栄華の象徴 悪の象徴 無視された警告 ユダの降伏


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2004/ 6/ 5  ユダの降伏 UP
2004/ 6/ 4  無視された警告 UP
2004/ 6/ 3  栄華の象徴、悪の象徴 UP



栄華の象徴


 イスラエル北王国を征服し、10部族を捕虜にしてから何年も経たないうちに、アッシリア帝国は衰退の道をたどり始めました(行方知れ図の部族)。帝国南部にカルデヤ人とバビロニア人が台頭し、アッシリア人は急速にその勢力を弱めていきます。紀元前609年頃に、ナボポラッサル王はエジプトメデアと連合してアッシリアの都市ニネベを攻めて、勝利を収めました。征服した都市はバビロニアが支配国となって基盤を固めています。バビロニアはかつてのアッシリアのように、制圧と全住民の国外追放を組み合わせる施策を実行しました。

 ナボポラッサルの死後は息子ネブカデネザルが王位を継いで、バビロニアはネブカデネザルの治世化に最盛を極めています。彼は帝国各地からの奴隷を使って大建築計画に着手して、瞬く間にバビロンは世界最大の都市となりました。また、他国の征服と通商を通じて世界中の富がバビロンの蔵に流れ込み、ネブカデネザルはその富を、町を飾ることに費やしました。旧約聖書の預言書にある描写の言葉はバビロンの栄華をよく伝えています。ダニエルは、「この大いなるバビロン(ダニエル4章30節)」と呼び、エレミヤは、「全地の人の、ほめたたえた者(エレミヤ51章41節)」と言い、イザヤは、「もろもろの国の女王(イザヤ47章5節)」、「国々の誉」、「カルデヤびとの誇りである麗しいバビロン(イザヤ13章19節)」と呼びました。

 昔の歴史家たちはバビロンについて詳しく語り、こうした描写が単なる誇張ではなかったことを示しています。例えば2人の歴史家、ヘロドトスとディオドロス・シクルスは、想像を絶する巨大な壁があったと記し、サミュエル・ファローズという学者は、これらの紀元前の歴史家たちの信じ難い主張の数々は、現在の考古学によって裏付けられると書いています。

 「ヘロドトスは、この壁は幅84フィート(26m)、高さ336フィート(102m)であると主張した。壁の上の両側に小さな一軒家が建ち、なお中央に4台の戦車が並んで通るだけのスペースがあったとも主張した。ヘロドトスは現代批評家から散々にけなされているが、この壁は調査によって、ヘロドトスが述べたよりもまだ大きかったことが明らかになった。外の擁壁は23.5フィート(7m)で、焼きれんがを材料に、アスファルトで固めてあった。次いで砂利が幅69フィート(21m)にわたって敷き詰められ、それから内側の擁壁があり、その厚さは136.5フィート(42m)の幅であった。壁や城塞のれんがの多くは美しく彩色してあるというディオドロスの言葉もまた証明されている。」

 この巨大な壁は町全体を囲み、全長56マイル(90km)あって、13マイル(22.3km)四方であったとも言われています。

 バビロンの建造物で驚くべきものは城壁だけではありません。ネブカデネザルはアミュティスというペルシア王女と政略結婚をしていますが、エクバタナ周辺の山間の高地で育った妃がバビロンの平坦な平原がうとましく思っていると、ネブカデネザルは妻が故郷を偲んでいるのを見てバビロンの町の中に山を造ってしまいました。こうしてできたのが、古代世界7不思議の1つと言われる「バビロンの空中庭園」です。この驚くばかりの空中庭園についてサミュエル・ファローズは次のように記しています。

 「(空中庭園は)故郷エクバタナの周りの丘のような小高い森が欲しいという王妃アミュティスの願いにこたえて作ったものであり、彼女に対するネブカデネザルの思い入れのほどがよくうかがえる。バビロンはすべて平らだったので、この法外な希望をかなえるために人口の山が作られた。斜面は400フィート(124m)、順を追って壇を築き、頂上は城壁の高さ、つまり海抜300フィート(90m)を越えた。ひな壇式の壇から壇までは櫃一続きの階段なっていて、普通の角材を並べてできており、それが次々と重なって格壇に必要な高さまでアーチ形となり、全体は厚さ22フィート(6.7m)の壁で一つに固められていた。次に平らな壇の庭園は、以下のようにしてできた。

