エゼキエル書 第14〜19章研究解読



第14章13〜20節
第15章1〜8節
第16章30〜34節 第16章44〜52節
第17章
第18章1〜20節 第18章24、27節
第19章1〜9節



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2004/ 5/14  第17章、第18章1〜20節、第18章24、27節、第19章1〜9節 UP
2004/ 5/13  第16章44〜52節 UP
2004/ 5/12  第15章1〜8節、第16章30〜34節 UP
2000/ 5/ 6  第14章13〜20節 UP




第14章13〜20節

13節 「人の子よ、もし国がわたしに、もとりそむいて罪を犯し、わたしがその上に手を伸べて、そのつえとたのむパンを砕き、これにききん送り、人と獣とをそのうちから断つ時、
14節 たといそこにノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみであると、主なる神は言われる。
15節 もしわたしが野の獣にこの地を通らせ、これを荒れさせ、これを荒れ地となし、その獣のためにそこを通る者がないようにしたなら、
16節 主なる神は言われる、わたしは生きている、たといこれら三人の者がその中にいても、そのむすこ娘を救うことはできない。ただ自分を救いうるのみで、その地は荒れ地となる。
17節 あるいは、わたしがもし、つるぎをその地に臨ませ、つるぎよ、この地を行きめぐれと言って、人と獣とを断つならば、
18節 主なる神は言われる、わたしは生きている、たとい三人の者がその中にいても、そのむすこ娘を救うことはできない。ただ自分自身を救いうるのみである。
19節 あるいは、わたしがもし、この地に疫病を送り、血をもってわが憤りをその上に注ぎ、人と獣とをそこから断つならば、
20節 主なる神は言われる、わたしは生きている、たといノア、ダニエル、ヨブがそこにいても、彼らはそのむすこ娘を救うことができない。ただその義によって自分の命を救いうるのみである。


 バビロンのエゼキエルと同時代のダニエルは、当時地上で最も義しい人のひとりで、神に深く愛されていました。バビロンの王ネブカデネザルや、ペルシャの王ダリヨスからも重んじられています(ダニエル2章48節、6章1〜3節)。神はノアヨブを、神の戒めを守るという点で完全に正しかったという意味で「完き人」と呼んでいます(創世記6章9節、ヨブ記1章1節、8節、2章3節)。しかし、エゼキエルはその彼らさえ、ユダの民を罪の結果から救えなかったと言いました。人の行く末を決めるのは各自の行いであって、他人の義を当てにすることは意味がありません。また、


民の心が神に向かうかどうかは、神の代弁者の個人的な力によるのではなく、一人一人が神のみたまのささやきや証に喜んで応えるか否かにかかっています。


 これに関連する箇所はルカ16章19〜31節にラザロと金持ちの話があります。




第15章1〜8節

6節 それゆえ主なる神はこう言われる、わたしが森の木の中のぶどうの木を、火に投げ入れて焼くように、エルサレムの住民をそのようにする。
7節 わたしはわたしの顔を彼らに向けて攻める。彼らがその火からのがれても、火は彼らを焼き尽す。わたしが顔を彼らに向けて攻める時、あなたがたはわたしが主であることを知る。
8節 彼らが、もとりそむいたゆえに、わたしはこの地を荒れ地とすると、主なる神は言われる。


 エゼキエルの時代のエルサレムの住民は、イザヤがぶどう畑のたとえ話(イザヤ5章1〜25節)の中で語った人々と似ています。彼らは実のなる神のぷと゜う畑として作られたのに、実を作らず、ほとんど価値がないと言われるほど堕落していました。良い実がならなければ、ぶどうの木は何の役にも立たないことを、神は預言者エゼキエルの口を通して語っています(2〜5節)。ぶどうの木だけでは、森に生えている木々に勝ることはなく(2節)、良い実をイスラエルが結べば貴重とされますが、実を結ばない木は薪にして燃やすほかはなく、それも質の悪い薪にしかならないことをエルサレムの民にたとえています。




