エゼキエル書 第1〜3章研究解読



第1章3節 第1章4節、13節 第1章5〜6節、10節 第1章6節 第1章7節 第1章9,10節 第1章15〜21節
第2章9節〜第3章3節 第3章17〜21節 第3章25節



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2000/ 8/ 8  第1章3節 UP


第1章


 から与えられている示現や啓示が伝えるメッセージや精神を、文字によって表現することは全く不可能ではないにせよ、普通の人にとってかなり難しいことです。預言者は自分が書いた記録を通して、何を見、教えられたかを伝えなければなりません。それが天から与えられた神々しい示現を書き留めるときの、エゼキエルの課題でした。しかし、啓示を完全に理解するには、自らもそれを経験するのが最もよい方法でしょう。エゼキエルを含めて、永遠の世界からの訪れや示現を受けた人々は、自分の経験と受けた教えを伝えるのに、象徴、隠喩、直喩、比較などの比喩表現を使っています(ダニエル10章5〜9節、黙示録1章12〜18節、12章1〜6節)。

 エゼキエルは、常人にはとうてい体験できないことを何とか伝えようとして多くの比喩的表現を使っており、彼の言葉を全部字句通りに受け取る必要はありません。例えば「〜のように」「〜のようで」「〜のような」という言葉が頻繁に用いられています。この書をはじめとする旧約の諸書の理解を難しくしているもう一つの要因として、エゼキエル時代のユダヤ人と今の読者との文化的な違いを挙げることができます。




第1章3節

3節 主の言葉がケバル川のほとり、カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった。


 神はエルサレムの宮廷にエレミヤを、バビロンの宮廷にダニエルを、そしてバビロニアの補囚地にはエゼキエルという3人の偉大な預言者を立てました。エレミヤとエゼキエルは祭司の血統であり、ダニエルは王族であったと思われます(ダニエル1章3節)。エレミヤは征服される日を間近にしている王と指導者たちに、ダニエルは征服者に、エゼキエルは捕虜となった人々に、それぞれ警告や教えを伝えて神のために働いていました。

 「神は強い」、または「神が強くされる」という意味の名を持つエゼキエルは、ブジの子でザドクの子孫の祭司です。彼はエホヤキン王が捕らえられた時、ネブカデネザルによってバビロンへ捕虜として連れて行かれてしまいました。彼の一族は著名で有力であったと言われています。なぜかというと、列王紀下24章14〜16節によると、エホヤキンがユダの王の位を追われた時に、ネブカデネザルによってバビロンに連行されたのは、「国のうちの主な人々」のほとんどだったからです。大方の学者はそれを紀元前593年の出来事と推定しますが、真鍮版の年代資料によると、エホヤキンの跡をゼデキヤが継いだという事実から、それよりも少し早い紀元前601年と見ることができるでしょう。




第1章4節、13節

4節 わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火の中に青銅のように輝くものがあった。
13節 この生きもののうちには燃える炭の火のようなものがあり、たいまつのように、生きものの中を行き来している。火は輝いて、その火から、いなずまが出ていた。


 この隠喩は神の力を表わしています。ヨブは、神が来た時のその力をつむじ風に引き比べています(ヨブ38章1節)。近代でも同様な事が起きたとの報告があります。これらの表現は、神や天使が表われる時の栄光、力、威厳に関連して聖典中に使われています。

 「雲」と「火」については、出エジプト13章21〜22節、16章10節、19章9〜16節24章16節、レビ記16章2節、マタイ17章5節を参照。
 「輝き」「火」「青銅のように輝くもの」「たいまつ」「いなずま」については出エジプト3章2節、ヘブル12章29節、ハバクク書3章3〜4節、第2テサロニケ2章8節、ダニエル書10章6節を参照。




第1章5〜6節、10節

5節 またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。
6節 おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。
10節 顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。