 角柱の最上段にまず縦横16フィート(5m)、4フィート(1.24m)平たい石を置き、その上にマッティングの床を敷き、それから天然アスファルトを厚く広げてれんがを二層に積み、それを鉛板で覆った。そうしてできた土台に土を盛り、大木の根に合うように空洞の大きな柱が作られて土が詰め込まれた。ふもと近くを流れるユフラテ川からは機械で水がくみ上げられた。クルティウス(V:5)は、全体は、遠くから見る人には堂々たる樹木の山に見えたと言う。ネブカデネザルはこの偉容を居室で休息を取りながら眺め、宮殿では自慢話の種としたことであろう。王は人に語ってこう言った。『この大いなるバビロンは、わたしの大いなる力をもって建てた王城であって、わが威光を輝かすものではないか(ダニエル4章30節)』。

 それは異教徒らの著述によっても十分証明される美景である。王は宮殿の庭園の頂上を歩きながら、かくも華麗に築き上げた町のまたとない展望を楽しむことができたのである。」




悪の象徴


 バビロンの富と栄光には道徳の退廃や悪や罪が伴なっていたので、そのためにモラルはあまりにひどくなり、バビロンの名前そのものが世俗的なもの、霊的罪悪、サタンの王国などの象徴として使われるようになりました。それは「大淫婦(黙示録17章1節)」であり、「淫婦どもと地の憎むべきものらとの母(黙示録17章5節)」と使徒ヨハネは記しています。非宗教史系統の歴史家からも、預言者たちが「バビロン」の名を、神と対立するものの象徴として用いた理由について、参考となる情報が提供されています。世界的に有名な歴史家ウィル・デュラントは、

 「飲酒で死んだほどのアレキサンダー大王すら、バビロンのモラルにはショックを受けた」

 と記しているほどです。また、サミュエル・ファローズもこの大都市を描写しています。

 「大帝国の中心地バビロンは、飽くなき奢侈(しゃし)の中心であり、その住民は放縦と退廃で知られていた。クルティウス(V:1)はこのように断言している。

 『この町のモラルほど腐敗したものはない。放縦な快楽への誘惑に満ちた場所はない。客を歓待するための儀礼は下品極まる恥知らずな欲望によって汚されていた。血縁の義理や敬意、尊敬のきずなは金によって断ち切られた。バビロニヤ人は酒に耽溺し、それに伴なう娯楽にうつつを抜かした。酒席にはべる女たちは、初めのうちは幾らか節度を示しているが、次第に羽目を外し、しまいには慎みを衣服とともにかなぐり捨てた。』

 バビロニヤ人はこのような由々しい罪悪に、預言者の口を通じて当然の罰の警告を受けたのである。また権力を振るう町の支配者の専横ぶりは、神の罰という大変な結果を身に招かないではおかなかった。積もる文献の中に、イザヤその他がこの痛ましい事柄について語っているが(イザヤ14章2節、47章1節、エレミヤ51章39節、ダニエル5章1節)、その緊張と勢いと恐怖に匹敵するものは見いだし得ない。」




無視された警告


 モーセの時代よりずっと以前に、アブラハムは神が「アモリびとの悪がまだ満ちないからと啓示されたとおりに(創世記15章13,16節)、イスラエルが奴隷となって約束の地を受け継ぐことができなくなることを予見しました。それは、まだアモリ人の中で大半の人数を占めたカナン人が、「罪悪が熟した」状態になっていなかったことを意味しています。しかしヨシュアがイスラエル人をカナンに導いたときには、カナン人がすでにひどく堕落していたため、神は彼らを滅ぼすようにと命じました(申命記7章1〜5節)。悪は必ず罰せられるということを理解しなければならなかったのは、預言者の存在する南のユダ王国の国民でした。彼らはアッシリアによる北王国の崩壊を目の当たりにし、彼ら自身はイザヤの言葉に従ったため、アッシリア軍から奇跡的に救われています(列王記下第19章32〜35節)。

