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過ぎ越しとエジプト脱出


 預言者モーセによって書かれた旧約聖書の五書のうちの一書で、この書はエジプトからイスラエルの部族が脱出する様子の記録です。出エジプト記に書かれている古代イスラエルの歴史は次の3つの部分に分かれています。


エジプトにおけるイスラエルの民の奴隷の境遇
モーセの指導の下に行われたエジプトからの脱出
宗教上や政治上の生活における神のわざに対する献身


 最初の部分である第1〜15章には、イスラエルがエジプトで受けた迫害や、モーセの生涯の初期の物語と、が直接彼に与えられた召しやエジプトからの脱出と過越、パロの軍勢の滅亡、モーセの勝利の歌が記されています。

 第2の部分の第16〜18章には、イスラエルの贖いや、紅海からシナイへの途中での海が割れた奇跡、メラの苦い水の奇跡、うずらとマナが与えられたこと、安息日の遵守、レピデムでの水の奇跡とアマレク人との戦い、イスラエルの陣営へのエテロの到着と民の統治に関するエテロの助言が記されています。第3の部分の19〜40章では、シナイでの神聖な出来事の間に、イスラエルの民が神の努めに献身したことが記されています。神はイスラエルの民を祭司の国とし、聖なる民としています。また彼らに十戒を与えて、幕屋とその調度品や幕屋内での礼拝について指示をしています。モーセが石版を受け取っている間に、金の子牛を礼拝した民の罪についての記録があって、最後のほうに幕屋の建設とそこでの努めに関する規定が書かれています。

 モーセはあらゆる時代の神の人の中でも、最も力強い人物のひとりです。モーセは神と共に歩み、神と共に語り、まだこの世にいる間に神の栄光を受け、神の子と呼ばれ、また御子のひな型であるといえます。彼は諸々の天の神秘を見ており、神から律法を受けましたが、古代の人々の中で記録にある限りモーセ以上に受けた人はいません。神がどれほど選ばれた民に関心を寄せていたかは、モーセの召しに見ることができます。モーセは極めて偉大であったために、その後長くにわたり神とその民とは、モーセを預言者の標準として、また模範として見ています。キリストでさえモーセのような預言者と呼ばれています(使徒行伝3章22節、7章37節、申命記18章15節、18〜19節)。モーセの書には、イエス・キリストに似た者であり、生ける象徴であったと書いてあります(1章6節)。

 彼はこの世の人間たちと同じで、弱さと強さを持っている人です。モーセの性格の鍵は、その柔和さにあって民数記12章3節に「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。」と記されています。これはその「柔和な性格」によって、神のみたまに才能や人格を鍛えられて、すぐれた人になっていったことを意味します。

 この出エジプトから学ぶことは、モーセの予任や青年時代の準備、荒野でみせた忍耐強い性格、神からの召し、預言者としての民を指導する地位に就いたことなどです。出エジプト記を読んでみて良い影響を受ければ、自分の生活を細かく分析できるようになります。 またそれによってモーセのように自分の弱さをはっきりと認識しながら捨てることができ、この世の生涯で自分という人間がどんな立場であり責任なのかを理解し、責任を引き受けるようになることができることでしょう。








過ぎ越しとエジプト脱出


 これまで見てきたように、は直接間接を問わず、度々なんらかの形で象徴として意味を持つ方法を使って、聖書の歴史に影響を与えています。ヤコブは、アブラハムに与えられたイサクを生け贄にせよとの戒めは、神がその独り子を生け贄にすることを予め示すものであったと教えています。これは神がアブラハムに与えた試練ですが、自分の子供を生け贄にしなければならない神の気持ちを、アブラハムにわかってもらうためでもありました。これらのことから出エジプト記には重大で深遠な予型が含まれていることがわかります。イスラエルの家が束縛から救い出されるこの出来事は、歴史上最も劇的な出来事の一つであるばかりでなく、あらゆる時代の聖徒にとって意義のある象徴に満ちていると言えます。

