ユダの滅亡と捕囚 ユダヤ民族への影響 聖書の編纂
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2004/ 6/10  ユダヤ民族への影響 UP
2004/ 6/ 7  ユダの滅亡と捕囚 UP
2004/ 6/ 6  聖書の編纂 改訂



ユダの滅亡と捕囚


 ユダ南王国が滅ぼされる前にイスラエル北王国の罪悪は劣悪を極めて、もはやその当然の帰結を免れることはできなくなっていました。紀元前721年にイスラエルはアッシリア帝国に屈し、いまやユダも同じ運命をたどろうとしています。ユダは近隣諸国との抗戦同盟の歴史があり、絶え間ない内乱に苦しみました。王国が2に分裂してからバビロニアの手に落ちるまで22人の王がいましたが、正しい王はほんのわずかであり、ユダがイスラエル北王国より100年長らえたのは、その数人の王たちのおかけであるとも言われています。イスラエルの民がアッシリア人によって北へ連れ去られてから、南のユダ王国はヒゼキヤ王に統治されました。

 ヒゼキヤ王は聖書に書かれてあるように、主の目にかなう事を行った王の1人です(列王記下18章3節)。彼は偶像礼拝の祭壇と偽りの神の像や邪神礼拝を民の間から除くことに成功しました。ヒゼキヤ王について聖書はこのように記しています。

 「彼は固く主に従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主が彼とともにおられたので、すべて彼が出て戦うところで功をあらわした(列王記下18章6〜7節)」

 このように、ヒゼキヤ王は奇跡的な神の助けによって、強大なアッシリア軍から救われました。

 義の王ヒゼキヤの死とともに、ユダは奇跡の解放を忘れて国は捕囚への道を歩み始め、ヒゼキヤ王の12歳の息子マナセが王位に就きました。彼は若いゆえに周りの影響を受けやすかったのか、またもや邪神を礼拝する場所建てて、庭を造り、刻んだ像をそこに安置しています。後には子供たちを火に焼いてモレク神へのささげ物とし、魔術を行い、口寄せと魔法使いをかかえ、民はマナセに従って神の言葉を無視しました。マナセ王が人々を誘って悪を行ったことは、神がイスラエルの人々の以前に滅ぼされた国々の民より、つまり大洪水で滅ぼされた人々よりもはなはだしく行いが悪かったことが記されています(列王記下21章9節)。

 善王ヨシヤも民に義を取り戻そうと勤めましたが、民衆は応じませんでした。神は度重なる邪悪な行いを見て、「わたしはイスラエルを移したように、ユダをもわたしの目の前から移し、わたしが選んだこのエルサレムの町と、わたしの名をそこに置こうと言ったこの宮とを捨てるであろう(列王記下23章27節)」という絶縁宣言をしました。エゼキエルは捕囚の直前のユダをその「姉」である北王国の首都サマリヤと、「妹」であるソドムに比べています(エゼキエル第16章44〜52節)。ユダの民は、エホバからモーセや預言者たちを通して与えられた戒めよりも、異教の隣国の風俗習慣に従い続けました。カニンガム・ゲイキーという人はこの時期について次のように言っています。

 「エルサレムにいる有力なエジプト人たちが、・・・ナイルの動物礼拝を伝え、神殿の大きな部屋をさえそのための礼拝所に変えていた。・・・東洋の太陽礼拝も入り込んできて・・・至聖所の中に恐らくは大祭司の代表である25人ほどの男が・・・神殿に背を向けて立ち――これは公然たる背教のしるしである――顔を東へ向け、朝日を拝んだ。」 (エゼキエル第8章7〜12節

 エレミヤやその他の預言者は、エジプトはアッシリアを破って当方に君臨する野望の王国バビロンから自分たちを守ることはできず、堕落したエジプト人との盟約はむなしいと民に告げました。しかしユダの指導者は預言者たちの勧告に耳を貸さず、ウリヤを殺し(エレミヤ26章20〜23節)、エレミヤを穴に投げ入れ(エレミヤ38章1〜11節)、同じくエルサレムで預言していた真鍮版の人物リーハイ(1ニーファイ1章20節)を殺そうとしました。神はもはや人々に善の心を呼び覚ます「御霊」を送るのを止めてしまい、かくして悲劇の舞台は整っていきます。

