アモス書 第1〜4章研究解読



第1章1節 第1章2節 第1〜2章
第2章4〜16節
第3章1〜8節 第3章12〜15節



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2004/ 6/18  第1〜2章 UP
2004/ 4/ 4  第3章12〜15節 追加
2001/ 5/12  第2章4〜16節、第3章1〜8節 、12〜15節 UP
2000/ 6/16  第1章2節 UP
2000/ 6/15  第1章1節 UP




第1章1節

1節 テコアの牧者のひとりであるアモスの言葉。これはユダの王ウジヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、地震の2年前に、彼がイスラエルについて示されたものである。


 ヘブライ語のアモスという名の意味は「運ぶ者」とか、「荷、責任」で、神がアモスにイスラエルの国に携えていくよう託された重大な勧告を示唆しています。アモスは、今はベツレヘムの南方約10キロの昔の廃虚がある小山の頂上にあり、普通の商業道路から外れていますが、その場所にあったテコアという町の羊飼いでした。テコアは死海西方、エルサレムとヘブロンの間に位置しています。テコアは片田舎の小さな町でしたが、レハベアムがベツレヘムに対する南の要害都市に選んだことからわかるように(歴代志上11章6節)、戦略上重要な町です

 アモスは国民や国々を緻密に観察しており、自分では平凡な牧者であると言っていますが(1章1節、7章14〜15節)、彼が無学な田舎者とは程遠い人物であったことは、学者たちの一致した見解です。時代を同じくするユダウジヤ王とイスラエルのヤラベアム2世の統治についてこの書にはっきり語られているので、アモスは紀元前750年頃の人であると考えられており、そうだとするならば、イザヤホセアと同時代の人である可能性があります。




第1章2節

2節 彼は言った、「主はシオンからほえ、エルサレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂きは枯れる。」


 この書き出しは、ライオンの咆哮や牛の鳴き声、家畜の声に聞きなれていた牧者の言葉とすればごく自然です。森から聞こえるライオンの唸り声は実に恐ろしいものであり、それには人も動物も異常な恐怖に襲われます。つまりアモスが言いたいのは、主の声はライオンに例えられるように地上の人々に語るということです。その声は神を信じている人にさえ、恐ろしいものとして聞こえることでしょう

 シオンという語は、シオンという名の丘があったエルサレムを指すことがありますが、いつもそうとは限らないことは、ヨエル書3章16〜17節、イザヤ書2章3節、40章9節、64章10節の聖句が示す通りです。この内、イザヤ書の2章と64章はキリスト再臨する前の出来事を指しています。このシオンはアメリカ大陸に建てられると言われています。




第1〜2章


 アモスはイスラエル周辺の国々に下る裁きを宣言していますが、その原因については聖書にそれほど明確に記されていないので、一読した位ではなかなか理解できず、戸惑いを感じることがあります。いかに裁きが重要であっても、1つの悪い行いで国中にの裁きが果たして下るものであるのかという疑問が生じてきます。アモスの預言書は霊感を受けて詩的な表現を用いています。アモスが罪悪の一例として採り上げた行為や特徴は、各国の堕落の状態が的確に示されています。採り上げられた行為の1つ1つが、その国が邪悪の淵にどれほど深く沈んでいたのかという証明です。下の表は、アモスの表現と意味をまとめたものです。


