エレミヤ書 第1〜3章研究解読



第1章1〜3節 第1章4〜5節 第1章6〜10節 第1章11〜16節 第1章17〜19節
第2章1〜19節 第2章20〜37節
第3章12〜19節



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2004/ 5/ 6  第1章17〜19節、第2章1〜19節、第2章20〜37節、第3章12〜19節 UP
2004/ 5/ 5  第1章6〜10節、第1章11〜16節 UP
2000/ 8/ 7  第1章1〜3節、 4〜5節 UP



第1章1〜3節

1節 ベニヤミンの地アナトテの祭司のひとりである、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。
2節 アモンの子ユダの王ヨシヤの時、すなわちその治世の十三年に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。
3節 その言葉はヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時にも臨んで、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの十一年の終わり、すなわちその年の五月にエルサレムの民が捕え移された時にまで及んだ。


 レビ人エレミヤは、エルサレムの北東数マイルの、ベニヤミン族の嗣業地にある祭司の町、アナトテの出身です。彼は少なくともユダの5人の王、ヨシヤエホアハズエホヤキンエホヤキムゼデキヤの時代にわたって預言の召しを努めています。若い頃から活動を始めており、紀元前627年頃からハバククゼパニヤ、真鍮版の預言者リーハイらと同じ時期に働いています。彼はエルサレムの指導的預言者であると見られ、その文書と預言とは、遠く離れたアメリカ大陸まで持って行かれており、そこの預言者の話にも取り上げられていました。ゼデキヤの第11年とはエルサレムが陥落した紀元前586年頃、5月は現在の7〜8月に相当します(古代のユダヤ歴)。

 ヨシヤは別として、エレミヤの時代の王たちは、皆、国に甚大な被害をもたらしたふさわしからぬ人物でした。初期の悪王マナセの統治時代に、ユダヤ人の間にバアル崇拝が復活して、アッシリアバビロニアの宗教にある星宿の礼拝が入っています。そのためエレミヤの頃には偶像崇拝をはじめとする異教の儀式が国に蔓延してしまいました。異教の偶像が神殿に立って(エレミヤ書32章34節)、バアル神、モレク神に小児が捧げられ(7章31節、19章5節、32章35節)、特にバアルが邪悪な異教の神として奉られています。又、「天后」礼拝も挙げる必要があります(7章18節、44章19節)。

 この国の宗教の堕落には、当然のこととして預言者たちが絶えず反対してきたあらゆる種類の不義や不道徳が付随し、貧者は忘れられています。エレミヤを取り巻く環境は、すべて神の教えに背く物です。しかし、預言を生業とする者も大勢いたと言われています。H・L・ウィレット博士はこのように言っています。

 「彼の周りに大勢預言者がいた。しかし、彼らは当たり障りない耳に心地よいことだけを語り、人に取り入ろうとする者たちであり、説教を生業としていた。従って彼らの言葉によって良心を目覚めさせられた人はいなかった。この預言者たちは、国は神に守られて安全であると確信していたのである。それもイザヤの時代であれば真実となり得たが、今はもう遠い昔の話であり、エルサレムは補囚の運命にあった。かくてエレミヤは、偽預言者たちが彼を売国奴、霊感のない悲観論者と民に説く中で、歓迎されない言葉を宣べ伝える運命にあったのである。」




第1章4〜5節

4節 主の言葉がわたしに臨んで言う、
5節 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。


 この部分は、人間の前世における存在をはっきり証拠立てています。これは、


神がエレミヤに預言者としての召しを生まれる前から与えられていた


 ということであり、「あなたを知り(5節)」という言葉は、通常より深いとされています。「知る」と翻訳された「ヤーダ」というヘブライ語の単語は、非常に個人的な親密関係を含んでいると考えられています。前世におけるエレミヤの任命は、予任として聖別されたものであり、その中には、将来人々の中に遣わされるということも含まれていました(アブラハム3章23節)。




第1章6〜10節

6節 その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません。」
8節 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。
9節 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。