第16章30〜34節

31節 あなたはちまた、ちまたのつじに高楼を建て、広場、広場に台を設けたが、価をもらうことをあざけったので、遊女のようではなかった。
33節 人はすべての遊女に物を与える。しかしあなたはすべての恋人に物を与え、彼らにまいないして、あなたと姦淫するために、四方からあなたの所にこさせる。
34節 このようにあなたは姦淫を行うに当たって、他の女と違っている。すなわち、だれもあなたに姦淫させたのではない。あなたはかえって価を払い、相手はあなたに払わない。これがあなたの違うところである。


 ここでエゼキエルが用いている表現法は、聖書の中でも特に辛らつなものです。エゼキエルは偶像礼拝を姦淫に比較して、ユダは物をもらうために男と通じる遊女よりもまだ悪いと非難し、ユダの行いは遊女よりもびといものでした。価(代価、物)をもらうことをあざけり(31節)、ただ目先を変えて、快楽を得るためだけの目的で他人と通じています(32節)。遊女は相手から者をもらいますが、ユダの場合は相手から物をもらわない(偽りの神々はイスラエルに益をもたらさない)ばかりか、かえって相手に(偽りの神々)、代価を払いました。このように姦淫にたとえられた偶像礼拝に深くのめりこみ、暴虐行為を招いたユダはそれにふさわしい実である神の厳しい裁きを受けてもそれは致し方ないことです。




第16章44〜52節

45節 あなたはその夫と子どもとを捨てたあなたの母の娘、またその夫と子どもとを捨てた姉妹を持っている。あなたの母はヘテびと、あなたの父はアモリびと、
46節 あなたの姉はサマリヤ、サマリヤはその娘たちと共に、あなたの北に住み、あなたの妹はソドムで、その娘たちと共に、あなたの南に住んでいる。
49節 身よ、あなたの妹ソドムの罪はこれである。すなわち彼女と、その娘たちは高ぶり、食物に飽き、安泰に暮らしていたが、彼らは、乏しい者と貧しい者を助けなかった。
50節 彼らは高ぶり、わたしの前に憎むべき事をおこなったので、わたしはそれを見た時、彼らを除いた。
51節 サマリヤはあなたの半分も罪を犯さなかった。あなたは彼らよりも多く憎むべき事をおこない、あなたのおこなったもろもろの憎むべき事によって、あなたの姉妹を義と見せかけた。


 民衆の罪は、すでに神の激しい懲らしめを受けたサマリヤ(イスラエル北王国)やソドムの罪よりも重く、もはやユダは絶望的な状況に陥っていました。ここの箇所の教えを理解するには、使われている比喩の意味を明確にすると分かりやすくなります。

 「母」と「父」はカナン人の中でも、偶像礼拝においては筆頭格である「ヘテ人(ヒッタイト)」と「アモリ人」のことを指しています。「娘」はユダイスラエルを代表するエルサレムを表し、「夫」はヤハウェです(16章8,32,38節)。「子ども」は異教の邪神モレクにいけにえとして捧げられており、「姉妹」はサマリヤとソドムです(46節)。サマリヤとソドム、エルサレムを暴虐に導いたのは、邪悪な偶像礼拝の精神です。46節に記されている「姉」と「妹」は罪悪の度合いを表していると考えられており、サマリヤの罪がひどく、ソドムの罪のほうが軽かったことを言っています。これ以降にこの章の中で使われている「娘たち」という語の意味は、45節の「娘」とは違っています。ここで使われている「娘たち」はサマリヤとソドムの支配下にある周辺のもっと小さい町々のことを指しています。




第17章

22節 主なる神はこう言われる、「わたしはまた香柏の高いこずえから小枝をとって、これを植え、その若芽の頂から柔らかい芽を摘みとり、これを高いすぐれた山に植える。
23節 わたしはイスラエルの高い山にこれを植える。これは枝を出し、身を結び、みごとな香柏となり、その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣をつくる。


 列王記下第25章7節にはゼデキヤの息子たちの死について記されていますが、真鍮版には息子ミュレクが逃亡したとする記述があります。この17章はそれを証明するかのような預言が記されています。これについてある教会指導者は次のように述べました。

 「ユダ王ゼデキヤがとりことしてバビロン連れ去られたとき、主はミュレクという名前の息子を主の言葉に聞き従う人々ともに連れ出して海を渡らせ、アメリカに住まわせられた。これは、エゼキエル書の17章22節と23節の聖句の成就であった。この〔17章〕を読むと、