 バビロンの王ネブカデネザルは2度ユダを襲い、2度ともとりこにしましたが、思い直す機会を与えようとして、2度ともユダを無傷のままにして立ち去っています。しかしユダはそこから教訓を得ることはなく、ネブカデネザルの3度目の攻撃の後には、エルサレムは廃墟と化して累々たる死体が横たわり、一握りの人々を除いて、すべてバビロンへ連れ去られました。今ユダは、北の姉妹国同様、自分のまいた罪悪によってその実を刈り取られ、捨てられました。

 しかしながら、それはまったく同じというわけではなく、失われた10氏族のようにユダは歴史から消えることはありませんでした。キリストの時代の後に、彼らは再び流浪の民となり、その境遇は幾世紀にも渡って続きますが、最も良い時代でさえ属国以上の存在にはなり得ずにいます。彼らは笑い種となり、憎まれるも、彼らを根絶しようとする試みはすべてついえました。散乱の世紀中に、彼らは絵画、文学、音楽、政治、哲学、歴史に数々の重要な貢献をしています。しかしその秀でた才能は迫害と悲哀の産物でした。神に背く事がなかったなら、彼らの貢献はどのようであったのかという思いを禁じえないことでしょう。







ユダヤ民族への影響


 バビロンの王ネブカデネザルは軍を2つに分けてパレスチナに進攻しました。一方は反逆するフェニキヤの町、ツロシドンへ向かい、もう一方はエルサレムを包囲しています。包囲は1年半の長い間に及び、エルサレムの民は人肉を食べるほどまでに飢えました(哀歌4章8〜10節)。ついに防備が破られてバビロニア人が勝利すると、ゼデキヤ王と軍隊はヨルダン川へ逃げるも捕えられ、王の目の前で息子は殺されて自分も目をくり抜かれるという残客な仕打ちを受けてバビロンに送られました(列王記下25章)。エルサレムは焼け落ち、ソロモンの神殿は破壊され、ユダ王国は終わりを迎えました。エレミヤによれば、バビロニア人支配下にわずかな人を残した以外に、民の残りの者は捕虜としてバビロニアに連れて行かれています(エレミヤ39章8〜10節)。

 ネブカデネザルはユダの指導者を捕虜とし、貧民を残して田畑の収穫に当たらせる分断策をもってユダを支配しました。ユダヤ人の分断と強制移住で国家再生の恐れはなくなりました。土地は荒廃したまま残され、エルサレムに残った民の多くはエジプトに移住してしまいました。捕囚地での生活は必ずしも恐怖に満ちた圧制の下にあったわけではなく、むしろユダヤ人には社会的にも経済的な活動においても、かなりの自由を与えられています。彼らは事業や経済活動に手腕を発揮し、バビロニア人に重宝がられたほどです。バビロニア系ユダヤ人は、大都市でも近郊でも自分たちの社会に住んで自分なりの生活をするなど、行動の自由を許されました。

 このバビロニアでの生活が快適であったため、捕囚されてきた人々の多くは高齢になったり次の世代になったりして、エルサレムで起きた悪夢のような出来事の記憶が薄れてしまいました。それゆえ、70年後にペルシアクロス王が神殿建設のためにユダへの帰還を許可したとき、ユダの人々の多くはバビロンを去ることを拒んだほどです。バビロン捕囚はユダヤ人に深い影響を及ぼしました。ユダヤ史の研究家たちはほぼ一致して、ユダヤ人が捕囚の後は2度と偶像礼拝に戻らなかったとの見解を持っています。イスラエル人の宗教生活において、エルサレム滅亡は大きな転換点となりました。ごく初期の頃からイスラエルには偶像礼拝の悪が存在し、その時の預言者もそれには反対してきましたが、エルサレム滅亡後は、通常の意味でいう偶像礼拝は完全に断っています。

 バビロン捕囚はユダヤ人の心に、イスラエルの神が実にねたむ神であることを印象づけたようです。民が悔い改めて神に従わなければ破滅が来ると警告した預言者たちの正しさは証明されました。偶像礼拝の罪のために神の怒りが下ったという裁定を、民族全体が受け入れ、彼らはイスラエルの神だけを礼拝すべきであるという結論に到達しました。それ以後、イスラエルは神に対して非常に熱心な民となっています。しかしその熱心さは神から神の律法に移ってしまい、厳密に言えば再び霊的な暗闇に突入していきました。流浪を始めて200年のうちに新たな「偶像崇拝」が始まり、キリストが肉体をまとって地上に来たときには律法至上主義が完成していて、民はキリストを拒みました。