 神は人を偏り見たりひいきしたりすることはないと教えているので(使徒10章34節)、従順な人は祝福を受けて、罪悪を犯した人はそれを失ってしまいます。カナン人が滅ぼされたのは、滅ぼされるほどの罪悪の極みに達していたからであって、いくら神に祝福されたユダヤ人であっても滅ぼされたカナン人のようであれば同じ運命をたどります(レビ記18章24〜28節)。

 しかしユダの国民は教訓を学ぶことはありませんでした。アッシリアが倒れて、新帝国のバビロニアが地歩を固めるまでの間に、圧迫は一時的に弱まりますが、ユダはすぐさま北の姉妹国と同様に偶像礼拝と邪悪な行いに耽っています。その有様は、マナセ王が人々をいざなって悪を行ったことは、滅亡したイスラエル北王国よりも悪かったと神から言われるほどひどいものでした(列王下21章9節)。当然ながらユダは、神の守りを得るという約束を失います。かたやバビロンでは世界制覇の野望に燃えていたので、神は民衆に預言者を遣わせて目前の破滅を警告しました。エレミヤエゼキエルの他に、ナホムゼパニヤハバククオバデヤたちや真鍮版の預言者リーハイ、または名の記されていない多くの預言者たちが召されています。

 紀元前640〜609年頃に統治していたヨシヤ王の下で改革の最後の試みがされていますが(列王記下22〜23章)、努力空しく短命に終わり、民衆は次第に神を捨ててしまいました。ユダの政治指導者は、エジプトに頼ってはいけない(エゼキエル17章15節)というエレミヤの度重なる忠告にもかかわらず、バビロンの新興勢力に対抗してエジプトの保護を求めています。このようにして、イスラエルの民の間に残った部族の捕囚という第2の悲劇が進行していきました。




ユダの降伏


 ヨシヤ王の後20年ほどの間に起きた出来事は、民衆の不従順の実が熟していく様子がよく示されている年代です。ユダエジプトバビロニアの政争に巻き込まれ、エホアハズが父王ヨシヤの跡を継いで引き続きエジプトの支配に抵抗しますが、貢を拒否したために地位を取り上げられてエジプトに移されました。エジプトの王パロ・ネコによってエホアハズの代わりに王位を与えられたのは、エホアハズとは異母兄弟であるエリヤキムです。彼は名前をエホヤキムと改名させられて、エジプトの傀儡となってユダを支配し、エジプトへ貢物を送るために民衆に重税をかけました(列王記下24章29〜35節)。

 エジプトはバビロニアの挑戦に満を持して立ち上がるも、紀元前605年頃のカルケミシの戦いで敗北し(エレミヤ46章2節)、それによってユダの民は新しい征服者の傘下に入りました。エホヤキムは3年間という取り決めで貢物を送った後に、民衆を解放しようと試みますが失敗に終わり、謀反を興した王たちはバビロンへ流刑になってしまいます。この王の罪悪がユダ国民を堕落を助長しました。エホヤキム王の後継者はまだ年若い息子エホヤキンでしたが、バビロニアへの反抗もわずか3ヶ月で挫折しています。

 バビロニア人はユダの指導力をそぐために、知識人や技術者、宗教家の多くを追放し、その中にはエホヤキン王も含まれていました。彼に代わって王位に就いたのが、父王ヨシヤの兄弟、叔父のマッタニヤと呼ばれていたゼデキヤで、彼はバビロンの王に名前を改めさせられています(列王記下24章14〜17節)。ゼデキヤ王は隷属の王としてバビロニアに忠誠を誓いますが、やがて国民の間に隷属の重みに反抗して愛国精神が燃え上がるという、抵抗の気運が生じてきました。バビロン内部の反乱はユダに対する管理の手をひるませ、民衆の間に高まる愛国心を見たゼデキヤは、バビロニアによる北の勢力に逆らって応援をエジプトに求めます。

