出エジプト記 第1〜3章研究解読



第1章7節 第1章8節 第1章15〜22節
第2章1〜10節 第2章11〜15節 第2章18節 第2章23節
第3章1節 第3章2〜6節 第3章14節



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2010/ 6/24  第2章18節 改定
2004/ 4/11  第1章8節追加
1999/ 1/29  第3章14節UP
1999/ 1/ 1  第3章1節、2〜6節UP
1999/ 1/ 1  第2章1〜10節、11〜15節、18節、23節UP
1998/12/30  第1章7節、8節、15〜22節UP



第1章7節

7節 けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはなだ強くなって、国に満ちるようになった。


 神がアブラハムに与えた約束が成就するためには、イスラエルの部族が増える必要がありました。この目標を達成するために、70人しかいない小さな家族(創世記46章26〜27節)は、十分な時間と、育てるための平安な場所を必要としていてその舞台はエジプトでした。パレスチナは、ナイル川とユーフラテス川の間にあって領土拡大をはかって戦争を起こす、好戦的な国々の戦場となっていました。そのような場所ではイスラエルの民は平安を見出すことはできないので、民の成長発展のためには、安定した状態が必要であったと考えられます。

 民が捕らわれたことも、確かに否定的な面ばかりではなく、結果として良かった点もありました。生活の厳しさ、ヘブル人とエジプト人との間に存在した憎悪感、そしてつらく長期にもわたる苦役といったものが、ヤコブの子供たちをひとつにまとまった民にしてくれたと言えます。イスラエルの民はエジプト人に対して嫌悪感を抱いていたために、ヘブル人とその近隣部族の間では部族間結婚ということが起こってはいなかったようです。それにアブラハムの約束の恩恵にあずかるためには、イスラエル人はひとつの民として純潔を保つ必要があったからです。そこで神はこのような手段を使ったと考えることができます。そのエジプト人も、神の一大ドラマの中で重要な役割を果たしたということです。それから430年の後に神は、イスラエルが自分の土地を所有して、メシヤの降臨を待つ「特異な民」となる時期が到来したしたとの命を出すことになりました。




第1章8節

8節 ここにヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起こった。


 ヨセフがエジプトで権力を掌握していたのは、エジプトがヒクソス人の支配下にあった時だと推測している学者が多く、古代の歴史家マネトは、ヒクソス人のことを羊飼いの王と表現し、その征服と支配の方法がどれほどエジプト人から忌み嫌われていたかということを書き記しています。ヒクソス人は、エジプトの北部と東部の地方出身のセム族系の部族であり、ヤコブとその家族もセム系であったためヨセフがヒクソス人から好意的に見られていたことも、またヒクソス人が最終的にエジプトから放逐された時、イスラエルの民が突如として地元のエジプト人の好意を受けることができなくなってしまったことも、これらのことから判明します。

 ヨセフが長年にわたり王を次ぐ地位にありながら、エジプト人にはヨセフの名前を記した記録や記念碑がないのは何故かと思う人も多いことでしょう。もし、ヒクソス支配の説が正しいとすれば、ヨセフの名前はほかのヒクソス人の王の名前と共に記録や記念碑が抹消されたということが考えられます。しかし、ある学者はヤフニ(Yufni)というエジプト名を発見し、これが古代エジプト語ではヘブライ語のヨセフ(Yosef)と同じ意味だという説を主張していますが、まだ決定的な証拠ではないのが残念なところです。これらの発見から言えることは、聖書以外でもヨセフの存在の証拠はありえるということです。関連聖句は12章40節にもあります。

 このヒクソスがエジプトを統治していたのは資料によって違いがありますが、一般に紀元前1674〜1567年であると言われています。ヨセフは紀元前1729年頃に生まれ、30歳でつかさとなった後7年の豊作があり、パロがヤコブに会ったのが130歳なので、その年代は紀元前1692年頃となります。110歳で死んだのは(創世記50章23〜26節)紀元前1619年頃なので、記述のないヨセフの子孫が何代かエジプトで仕えていれば、十分に年代に合致します。(古代エジプト)(創世記47章9節