 謙虚にならざるを得ない重大な使命を神から託された人の例に漏れず、エレミヤも自分の非力さを訴えました。エレミヤの気持ちを、エノク(モーセ6章31節)、モーセ(出エジプト4章10節)、ギデオン(士師記6章15節)たちも同じように表現しています。9節には預言者の役割が簡明に記されてあります。そこには、預言者は必ずしも自分が言いたいことを言うわけではなく、神が自身の言葉を預言者の口に入れるということが書かれてあります。言葉が神から直接来るか、僕を通じて来るかは問題ではありません。どちらも同じ神が語った言葉であり、すべて成就するものです。




第1章11〜16節

11節 主のことばがまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝を見ます」。
12節 主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ」。
13節 主のことばがふたたびわたしに臨んで言う、「あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています」。
14節 主はわたしに言われた、「災いが北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」。
15節 主は言われる、「見よ、わたしは北の国々のすべての民を呼ぶ。彼らは来て、エルサレムの門の入り口と、周囲のすべての城壁、およびユダのすべての町々に向かって、おのおのその座を設ける。
16節 わたしは、彼らがわたしを捨てて、すべての悪事を行ったゆえに、わたしのさばきを彼らに告げる。彼らは他の神々に香をたき、自分の手で作った物を拝したのである。


 エレミヤが見た最初の示現は、アロンが杖(民数記17章1〜10節)に使ったあめんどうの枝です。あめんどうの枝が選ばれたのは、春になって一番先に芽吹く木であることが理由となっています。あめんどうの木が急いで花咲くように、エレミヤを通じて与えられた神の言葉も成就を急いでいました。次に、「煮え立っているなべ」の示現が示されていますが、それは煮えたぎる大なべの中身のように、イスラエル北王国からあふれて来てユダを襲う災難や苦しみを象徴しています。16節の香をたくというのは祈りの象徴であり、神の非難は単に偽りの神々に香をたくという儀式を指すものではありませんでした。民衆は神よりも偽りの神々に助けを求めていたので、ますます神から遠ざかって邪悪な悪行に耽っていきます。




第1章17〜19節

18節 見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。
19節 彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである。」と主は言われる。


 神はエレミヤに、しっかり立って心を引き締めて、人を恐れずに神の言葉を宣言せよと命じました。民衆の罪を非難すれば襲ってくるはずの猛攻撃にエレミヤが動じないように、神は彼を無敵の町にたとえています。




第2章1〜19節

1節 主のことばがわたしに臨んで言う、
2節 「行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地で、わたしに従ったことを覚えている。
5節 主はこう言われる、「あなたがたの先祖は、わたしになんの悪い事があるのを見て、わたしから遠ざかり、むなしいものに従って、むなしくなったのか。
7節 わたしはあなたがたを導いて豊かな地に入れ、その実と良い物を食べさせた。しかしあなたがたはここにはいって、わたしの地を汚し、わたしの嗣業を憎むべきものとした。
9節 それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。またあなたがたの子孫と争う」と主は言われる。
13節 「それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を鋳れておくことのできないものだ。
19節 あなたの悪事はあなたを懲らしめ、あなたの背信はあなたを責める。あなたが、あなたの神、主を捨てることの悪しくかつ苦いことであるのを見て知るがよい。わたしを恐れることがあなたのうちにないのだ」と万軍の神、主は言われる。


 この部分には、イスラエルの霊的成長とその行く末の筋道が書かれています。2〜3節には最初の頃の献身と義、4〜13節は背教について記されてあり、神は自身にどんな悪い事があって民が離れていくのかを聞いています。神の要求は、邪神の子ども生贄よりも遥かに軽く従いやすいものであるのに、人は邪神に流されていきました。14〜19節には背教の悲惨な結果を示して、神の民は神を捨てて「遠ざかり(5節)」、「その栄光を益なきものと取り替えた(11節)」ことが記されています。

 13節には、ユダが犯した2つの罪が例えで語られています。1つは、生ける水(生命)の源(エホバ)を捨てたこと、2つ目は水(生命)を入れておけない壊れた水ため(異教の神々)を掘ったことです。それから比喩を変えて、神はイスラエルがナイルやユフラテの水を飲んだと言いました。これは民衆がエジプトバビロンの霊の水を飲み、偶像礼拝の命のない水で満たされていたことを示しています。

