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2001/ 8/15 UP



 聖書には、アブラハムという人物がいかに神の試しに非凡に応えたかが書かれてあります。この試練を自分に置き換えて心に留めるのであれば、おそらく相当な理解が得られるでしょう。ある教会指導者は次のように言いました。「それゆえ、彼らは必ず懲らしめを受け、自分の独り子をささげるように命じられたアブラハムのように、試みられなければならない。懲らしめに耐えないで、わたしを否定する者は皆、聖められることはあり得ないからである」。これに先立つこと数ヶ月前に、次のことが言われています。

 「神は忠実な者に対して、教訓に教訓、規則に規則を加えるからである。そして、わたしはこれによってあなたがたを試み、あなたがたを試そう。また、わたしの名のために、わたしの大儀において自分の命を捨てる者は、再びそれを見出すであろう。すなわち、永遠の命を見いだすであろう。それゆえ、あなたがたの敵を恐れてはならない。あなたがたがふさわしいと認められるように、死に至るまでもわたしの聖約の中にとどまるかどうか、あらゆる点であなたがたを試すことを、わたしは心の内に定めたからである、と主は言う。もしあなたがたがわたしの聖約の中にとどまらなければ、あなたがたはわたしにふさわしくないからである。」

これは極めて厳しい基準のように思えます。なぜ懲らしめられ試されないうちは、聖くなれないのでしょうか。なぜ神にふさわしい者となるために、死に至るまで喜んで聖約を守らなければならないのでしょうか。この疑問に答え、なぜアブラハムが信仰のあることを証明しなければならなかったかについて、より深い理解を得るために、ここで永遠の見地とは何かを議題として考えてみましょう。

 あらゆる面で完全ではない人物が神になったときの悲惨な結果を想像してみてください。極度の緊張に堪えられないような神に支配されて、宇宙は存続できるでしょうか。独り子が十字架に向かうのを見守るという苦痛に、神が耐え抜こうという気持ちを持たなかったとすれば、人々は今頃どうなっていたことでしょうか。もしアブラハムが神の試しに耐えられなかったら、その地位を失っていたことてしょう。もし父なる神が同じ試しに耐えられなかったら、贖罪というものも存在せず、全人類が神の前から落ちて、先に落ちた悪魔たちに従って文字通り悪霊となってしまうに違いないでしょう。

 アブラハムの受けた試練は、別の面でも人々にとって大きな意義を持っています。それを理解するために以下の論法に従って慎重に眺めてみることをお勧めします。これにより、人がいかにして救いに至る信仰を深めることができるかが分かることでしょう。


その一

人が信仰を持ちたいと望むなら、3種類の知識が必要ですが、その前に落ちついて
理性を取り戻しておくことが必要です。荒んだ心では何事も理解し得ません


神が実際に存在しているという認識。
神の性格、完全な能力、属性に関して正しい知識を持つ。
自分の進んでいる人生の道が神の意志に沿っているという確かな知識。


 これら3つの大切な事実を知らないと、理性的な人の信仰は例外なく不完全であり、確実な実りはもたらされることはありません。しかし、これを理解してさえいれば、信仰はより完全に近くなり、自分の理想を信じて行うために人生の夢は実現の兆しを見せてきます。また、それらの兆候が、成功しているという確固たる自信につながるために、信仰が強固になって再び成功への強い前進となり、という信仰を育てる良い環が成長してきます。


それら神による信仰と成功は、義に満ち溢れて、父なる神と救い主イエスを褒め称えるようになります



その二

自分の生活が神とって喜ばしいものであるという知識は、信仰を深める上で重大です。


 誰であっても、自分の進んでいる人生が神の御心に従ったものであるという確固たる知識を持つことは、人が神を信じるようになるために、是非とも必要なことであると言われています。この信仰なくして、人は永遠の命を得ることはできません。古代の聖徒たちが困難や追害に耐えることができたのも、自分たちの物が損害を受けても黙って忍んでいることができたのも、この信仰があったためであり、自分たちにはまだ耐えることのできる基盤があることを、単に信じていたということではなく、知っていたからに他なりません。

 人が、自分の人格、評判、名誉、賛辞、世間での名声、家、土地、親類、妻子、ひいては自分の命といった、あらゆるものをささげるためには、言い換えると、イエス・キリストについての知識を持つことに比べれば、正しい信仰をを得なければそれらは価値のないものにすぎず、またそれを認識するには、単なる信仰、あるいは自分は神の意志に沿っているという憶測以上のものを必要とします。すなわち、