第1章15〜22節

15節 またエジプトの王は、ヘブルの女のために取り上げをする助産婦でひとりは名をシフラといい、他のひとりは名をプアという者にさとして、
16節 言った、「ヘブルの女のために助産をするとき、産み台の上を見て、もし男の子ならばそれを殺し、女の子ならば生かしておきなさい」。
17節 しかし助産婦たちは神をおそれ、エジプトの王が彼らに命じたようにはせず、男の子を生かしておいた。
18節 エジプトの王は助産婦たちを召して言った、「あなたがたはなぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか」。
19節 助産婦たちはパロに言った、「ヘブルの女はエジプトの女と違い、彼女たちは健やかで助産婦が行く前に産んでしまいます。
20節 それで神は助産婦たちに恵みをほどこされた。そして民はふえ、非常に強くなった。
21節 助産婦たちは神をおそれたので、神は彼女たちの家を栄えさせられた。
22節 そこでパロはそのすべての民に命じて言った、「ヘブル人に男の子が産まれたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし、女の子はみな生かしておけ」。


 パロの圧政をもってしても、ひとつの国家を造り上げようという神の目的をさまたげることはできませんでした。神をおそれた助産婦たちが勇気ある信仰を持って、男の子を殺せとのパロの命令を実行しなかったために、イスラエルは増え続けることになりました。キリストの生き写しであったモーセの命は(モーセの書1章6節)、その地の支配者によって危機に陥り、ちょうどキリストの命がベツレヘムの子供たちの殺害を命じたヘロデ王によって、危機に陥ったのとよく似ています。古代ユダヤの著述家であったヨセフスやヨナタン・ベン・ウジエルも、その記録の中でパロが夢を見て、その夢によってやがて生まれるひとりの人がイスラエルを束縛から解き放すことを知らされたと書いています。結局はこの夢が引き金となって、男の子たちを殺せとの勅令が出ることになりました。




第2章1〜10節

1節 さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。
2節 女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。


 モーセの系図は、父アムラム(出エジプト記6章16〜20節)の血統でも、母ヨケベデ(出エジプト記2章1節、6章20節)の血統でも、レビの正当の子孫であったと考えられています。



3節 しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂を塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。
4節 その姉は、彼がどうさけるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。
5節 ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、
6節 あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブル人の子供です」。
7節 そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。
8節 パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。
9節 パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代わり、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。


 真鍮版には、モーセが生まれるかなり前から、このイスラエルの解放者が将来どのような使命を帯びるのかが、はっきりと預言されていました。この預言をした預言者ヨセフは、このことにつき詳細に記しており、解放者であるモーセの事績をはじめ、モーセという名前まで明らかにしています。また、預言者ヨセフは将来ユダヤの書物とヨセフの書物がひとつとなることも預言しています。同様の預言はエゼキエル書37章15〜17節にも書かれています。


10節 その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。
彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。


 モーセの青年時代については、新約聖書の中でステパノが詳しく述べていて(使徒行伝7章)、そのひとつに「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも力があった。(使徒行伝7章22節)」とあります。ユダヤの歴史家ヨセフスも、モーセは非常に顔立ちがよく、また学問のある王子で、エジプト人にとってはたくましい戦士であったと記録されています。王子としてモーセはエジプト人の王立図書館を自由に利用できる立場にあったといわれており、母親からもイスラエルの聖典を教えられて研究もしていたと思われます。その研究をしている中で、モーセが失われた聖典か何かを読み、なおかつ神の御霊に導かれて自分がイスラエル人を救い出す召しを、神から受けていることを悟ったと思われる個所があります。ステパノの説教中にも、モーセが自分の責任を理解していたと思われるところがあります。

 「四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽くすことを、思い立った。・・・彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。」(使徒行伝7章23、25節)。パウロもヘブル書の中で、この考え方を進めて次のように言っています。「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み・・・キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。」(ヘブル11章24、26節)。モーセの母ヨケベデもおそらくは、モーセを養育している間に諸々の原則とヘブル人の義の伝統について教えていた可能性が大と言えるでしょう。




第2章11〜15節

11節 モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労苦を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、
12節 左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。
13節 次の日また出て行って、ふたりのヘブルびとが互いに争っているのを見、悪い方の男に言った、「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」。
14節 彼は言った、「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」。モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。
15節 パロはこの事を聞いて、モーセを殺そうとした。


 何故モーセはエジプト人を殺したのかについて、歴史家のエウセビオスはこの殺害は法廷の陰謀の結果であって、ある人々がモーセを暗殺しようとのたくらみがあったと書いています。そこでモーセは首尾よくその殺害者を撃退した結果、殺してしまったとも書かれています。ミドラシュ・ラバという古代ユダヤの旧約聖書の注解書では、モーセはヘブライ人の女性を犯そうとしていたエジプト人の監督をこぶしで殺した、と断言していて、イスラムのコーランもこれを認めています。モーセがこのような行動をとったのは、何かしらの納得のできる理由があったということになります。神は利己的な考えの殺人者を預言者として召すことはしないので、モーセにとっては何らかの正当な行いであったということです。