 10節にあるような示現は、黙示録のヨハネも見ており(黙示録4章6節8節)、これらの4つの獣は生物の種類を表わし、エゼキエルの示現の生き物の顔も、同様のことであると考えられます。次に挙げる旧約聖書についてのユダヤ人の注釈は、先の見解と一致しています。

 「人は全ての生き物に秀でた存在である。また、わしはすべての野鳥に抜きんでている。牛はあらゆる家畜に、ししはすべての野獣に抜きんでている。これらのものはそれぞれに主権を浮け、素晴らしい特性を授けられているが、すべて聖なる御方の力の元に服しているのである。」

 エゼキエルは神の御座が彼らの上にあるのを見ており(1章26〜28節)、


この配置は、人、獣、あらゆる生き物に、神はふさわしい階級に従って永遠の栄光に入るための手段を備えて、神自身ですべての生物の支配権を持っているということを示しています。




第1章6節

6節 おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。


 ここに記されている「翼」とは、黙示録第4章8節と同様の意味と考えられており、動く力や行動する力などを表しています。




第1章7節

7節 その足はまっすぐで、足のうらは子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。


 「まっすぐ」というの語は、座ったときやひざまずいた時に曲がらずに垂直なことを意味します。この状態を推測すると、この生き物は人のようには歩かない動物であることが見えてきます。足の裏を子牛の足の裏にたとえたのは、ひづめの滑らかさと艶やかさが、よく磨かれた光沢のある青銅製の物に表現するのに適していたからのようです。




第1章9,11節

9節 翼は互いに連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。
11節 彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互いに連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。


 エゼキエルの見た示現の生き物は、完全な調和と一致を見せています。それらは1つになって働き、神の御心に従う全ての生き物の間の全体の調和を象徴しています。




第1章15〜21節

15節 わたしが生きものを見ていると、生きもののかたわら、地の上に輪があった。四つの生きものおのおのに、一つずつの輪である。
16節 もろもろの輪の形と作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その作りは、あたかも、輪の中に輪があるようである。
17節 その行く時、彼らは四方のいずれかに行き、行く時は回らない。
18節 四つの輪には輪縁と輻(や)とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。
19節 生きものが行く時には、輪もそのかたわらに行き、生きものが地からあがる時は、輪もあがる。
20節 霊の行く所には彼らも行き、輪は彼らに伴なってあがる。生きものの霊が輪の中にあるからである。
21節 彼らが行く時には、これらも行き、彼らがとどまる時は、これらもとどまり、彼らが地からあがる時は、輪もまたこれらと共にあがる。生き物の霊が輪の中にあるからである。


 この奇妙な表現は様々な解釈がされてきましたが、聖書の中で説明がされてないので意味不明のものとなっています。四つの獣に関しては黙示録4章7〜8節にも記されていますが、生き物が表されているおおよその力の象徴は分かっているので、ここにもあてはめて考えることができます。しかし使徒ヨハネの見た示現には「輪」に相当するものは含まれていません。このような不明な部分が聖書に存在することについてある教会指導者は次のように述べました。

 「わたしは次のことを広く宣言する。神が人間、獣あるいはどのような姿をしたものであれ、何かの示現を与えてくださるときはいつでも、神は自らその意味を説明し、明らかにする責任を負っておられるのである。そうでないと、わたしたちはそれについての自分の信念に責任はない。したがって神がその問題について啓示も解き明かしも授けてくださらないのであれば、示現や形の意味を知らないからといって非難されるのを恐れることはないのである。」

 現在エゼキエルの示現の説明は教会に与えられていないので、輪の意味を知らないからといって、神が聖徒を責めることはありません。




第2章9節〜第3章3節

第2章9節 この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。
第2章10節 彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災いの言葉であった。
第3章3節 そして彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、これであなたの腹を満たしなさい」。わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。


