマリヤ」とユダを表す「エルサレム」の偶像礼拝について語っている部分です。淫行をはじめ汚れた性的行為や女性の体についての言及はすべて比喩です。エホバを夫にたとえ、イスラエルを妻に見立てるこの比喩的表現は、同じ形でホセアエレミヤエゼキエルなども用いているものです。不義も私通も内容的にはほとんど同じ言葉であり、どちらも2つの意味を持っています。1つは夫婦(姦淫)、もう1つは礼拝(偶像礼拝)に関係した意味となっており、エゼキエルは両方の意味を対照してどちらからも教訓を引き出しています。聖書学者ダメローは、この比喩で言われている関係を次のようにまとめました。

 「エルサレムとサマリヤの偶像礼拝や外国との同盟が、ここでは16章で使われているのと同じ強烈な比喩で描写されている。アホラ(サマリヤ)とアホリバ(エルサレムは姉妹で、二人とも若いときに結婚し(4節)、そして裏切った。サマリヤはまずアッスリヤ人を(5〜7節)、次にエジプト人を(8節)恋人にし、最後にアッスリヤ人によって殺された(9〜10節)。姉の末路を見ても平気なエルサレムは、まずアッスリヤ人、次いでバビロニア人を愛人にした(12,16節)。バビロニア人が離れて行くと、前の恋人エジプトに戻ったが(17〜21節)、妹も姉と同じように、前に自分が捨てた愛人たちによって殺されてしまうのである(22〜35節)。姉妹の罪と裁きが再び語られている(36〜49節)。」

 17節の「その心は彼らから離れた」と、22節の「あなたの心がすでに離れたあなたの恋人ら」、28節の「あなたの心の離れた者」は、一見すると「姉妹の心は偽りの神である恋人を離れた」というように見えますが、本来の意味は「恋人たちによって神から離れた」となります。




第24章15〜27節

16節 「人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。
17節 声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。
18節 朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じられたようにした。
19節 人々はわたしに言った、「あなたがするこの事は、われわれになんの関係があるのか。それをわれわれに告げてはくれまいか」。
21節 『イスラエルの家に言え、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたがたの力の誇り、目の喜び、心の望みであるわが聖所を汚す。あなたがたが残すむすこ娘たちは、つるぎに倒れる。
22節 あなたがたもわたしがしたようにし、口をおおわず、嘆きのパンを食べず、
23節 頭にずきんをかぶり、足にくつをはき、嘆かず、泣かず、その罪の中にやせ衰えて、互いにうめくようになる。
24節 このようにエゼキエルはあなたがたのためにしるしとなる。彼がしたようにあなたがたもせよ。この事が成る時、あなたがたはわたしが主なる神であることを知るようになる』。


 神はエゼキエルの妻を意味する「あなたの目の喜ぶ者(16節)」を取り去りましたが、嘆いてはならないと命じています。灰をかぶることやはだしになること、唇を覆うこと、嘆きのパンを食べることはどれも悲しみのしるしとして行われてきました(ヨシュア7章6節、サムエル下13章19節、イザヤ20章2〜3節、ミカ3章7節、ホセア9章4節)。エゼキエルがこのように最愛の人の死に際して哀悼や嘆きのしるしをすべて慎んでいた時、民はその異常行為に何か意味があるのだろうと考えて、何を言いたいつもりであるのかをエゼキエルに聞いています。するとエゼキエルは神の言葉を彼らに告げました(20〜24節)。

 それは、最愛の妻が自分から取り上げられたように、これからそう遠くない時期にバビロンによって一番大切な聖なる神殿が国から取り去られ、子どもたちは剣によって殺されるといった内容です。それが起るときに、彼らは今エゼキエルがしているように、嘆きも泣きもせず、ただ自分たちの罪ゆえに沈黙の中で思い悲しみに沈んで、互いに向かってうめくことをするであろうという、恐ろしくも悲しい出来事が起こるとの預言です。

 エゼキエルの妻がこの時点で天に召されたのは、この後に起る軍隊の包囲による飢餓や疫病、進軍による討伐や捕囚、処刑といった恐ろしい行為に遭わずに済み(列王記下25章)、またエゼキエル自身は後の悲惨な出来事を知っていたがゆえに、妻の身の安全をどうするのかといったことを考えると、これでよかったのかも知れません。




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