 19節は、人は自分の罪のために罰を受けるばかりか、自責の念に苦しめられるという大事な真理を教えています。「わたしを恐れることがあなたのうちにないのだ(19節)」という言葉は神に対する恐れを言いますが、ヘブライ語の「恐れ」には深い畏敬の意味が含まれています。もしこの当時のユダヤ人にこの恐れがあったなら、罪の結果から学ぶ必要はなかったでしょう。




第2章20〜37節


 エレミヤは鮮やかなたとえを使ってユダを糾弾しています。


あなたは久しい以前に自分のくびきを折り、自分の縄目を断ち切って(20節) 神はエジプトの拘束からイスラエルを解放した。
遊女のように(20節) ユダは偽りの神と、実際に不道徳な行為にふけることで、偶像礼拝または霊的な姦淫を犯していた。
悪い野ぶどうの木(21節) この野ぶどうは毒のある実に象徴され、ユダは悪いものを実らせてしまった。
たといソーダをもって自ら洗い、また多くの灰汁を用いても、あなたの悪の汚れは、なおわたしの前にある(22節) 汚れを取る最も強力な手段をもってしても、ユダの罪は消せなかった。
谷の中で(23節) この谷は、子どもたちをモレク神にささげた「ベン・ヒンノムの谷」であると考えられている。(エレミヤ7章31節)
その欲情のために風にあえぐ(23〜24節) このたとえは、発情期に暑さの中を行きつ戻りつするらくだやろばのように、イスラエルも偽りの神を求めて右往左往することを示している。
あなたの足が、はだしにならないように、のどが、かわかないようにせよ(25節) 世の人々を真似て、偽りの神々を礼拝しようし、民は家から夢中になってはだしで駆け出して、家にとどまってのどを潤そうともしない。
木に向かって、「あなたはわたしの父です」と言い、また石に向かって、「あなたはわたしを生んでくださった」と言う(27節) イスラエルは命を与えてくれる神々として、木や石の像を拝んでいた。
あなたが自分のために造った神々はどこにいるのか(28節) 神はユダに、滅びが迫っているからその造った偽りの神々に助けを求めよと挑んだ。
わたしがあなたがたの子どもたちを打ったのはむだであった(30節) 北王国の崩壊やアッシリアによるユダの包囲といった過去の裁きによっても、民は悔い改めに至らなかった。
あなたがたのつるぎは、・・・預言者たちを滅ぼした(30節) 民は、警告するために神から遣わされた預言者たちを殺した。
おとめはその飾り物を忘れることができようか(32節、33〜34節) 夫への貞節と忠実で身を飾る花嫁とはうってかわって、ユダという花嫁は一目でわかるほど汚れた着物を身に着けていた。イスラエルは悪の道に長けていたため、老練な邪神礼拝の娼婦にさえ数えることができるほどに邪悪な行いを続けた。




第3章12〜19節

12節 あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。
14節 主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである。町からひとり、氏族からふたりを取って、あなたがたをシオンへ連れて行こう。
15節 わたしは自分の心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う。
17節 そのときエルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここに集まる。すなわち主の名のもとにエルサレムに集まり、かさねて、かたくなに自分の悪い心に従うことはしない。
18節 その日には、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、北の地から出て、わたしがあなたがたの先祖たちに嗣業として与えた地に共に来る。


 エレミヤは、ユダの背教を非難する一方で、イスラエルが再び忠実な妻となって改心する将来に目を向けました。神は、慈悲深く、改心するには神に立ち返るだけでよいとイスラエルに語っています。神の約束には次のことが含まれています。


伝道とシオンへの集合(14節)
忠実な牧者(教会指導者)によって知識と理解とが与えられる(15節)
古い聖約の成就と新しい聖約の確立(16節)
義に立ち返るエルサレム(17節)
行方の知れない部族が北の方角から帰り、受け継ぎの地でユダの子孫と再会するイスラエルの集合(18〜19節、イザヤ11章16節、35章8〜10節、51章9〜11節)。



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