 使徒ヨハネも書物を食べるようにと命じられた、エゼキエル同じような経験をしました(黙示録10章10節)。この行為はヨハネに与えられたイスラエル部族に対する使命を象徴しています。これについて教会役員はつぎのように述べました。

 「神の言葉が載った書物を食べるというヨハネの行為は、古代のイスラエルのしきたり、習慣に沿っていた。この行為は、命のパンを食べること、神の善き言葉にあずかっていること、『口に甘いこと蜜のよう』なキリストの言葉を味わっていることを意味した。しかしそれは腹に苦かった。つまり主の言葉を受けた民に約束された裁きと疫病が、彼を絶望させ、悲しませたのである。『あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです(詩篇119篇103節)』。これが詩篇作者の歓喜の喜びである。これと対照的に、反抗と不従順の罪はいかに苦いことか。エゼキエルは同様の体験をした。彼は口に入れると『甘いこと蜜のよう』な巻物(書物)を食べるように命じられたが、その巻物の中には、『悲しみと、嘆きと、災いの言葉』があった。




第3章17〜21節

17節 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代わって彼らを戒めなさい。
18節 わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
19節 しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道から離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。。
20節 また義人がその義にそむき、不義を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
21節 けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受け入れたゆうに、その命を保ち、あなたは自分の命を救う。


 エゼキエルの預言は民の耳に響かず、しかしそれでもエゼキエルは見張り人として警告の声を上げ続けなければなりませんでした。見張り人は人の寝る間も起きて見張り、それゆえに任務を怠ったときに求められる責任は大きいもので、いつも危険と隣り合わせです。敵は警告の声を上げさせまいとして見張り人をつけ狙い、必要なときに声をあげられなければ任務を託された人々から責任を問われてしまいます。このように、神の王国の見張り人は重大な結果をもたらす大きな責任を受けてきました。見張り人について教会指導者は次のように教えています。

 「シオンの塔の見張り人であるわたしたちが、キリストのまことの会員、キリスト教国家の国民として信じている事柄の根本を揺り動かす現今の諸悪に対し、指導者の立場からはっきりと反対を述べることは、義務であり、権利である。その見守る者の一人として、わたしは人類愛をもって謙遜にその義務とチャレンジを受け入れ、恐れずに喜んで務めを果たそうと思う。容易ならぬ現代あって、わたしたちのこの勧告が当局に監視される懸念があったり、政府がますます生活に介入して来るときでさえわたしたちは批判を恐れるあまり義務を怠るようであってはならない。

 わたしたちが今経験している危機については、これまでよく警告されてきた。それはとかくの批判を生んだ。言葉を聞きたくない人もわたしたちの中にいる。それが問題である。わたしたちの生活や福祉や自由を脅かすものを、わたしたちのある者は許容してきた。多くの人は気持ちよい自己満足に浸っているとき、それを乱されることを望まない。

 教会は永遠の真理のうえに立っている。わたしたちは原則において妥協せず、現代の風潮や圧力にも屈せずに標準を守り抜く。教会の真理に対する忠誠は不動である。遠い昔から、不道徳や不正を非難することは預言者、神の弟子たちの責任であった。彼らの多くが迫害されたのも、実にこのゆえであった。塔の見張り人である彼らに神より与えられた努めであった。」




第3章25節

25節 人の子よ、見よ、彼らはあなたの上になわをかけ、それであなたを縛り、あなたを民の中に行かせないようにする。


 非常に頑なな民に対して警告の声をあげると、警告を受けた人は


罪のある者は真理が胸の底まで刺し貫くので、真理を厳しいものと思う


 という心理的行動を無意識の内に行っています。エゼキエルと同郷の不正な人々は、叱責と警告の教えを聞き、エゼキエルに反対しおそらく彼らは実際にエゼキエルを縛って監禁したり、耳を傾けることを拒否したり、教えを否定したと推測できます。そのうえ他人にもそのように勧めて彼の口を封じ、神の業を妨げようとしました。


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