こうした苦難が終わる時には、永遠の休息に入り、神の栄光にあずかる者になれるという確固たる知識が必要


 であるということです。


その三

自分の生活が神とって喜ばしいものであるということを知る唯一の方法は、
神の求めていることに対しては何でも喜んで犠牲を払うことが必要です。


 犠牲というと生臭いイメージを思い浮かべがちですが、本来はそのような意味ではありません。古代ではキリストの予形としての動物の燔祭がありますが、現代ではそのような犠牲を求められることはありません。例えばオリンピック選手になりたい人は、生活のほとんどの時間を練習に使いますが、そのような人はオリンピック選手になるために「生活を犠牲にしている」と言うことができます。ここではこのような意味で「犠牲」という言葉を使用していきます。

 あらゆるものを犠牲にすることを求めない宗教は、命と救いを得るに必要な信仰を人々に持たせることはできません。それは人類存在の当初から、命と救いを享受する上で欠くことのできない信仰が、この世のあらゆるものを犠牲とせずに得られたことがないためです。


神が人に永遠の命を享受させるのは、人が犠牲を払うときであって、この犠牲をおいて得ることはありません


 また人は、この世のあらゆるものを犠牲にして初めて、自分が神の目から見て喜ばしいことを行っていることを知るようになります。人が犠牲として、持てるすべてを、命までも真理の為にささげて、神の前に、自分が犠牲をささげるように求められているのは、神の意志を行うことを望んでいるからだと信じるようになって初めて、神が自分の犠牲やささげ物を受け入れてくれる、また神にまみえたいとむなしく望んできたのではなく、今後もむなしく望むことはないという事をはっきりと知ることができるようになります。

 こうした条件が整ってこそ、永遠の命を得るために必要な信仰が得られます。


その四

 神の求める犠牲を喜んで払おうとしないときには、その程度に応じて、神を信じる信仰を持つ力が弱まります。神にこの種の犠牲をささげたことのない人は、自分の歩んでいる道が、神の目から見て喜ばしいものであるということを知らずにいます。その信仰や意見がどんなものであれ、その人の心の中には疑いや不安があることでしょう。そして、疑いや不安があるときには、信仰は存在しないし、存在するはずもありません。それは、疑いと信仰は同時に人の中に存在できないからです。それゆえに心に疑いや恐れを抱く人は、揺るぎ無い確信を持つことはできず、揺るぎ無い確信がないところでは信仰も弱くなってしまいます。また、信仰が弱いところでは、人は反対や苦難や苦悩と戦うこともできません。

 ところが神のものを相続し、キリスト・イエスと共同相続人になるためには、こうしたものに必ず遭遇し、これに耐えられない限り、そのような人々は心も弱まってしまい、悪魔の支配を受けて滅ぼされてしまうことでしょう。


 ここで、この論法をアブラハムの場合にあてはめると、次のような質問ができあがります。

神がアブラハムに確固たる信仰を祝福として授ける前に、アブラハムは何をしなければならなかったか。
アブラハムは自分の生活が、神にとって喜ばしいものであるということを知っていたがそのこととイサクをささげたこととは、どのような関係があるか。
アブラハムの受けた試練は、祝福だったと言えるだろうか。もし言えるなら、どのような点でそれが言えるだろうか。


 ある教会指導者は、なぜアブラハムが試されたかについて次のように述べています。上記の質問の参考にするとよいでしょう。

「なぜ主はアブラハムにこのようなことを求められたのであろうか。アブラハムの将来がどんなものか知り、また、彼が数知れない人々の父祖となることを知っていたので、主は彼を試すことに決められたのであった。主は御自分のためにこのようなことをされたのではなかった。アブラハムがどうするか、あらかじめ知っておられたからである。この試しの目的は、アブラハムの心に教えを深く刻み付けるためであり、
この方法でしか得ることの出来ない知識を、アブラハムに得させるためであった。これこそ、主がわたしたち全て人に試しを与えられる理由である。主が知識を得られるためではない。主は初めからすべてのことをご存知だからである。

 主は、あなたたちの生涯をすべて御存知だし、あなたたちがこれからすることもことごとく御存知である。しかし、主はわたしたちが自分で知ることができるようわたしたちのために試しを与えられる。人が自分で知ることこそ、最も大切なことだからである。

 主はアブラハムにこの試練を甘んじて受けるよう望まれた。アブラハムに栄光と昇栄と誉れとを授けようとされたからである。アブラハムを王とし、祭司とし、御自分の所持し行使しておられる栄光や権能や主権を分かち与えたいと考えられたからである。」


 この試みの遥か前に、神がアブラハムの良い性格をあらかじめ知っていたことに注目しておきましょう(創世記18章17〜19節)。神はあらかじめアブラハムについて知っていましたが、そのことと、神が全人類、またはこれを読むあなたを知っているということは、どれほどの違いがあるでしょうか。アブラハムも神の前ではただの人であったことにかわりはありません。



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