国名 指摘された理由 意味
ダマスコ
シリア人)
「鉄の板で、ギレアデを踏みにじった。」
(第1章3節)
 ギレアデはヨルダン川東岸の土地の一部で、ガドルベンマナセの部族に割り当てられていた(申命記3章10〜13節)。ハザエルのもとでシリア(スリヤ)人がこの地を征服したとき(列王記下10章32〜33節)、鉄のすり板で捕虜を押しつぶし、残忍、野蛮なやり方で虐待した。(サムエル下12章31節)。
ガザ
ペリシテ人)
エドムへ「人々をことごとく捕えて行っ」た。
(第1章6節)
 ここはユダの王ヨラムの時代に、ペリシテ人がユダを襲った時のことを指していると考えられている(歴代志下21章16〜17節)。ペリシテ人は捕虜全員をイスラエルの敵であったエドムに人に売った。
ツロ、テュロス
フェニキヤ人)
イスラエルの捕虜をエドムに渡した。
(第1章9節)
 フェニキヤはガザと同じようにイスラエル人を奴隷として売った。ツロが直接イスラエル人を売ったという記録はなく、恐らく、フェニキヤはシリアなどイスラエルの敵国から捕虜を買い、それをエドムに売ったと推測されている。
エドム
(イドマヤ人)
剣をもってその「兄弟」を追い、その憤りを保った。
(第1章11節)
 エドム人は、エドムと呼ばれたイサクの双子の兄弟エサウの子孫である(創世記25章30節)。エドムはイスラエルの兄弟にあたる近親であったが、憎悪と敵意しか示さなかった。エドム人はイスラエル最大の仇敵の1つとなっていた。
アンモン
(アンモン人)
首都ラバ
「ギレアデのはらんでいる女をひき裂いた。」
(第1章13節)
 ここで述べられている出来事は旧約聖書には記されていないが、アンモン人は気性の荒い民族で、しばしばイスラエルの土地を征服した。妊娠している婦人を殺すなどなどは、とりわけ野蛮な性質を表す記述である。
モアブ
(モアブ人)
モアブの王が、エドムの王の骨を焼いた。
(第2章1節)
 王の骨を焼くという行為は、生きたまま焼くのではなく、遺体を焼いて灰にすること、徹底的に焼き尽くして灰のような粉にすることである。旧約聖書にはこの出来事について何の記録も残っていないが、これが列王記下第3章に記されている戦いに関連していると見られている。そこには、イスラエルの王ヨラムとユダの王ヨシャパテがエドムの王と連合してモアブ人を攻めたことが書かれている。従ってヒエロニムスがユダヤ人の伝承として伝えた話である、この戦いの後にモアブ人がエドムの王の骨を墓から掘り起こし、それを粉になるまで焼いて卑しめたという話は、根拠にかけるものではなくなっている。




第2章4〜16節

4節 主はこう言われる、「ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが歩いた偽りの物に惑わされたからである。
5節 それゆえ、わたしはユダに火を送り、エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす」。
6節 主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。
7節 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。
8節 彼らはすべての祭壇のかたわらに質にとった衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。
9節 さきにわたしはアモリびとを彼らの前から滅ぼした。これはその高きこと、香柏のごとく、その強気こと、かしの木のようであったが、わたしはその上の実と、下の根とを滅ぼした。
10節 わたしはまた、あなたがたをエジプトの地から連れ上り、四十年のあいだ荒野で、あなたがたを導き、アモリびとの地を獲させた。
11節 わたしはあなたがたの子らのうちから預言者を起し、あなたがたの若者のうちからナジルびとを起した。イスラエルの人々よ、そうではないか」と主は言われる。
12節 「ところがあなたがたはナジルびとに酒を飲ませ、預言者に命じて『預言するな』と言う。
13節 見よ、わたしは麦束をいっぱい積んだ車が物を圧するように、あなたがたをその所で圧する。
14節 速く走る者も逃げ場を失い、強い者もその力をふるうことができず、勇士もその命を救うことができない。
15節 弓をとる者も立つことができず、足早の者も自分を救うことができず、馬に載る者もその命を救うことができない。
16節 勇士のうち雄々しい心の者もその日には裸で逃げる」と主は言われる。


 ユダイスラエルが罰を受けた理由は、異邦の国々とは違っていて、を捨てて悪についたという以外何の行為も述べられていませんが、しかし彼らには神の律法が与えられており、そのため他の民族よりももっと多くのことが期待されていました。「弱い者の頭をちりに踏みつけ(7節)」というのは、弱い者に正義も慈悲も示さず、追害ばかりしている人々のことを言っていて、彼らは頭にちりをかぶっている惨めな状態にいる弱者を「見たがっていた」ということを示しています。11〜12節は、信仰の霊的な本質を示すために、神から定めを与えられていた(民数記6章2〜21節)ナジル人のことを言っています。