ユダヤ人は『高い香柏』、ゼデキヤ王は『こずえ』、若枝の頂から摘み切られた『柔らかい若枝』は王の息子の一人であるということが分かるであろう


 この王子は主によって、選り抜き後アメリカへ導かれたのである。アメリカは、ヤコブモーセが与えた祝福の成就として、ヨセフの部族の子孫に嗣業の地として与えられていた所である(創世記48〜49章、申命記33章)。」




第18章1〜20節

1節 主の言葉がわたしに臨んだ、
17節 その手をひいて悪を行わず、利息や高利をとらず、わたしのおきてに行い、わたしの定めに歩むならば、彼はその父の悪のために死なず、必ず生きる。
18節 しかしその父は人をかすめ、その兄弟の物を奪い、その民の中で良くない事を行ったゆえ、見よ、彼はその悪のために死ぬ。
19節 しかしあなたがたは、『なぜ、子は父の悪を負わないのか』と言う。子は公道と正義とを行い、わたしのすべての定めを守って行ったので、必ず生きるのである。
20節 罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。


 神は一人一人の人間に選択の自由を行使する権利を与えています。従って神の道に生きる人々は救いを得るための努力を続けていく中で、自分の行いに対して責任を持つ必要があります。他人の罪のために罰せられることがないのは、神の道に歩む歩まないを問わず同じ事がいえます。エゼキエルは霊の命と死に関してこの責任の原則を教えるのに、人と子と孫をたとえに使いました。もしこの人が正しければ彼は生きますが(5〜9節)、良い模範を見て良い教えを受けながら悪に向かえば、その子は死に(10〜13節)、「その血は彼自身の帰す(13節)」ことを示しています。その子は自分の罪ために罰せられます。次にその悪い息子の子が父の罪悪を見ても義にかなった生活をすれば、「彼はその父の悪のために死なず、必ず生きる(17節)」、つまり父の罪は子に被らないことをいっています。

 20節はこれらの原則の明快なまとめである、「罪を犯した魂は必ず死ぬ」、言い換えると、


罪を犯した魂は、悔い改めなければたとえ肉体が死んでこの世の務めが終わってももその魂は救われない


という真理を明確にしています。




第18章24、27節

24節 しかし義人がもしその義を離れて悪を行い、悪人のなすもろもろの憎むべき事を行うならば、生きるであろうか。彼が行ったもろもろの正しい事は覚えられない。彼はその犯したとがと、その犯した罪のために死ぬ。
27節 しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義を行うならば、彼は自分の命を救うことができる。


 神は、救われたいと思う人は義にかなった生活を続ける、あるいは続ける努力を死に至る最後まで行う必要があることを明確にしてきました。


以前に義にかなっていたからといって救われることはない


ということについて、教会指導者は次のように述べています。

 「救いに必要な儀式、すなわちバプテスマ聖霊の賜物、神殿の儀式、結び固めなどを受けた人は、交わした聖約に従って生活しなければならない。また信仰をもって堪え忍ばなければならない。監督、ステーク会長、そのほかの役職にあってどんなにすばらしい奉仕活動を行ったとしても、その後の生活でつまずいたり、『最後まで』義にかなった生活を続けなければ、その人が以前にした立派な働きは帳消しになってしまうのである。」




第19章1〜9節

1節 あなたはイスラエルの君たちのために悲しみの歌をのべて


 この比喩の解釈はかなり明確になっていると考えられています。雌じしは、もしも悲劇の命運が定まってしまったユダ王国ではないとすると、ゼデキヤの母「ハムタル」となります(列王下24章8節)。そうすると、最初の子じしは、短期間王位に就いた後にパロ・ネコによりエジプトへ捕らえられて行ったエホアハズになります(列王下23章31〜33節)。エホアハズの跡を継いだのは、ハムタル以外の妻によるヨシヤの子、エホヤキム(エリアキム)です。エホヤキムの次は息子のエホヤキンで、彼がバビロニアに連れて行かれると、母ハムタルの次男であるゼデキヤ(マッタニヤ)が代わりの王となりました。従って彼はこの比喩にあるもう1匹の子じしに相当します。ゼデキヤはネブカデネザルに捕まり、バビロンに連れ去られたので、8〜9節の言葉をネブカデネザルが成就したことになります。



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