 イスラエルの民をエジプトの束縛から救い出すように定められた時が来て、神はイスラエルの全家族に命じて、小羊を一頭生け贄にしてその血を入り口に塗り、種いれるパンを7日にわたって食べるようにと言いました。これは皆、殺戮の天使がエジプトの全家のういごをほふりに来た時にイスラエルの家を過ぎ越していくことを象徴するためであり、またイスラエルが、程なく急いで奴隷の身から自由の身になるために出立するということを教えるためです。これは今後モーセから出されるあらゆる指示の定型となるのですが、ここに出てくる典礼の詳細は、イスラエルの解放とその解放者を証できるように準備されたものです。そのほかの手順と共に神が命じていることは、出エジプト記第12章に書かれてあります。


「小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない」

これは、汚れもなく完全で、しみも傷もない神の小羊が、働き盛りの時に過ぎ越しの小羊として世の罪のためにほふられるということを表わしています。


イスラエルの民に小羊の血を取って、それをそれぞれの家の入り口に塗るように命じています。その結果次の約束を得ました。

「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国々を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。」

 これは、キリストの血がゲッセマネの園でしたたり落ち、また、十字架にかけられた時には槍で刺された脇腹から流れ落ち、それによって忠実な物たちを洗い清めて救いをもたらすということを表わしています。さらにまた、イスラエルの民が生け贄の小羊の血をその入り口に塗ったが故に一時的に救われたと同様、あらゆる時代の忠実な者たちも永遠の救いを受けるということも表わしています。それは、死の天使がイスラエルの家族を過ぎ越していったのは、彼らに信仰があったからであるといえます。パウロがモーセについて、「信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過ぎ越しを行い血を塗った(ヘブル11章28節)」言っているようにこれと全く同様に、命の天使は小羊の血に依り頼む者に永遠の生命を与えることを示しています。


小羊を生け贄にするにあたっては、その骨を折ってはならないと命じています。

 これは神の小羊が十字架上で犠牲になった時、ふたりの泥棒については、その死を早めるために足を折ってしまいましたがキリストの足は、折らなかったということを予め表わしています。それは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が成就するためであるとヨハネが言っています。(ヨハネ19章31〜36節)


生け贄の小羊の肉を食べることについては、神は無割礼の者はだれもこれを食べてはならないと命令しています。

 これは、福音の祝福はイスラエルの囲いを入ってくる者、教会に加入する者、王国をになうという重荷を分かち持つ者にだけ取っておくことを表わしています。また神が言ったように、その肉を食べ血を飲む者(聖餐)は永遠の命を得て、終わりの日に神がよみがえらせるということも表わしています。


主はエジプトの国の、すべてのういご・・・を撃たれたとありますが、それは、モーセとアロンが伝えた神の言葉を信じなかったためと言われています。

 これは、この世紀末にあたって御父のういごの助言を聞かず、この世についたがために滅びて、また暗闇に例えられるエジプトの人々も、その心がパロやその臣下のようにかたくなであるが故に、皆滅びるということを表わしていると思われます。


 種入れぬパンの祭りの第1日と第7日に、神は聖会を開くように命じており、「その日には食事の準備以外の仕事をしてはならない」と言われています。

 この聖会は、説き、教え、戒め、証するための機会を表わしています。現在でも信仰のある人々は聖餐会に出席しています。それは、古代の人々が入口の柱に振りかけた犠牲の小羊の血を見て、永遠の救いをそこに見て、それらを思い起こすことを意味しています。

 現在の聖餐の儀式が制定されたのは、キリスト12弟子と過ぎ越しの祭りを祝っていた時です。この聖餐の儀式は、本質的にはそれまで4000年の間、犠牲によって行われてきたものと同じ目的を持つものです。この日の過ぎ越しを最期ににして、キリストが過ぎ越しの小羊として十字架にかけられてから、古代から伝わる儀式に現在の聖餐がとって代わられました。それ故にパウロは「わたくたちの過ぎ越しの小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」と言うことが出来たと言えます。それゆえ、「ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって祭りをしようではないか。」と引き続き勧告しました。



古代エジプト



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