 アモスは、ナジル人に酒を勧めて彼らを汚したことでイスラエルを責めており、また、預言者たちに預言するなと命じたことも咎めています。イスラエルが銘々勝手気ままに心地よく暮らせるよう、神の僕を無視したことは明白となっており、結果数々の災いを自分たちで招きました。




第3章1〜8節

1節 イスラエルの人々よ、主があなたに向かって言われたこと、わたしがエジプトの地から導き上った全家に向かって言われたこの言葉を聞け。
2節 「地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った。それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたを罰する。
3節 ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。
4節 ししがもし獲物がなかったなら、林の中でほえるだろうか。若いししがもし物をつかまなかったなら、その穴から声を出すだろうか。
5節 もしわながなかったなら、鳥は地に張った網にかかるだろうか。網にもし何もかからなかったなら、地からとびあがるだろうか。
6節 町でラッパが鳴ったなら、民は驚かないだろうか。主がなされるのでなければ、町災いが起こるだろうか。
7節 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
8節 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう、主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。


 アモスは、イスラエルの全家、すなわち12部族のすべてに目を向けて語っていて、神は夫のたとえを使って、ほかにはだれも選んでいないことをイスラエルに念押ししています(2節、申命記7章6節)。また神は自分自身を「誠実な夫」と表現し、自分との聖約を思い出すようにとも言っています(エレミヤ第3章12〜19節)。3節では、2人は一致しなければならないことを語っており、2〜6節に挙げられているたとえは、どれも同じようなことを表しています。つまり、神はあらゆる惨禍を前もって知っていますが、


あらかじめ預言者にそのことを知らせてからでなければ、災いを下さない


という、聖書における重要なことを示しています。このことから、預言者は現代に存在しないという根拠にはならないどころか、


現代にも預言者は存在すると、聖書自体が証言していることになります。


 箴言29章18節にも、預言が人類に必要だと言っている部分があります。




第3章12〜15節

12節 主はこう言われる、「羊飼いがしの口から、羊の両足、あるいは片耳を取り返すように、サマリヤに住むイスラエルの人々も、長いすのすみや、寝台の一部を携えて救われるであろう。
13節 万軍の神、主なる神は言われる、「聞け、そしてヤコブの家に証言せよ。
14節 わたしはイスラエルのもろもろのとがを罰する日にベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折れて、地に落ちる
15節 わたしはまた冬の家と夏の家とを撃つ、象牙の家は滅び、大いなる家は消えうせる」と主は言われる。


 逃れるものがほとんどなく、たとえ逃れるとしても非常に困難なことを示すのに、アモスは生き生きとした比喩を使っています。それは羊をししに奪われて、ただ羊のものと分かるだけの両足と片耳しか取り返せない羊飼いのようであると表現しました。この預言は、紀元前721年頃に、サルゴン王が北王国の一部であったサマリヤを支配するに至って成就したとも言われています(列王記下第15章5節)。

 東洋において隅は最も誉ある場所とされていて、従って部屋の隅にある長いすは非常に重要な場所です。このような言葉が使われたのは、イスラエルのサマリヤであれシリアダマスコであれ、土地の最も栄えある場所であった都市の中にあってさえ、裁きを逃れる者は一人としていないことを意味しています。当時神は、祭壇の角を折ることで象徴されるように、その力をイスラエルから移そうとしました。14節にあるベテルは宗教的な意味においてイスラエル北王国の正式な首都でした。預言者は、田舎の貧しい住まいが撃たれるばかりではなく、象牙の器を彫刻で飾られた夏冬の家を持つ高貴な人々の住居も撃たれると言っています。



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