律法者ではなく律法そのものを拝することは、同じように形を変えた1種のむなしい偶像礼拝です


 真の生ける神から人を遠ざけるという点では、どちらも悪以外の何者でもありませんでした。新約聖書やイエスの生涯と教えは、パリサイ人サドカイ人などの宗派が律法崇拝に逸脱していたことをはっきり示しています。バビロン捕囚はユダに偶像礼拝をやめさせることができず、その習慣は彼らをして「的のかなたに目を向けさせる」という、新たな偶像礼拝を民衆に浸透させていきました。







聖書の編纂


 800年以上にわたって、モーセから出た聖典は、毎日読むというよりもむしろ安息日などの特別な祈りに用いられていました。時には一般に知られなくなる時期があったことが記録されています(列王記下22章8〜13節)。知識だけで民衆を福音というまっすぐで狭い道に引き止めておくことができないのはもとより、神の言葉がなければ道に留まる望みがないのも確かなことです。捕囚の間に、ユダヤ人はこの教訓を身をもって学んでいました。古代イスラエルの指導者たちは、以後決して民を神との聖約や律法に無知な情況に陥らせることがあってはならないと決意しました。偉大な預言者、学者であったエズラは、律法を学ぶ習慣の確立に貢献しています(ネヘミヤ8章1〜12節)。エズラの業績について、聖書学者アダム・クラークは次のように述べました。

 「エズラの偉業は、聖典の正確な版の収集、編さん、またその完成に向けて多大の労苦を費やしたことにある。これについてはキリスト教徒もユダヤ人も彼に栄誉を帰し、また祖父の多くはこのことについてユダヤ人よりも彼を重く見ている。それは、バビロニアの捕囚で聖典はすべて失われて、エズラが啓示によりそれをすべて回復したと信じるからである。

 ・・・このようにしてエズラは、神聖な書物の写本をできるだけ集め、全部の中から1冊の正確な版をまとめたのである。・・・彼は当時の聖文の書をすべて集めて適切な順序に並べ、当時の聖典を確立した。エズラはそれらの書を3部に分けた。すなわち、1・律法書、2・預言書、3・ハイギオグラファ(聖文学)つまり神聖な書である。この分類については救い主自身もルカによる福音書第24章44節で次のように言及しておられる。『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。』」

 聖典がそこにあるだけでは十分ではなく、一般の人が普通に読める必要があると感じたエズラや他の学者たちは、民衆に聖文を教えるために必要な仕事に取りかかりました。しかし、バビロンの地に捕えられて行ったユダヤ人はカルデヤ人の言語や文化を取れ入れ始めており、そこから問題が生じてしまいます。というのも、律法学者たちは聖文をヘブライ語で読み、時にはカルデヤ語やその地方の言葉で翻訳し、説明していたという時間のかかる方法をとっていたからです。この習慣が一因となって、律法学者が宗教に欠かせない存在となり、結果としてユダヤ人の間に社会的、宗教的な地位を得ることになりました。

 年々律法学者、パリサイ人サドカイ人そのほかの各グループは、書かれた言葉を参照、引用、解釈など、さらにほかの方法によって先祖が確立したものに付け加え続けてしまいます。注釈や説明や解説、推論が口承となり、時を経て、口承や伝承はユダヤ人の礼拝、崇拝のおもな対象となりました。生ける預言者による直接の啓示の光はなく、もともとは神に近い生活をする手立てとして始められた言い伝えが、ユダヤ人の理解の目をくらますものとなっています。以前からそのような曲げられた解釈について神は預言者に助言して来ました。


わたしはまた荒野で彼らの子どもたちに言った、あなたがたの先祖の定めに歩んではならない。そのおきてを守ってはならない。その偶像をもって、あなたがたの身を汚してはならない(エゼキエル20章18節)。


 これらの言い伝えはユダヤの民を背教へと導き、救世主が来た時には霊的な暗闇の中に置かれるという、呪いとなって彼らに降り注いでいました。




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