 しかし、国内の反乱を沈静バビロニア人は、迅速に復讐に打って出てきました。エルサレムは包囲され、ユダの地の他の砦は攻撃を受けて崩れ去り、他の地が陥落した後もエルサレムの包囲は続き、包囲によって生じた惨状は想像を越えるものとなってしまいます。その惨状を有様を目の当たりにした目撃者は次のように記録しました。

 「ああ、黄金は光を失い、純金は色を変じ、聖所の石はすべてのちまたのかどに投げ捨てられた。ああ、精金にも比すべきシオンの子らは、陶器師の手のわざである土の器のようにみなされる。山犬さえも乳房をたれて、その子に乳を飲ませる。ところが、わが民の娘は、荒野のだちょうのように無慈悲になった。乳のみ子の舌はかわいて、上あごに、ひたとつき、幼な子らはパンを求めても、これに与える者がない。うまい物を食べていた者は、落ちぶれて、ちまたにおり、紫の着物で育てられた者も、今は灰だまりの上に伏している。(哀歌4章1〜5節)」。

 「つるぎで殺される者は、飢えて死ぬ者よりもさいわいである。彼らは田畑の産物の欠乏によって、刺された者のように衰え行くからである。わが民の娘の滅びる時には情け深い女たちさえも、手ずから自分の子どもを煮て、それを食物とした。(哀歌4章9〜10節)」。

 聖書史家ハリー・トーマス・フランクは、この民と町の終焉について次のように記しています。

 「587年の7月、ゼデキヤは町を明け渡して苦難に終止符を打とうとした。10年前に一度、バビロニヤ人が当時としては法外な慈悲をもってエルサレムを扱ったことがあった。しかし時は違う。今回は陰謀の首謀者をつぶそうというのである。食料は底を突いていた。その夕方にバビロニヤ人兵士が町になだれ込み、ゼデキヤと側近数名はヨルダンへ向かい、砂漠に逃げ場を求めた。しかしエリコの辺りで、敵に捕えられた。ネブカデネザルシリアの本陣におり、ユダ族と息子たちはそこへ連れて行かれた。ヘブライの王に、もはやエホヤキンのような優雅な逃亡生活は望めなかった。ゼデキヤはバビロンの大王の前に引き出されて、息子たちを眼前で殺され、自分は目をえぐられ、足かせを付けられ、北へ連行された。

 その間にエルサレムはバビロンの手に渡っていた。バビロニヤ人が町の中に見たもの、また彼らがそれに加えた仕打ちは、想像に難くない。いささか驚きに価することだが、このとき、町陥落後の処置が前もって決まっていなかったらしい。非常な苦しみの中で、まったく神に見捨てられたと感じたに違いない。この民にさらに恐怖と恥辱の1ヶ月が望んだ。そして、ネブカデネザルの侍衛長で重臣のネブザラダンがエルサレムに到着した。彼が携えてきたのは良い知らせではなかった。彼の命令で、国の高官や各分野で指導的地位にある人々がシリアの本部であるリブラに送られ、死刑にされた。そのほかの者は集められてバビロニヤへと連れ去られた。エレミヤ52章29節には、その数が832人とある。しかしこれは明らかに成人男子だけで、しかもエルサレム市民だけを対象にした数のようである。強制追放者数ははるかに大勢であった。

 ついに城壁は倒され、1年半の籠城と、1ヶ月に及ぶ占領と、ネブザラダンがもたらした恐怖の後に残ったものは、すべて焼き尽くされた。煙がユダの丘に重く垂れ込め、ゆっくりとオリブ山を越えてヨルダンに近い荒野まで流れていったのは、これが最後ではなかった。しかしこの日、587年の夏の炎天下に立ち上るのは、ユダの火葬の煙であった。」 (列王記下第25章1〜7節第25章18〜26節第25章27〜30節




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