 聖書にある「打つ」とか「打ち殺す」といった語は、ヘブライ語のnakhahから翻訳された語で、「打ち倒す」という意味になります。この語は、戦闘に際して兵士が敵に対してとる行動を描写する時に使われる語です。だから、モーセは人を殺そうとしている者を打ち倒した、あるいは、ひとりの生命を救うためにひとりの生命を奪ったという方が正しいと考えられます。モーセは、行動に移る前に「左右を」見回しましたが、これはただ、このような形で奴隷を救おうとした行為をエジプト人は見逃してはくれないということが、モーセ自身が承知していたということを知っていたという意味に過ぎません。




第2章18節

18節 彼女たちが父リウエルのところに帰った時、父は言った、「きょうは、どうして、こんなに早く帰ってきたのか」。


 父リウエルという名前は民数記10章29節によると「さて、モーセは、妻の父、ミデヤンびとリウエルの子ホハブに言った」とあるように、エテロの父であることが示されています。ホハブとはエテロの別名ということになります。エテロは、アブラハムとケトラの息子であるミデヤンの子孫となりました(創世記25章1〜6節)。この血統を通じてモーセは神の権能を受けたと考えられています。




第2章23節

23節 多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務めのゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。


 使徒行伝7章30節から、この「多くの日」というのが、40年だったことがわかります。




第3章1節

1節 モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。


 このホレブとはシナイ山と同一の山であり、モーセはこの山で神から律法を受けています。エリヤもまた、後年ホレブに難を逃れています。(列王記上19章8節




第3章2〜6節

2節 ときに主の使いは、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。
3節 モーセは言った、「行ってこの大きな見物を見、なぜしばか燃えてしまわないかを知ろう」。
4節 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
5節 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
6節 また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。


 この天使とは思うに、「光の天使」であってモーセに現れた時に、まるでしばが燃えているように見せたと考えられます。しばは実際には燃えていないので、しばは当然なくなりません。この「使」、欽定訳では天使に当たる人物は、「伝達者」という意味で、これがヘブライ語のmalakhのもとの意味になります。しばの炎、強大な風、小さな声、雷鳴、その他の自然現象は、神のmalakhとして神の言葉のさきぶれとなり得ます。モーセは最初しばに注意をひかれましたが、その後神自身の声がモーセに語りかけて、モーセはそれを恐れながら聞いていました。




第3章14節

14節 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしは有るというかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』 と。」


 神が燃えるしばの中でモーセに現れた時、「わたしは有って有る者」という名前を使って、自分がイスラエルの神であって、あのアブラハムイサクヤコブに現れたのと同じ神であることを明らかにしています。聖書においてこの名前が登場するのはこの箇所が初めてですが、もしこの名前がこれ以前にイスラエル人に知らされていなかったとしたら、神がその名称で自分が何者かを明かしても何の役にも立ちません。この神がどのような「神」であるのかを正しく伝えることが、モーセにとって自分の召しをイスラエル人の前で権威があると納得させるために、必要な要素であるといえます。この称号は聖書の中ではそれほど登場はしていませんが、キリスト(旧約聖書の神、エホバ)は、他の場面で自分が何者かを明らかにするためにこの称号を使っています。

 アブラハムに現れた時(アブラハムの書1章16節)や、ユダヤ人に現れた時(ヨハネ8章58節)に使われています。

 語源学的に見ると、「わたしは有る」という称号は、旧約聖書で最も頻繁に使用されているYHWHという神の名と直接に関係があります。YHWHが聖書中に何回登場するかということは、翻訳の方法によって違いがあるので明らかにすることはできません。それは、翻訳者が時に「主」あるいは「神」という称号で代用しているからです。こうした慣行は、神の御名を決して口にしようとしなかったユダヤ人たちの崇敬な気持ちを表わすものであり、ユダヤ人はそれに代ってユダヤ人の言葉で「主」という意味の「アドナイ」という称号を用いています。

 「わたしは有る」というのは、「存在する」という意味の動詞の一人称単数の形で、それゆえYHWHというのは、「彼は有る」あるいは「彼は存在する」という意味になり、三人称単数の形にもなり得ます。神は旧約聖書のヘブライ語本文で、同一の動詞を一人称と三人称の形で使っていますが、これは神が自分の視点を強調しているのか、それとも聖書を読む人の視点を強調しているのかによって使い分けていると考えられています。(第6章3節イザヤ書第44章6節、ヨハネ第8章56〜59節使徒行伝第4章12節ヨハネの黙示録第1章8節第22章13節旧約聖書の神は誰か



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